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尊いもの 1

 事業税、住民税、国民健康保険料の納付書が相次いで届いたのは、正月気分が抜けた一月一〇日過ぎのことだった。通常この時期に送られてくることのない役所からの封書に小春は面食らった。修正申告をしたのはついこの間のことなのに随分早く来る。

 品行(ひんこう)方正(ほうせい)な封筒を開けると、清廉潔白(せいれんけっぱく)な淡色の納付書が、相変わらず難解な説明書きと共に入っていた。納付書はすべて三枚ずつある。2008、2009、2010年分だ。所得税が追加されたのだから、それらも追加されるのは当然の流れだった。

 ある程度の覚悟はできていたつもりだったが、その総額を目にした時にはしばらく声が出なかった。予定納税の襲来を受けた、あの時の衝撃を彷彿させた。ただでさえ大打撃を受けているのに、追い打ちをかけるようなその仕打ちに、もはや地団太を踏む気さえ起こらなかった。

 各役所の窓口にすぐさま連絡し、分納の申し込みをした。どの窓口もわりと早く対応してくれて、すぐに分納用の新しい納付書が届いた。事業税は四回、住民税と国民健康保険料は五回払いということになった。住民税と国民健康保険料については今月末からさっそく支払いが始まり、事業税は来月末からということになった。すべてを払い終わるのは、順調に行けば五月末。夏には自由の身になれる計算だった。夏が、随分遠くにあるような気がした。

「なんだかねぇ……」

小春は各納付書を月毎にまとめながら独り言を言った。受け入れなければならない現実と、日々静かに向き合っていた。最近ため息が多いことなど自分でもわかっている。だが、次々と立ちはだかる苦難に、どうしても出てしまうのだった。

「あーあ……」

杉木はため息をついた後、舌打ちをした。

「あいつ――あいつ今頃、暖かい所で茶でも飲んでるんだろうなァ」

古林のことだ。

「あーあっ」

今度はふてくされるように言って、片肘ついて頬杖をした。右手でしきりにペン回しをしている。

「出世してたりしてね」

小春が言うと杉木は顔をしかめた。ああっ、と再び声を荒げる。

「思い出したらなんか腹立って来た」

ますます塩っ辛いものでも食べたような顔をしてそう言うとペンがはじけて跳んで、杉木はまた舌打ちした。

 あ、と小春は思い出す。

「ヨウちゃん、そういえばさ、年末にあいつ来てたんだよ」

「あいつって?」

「古林」

 杉木はペンを置いた。

「私も気がつかなかったんだけどね――」 

年末の混みあっているさなか、町宮が耳打ちしたのだ。店前に停まるセダンの運転席で背を丸める男は、紛れもなく古林だった。後ろで中学生か高校生か、娘らしき女の子が携帯をいじっているのが見えた。その隣にいたのはおそらく息子なのだろう。大学の冬休みに帰省したというふうで、古林とミラー越しになにか話していた。

「いつも玄関に飾る花を買いに来る人、いるじゃない。結構昔から来てる人よ。髪がこのくらいで色白で、『お花が無いと寂しくって』って言う人」

 ああ、と杉木はすぐに頭に浮かんだようだった。

「あの、ちょっとぽっちゃりした感じの? 前にみかんくれた人?」 

「そうそう、そうなの。感じのいい人よ。あの人が、どうやら奥さんみたいなのよ。そういえばあの人、コバヤシっていうんだよね。前に一回聞いたことあるもん。コバヤシって『小さい林』だと思い込んでたけど、『古い林』だったんだね。知らなかったねぇ」

 スーツを脱いだ古林は、なんの変哲もないただのおじさんだった。息子と話す横顔は、普通のお父さんだった。小春をじりじりと追い詰めたあの慎ましやかなオーラを、今は幻のように感じる。

「あの日奥さんがアレンジを予約してて、それを取りに来たのよ。要は、家族みんなで実家に帰る、みたいなことだったんだろうね。仏壇用のアレンジを手土産にしてさ」 

 杉木はペンを鼻と上唇の間に挟んで、ふーん、と言った。

「ま、忘れましょ、あいつのことなんて」

「いくらだったの?」

ペンを乗っけたまま杉木が聞く。

「値段? アレンジの?」

 杉木は軽く頷いた。

「ああ、五〇〇〇円よ」

「なんの花で作った?」

 小春は思わず、ふ、と笑った。

「やだ、なあに? 大丈夫よ、すっごい素敵に作ったから。奥さん喜んでたよ。古林もきっと腰を抜かしたわよ」

 杉木はペンで遊びながら、目の中に満足の色をうっすら浮かべ鼻で笑った。

「確かねぇ、アプリコットっぽい大きいラナンキュラスでしょ、渋茶のカラーでしょ、フリルのパンジーと、あとはねぇ――忘れた。あの奥さん花が好きだから、珍しい花使ったんだよね、確か」

 へー、と杉木は回転椅子を揺らす。キュルリキュルリとリズミカルに鳴った。

「ま、古林もお父さんってことだよ。教育費とかローンとか……いろいろあるのかな」

小春は言いながら、そういえば、とまた思い出した。いつかの記憶の断片がよみがえる。

「なに」

「いつだったか奥さん、言ってたなぁと思って。『主人が今入院してて……』とか――なにか手術したんじゃなかったっけ」

「あー……」

「あれって確か胃潰瘍……そうだ、胃潰瘍だ」

「あぁ」

「胃潰瘍ってあんまりひどいと血ぃ吐いたりするらしいね。やっぱりいろいろストレスとか――」

そこまで話して小春は口をつぐんだ。「あったのかねぇ」と言いながら、なんとなく椅子を回して杉木に背を向ける。

 どう足掻いても、税金を払うことはもう決定事項なのだ。今更どうこう言ったところでなにも変わりはしない。古林の背景に触れると、なんだか自分は大きな大きな社会を形成している小さな小さな一ピースに過ぎないのだという気持ちが湧いてくる。そして同じようにきっと――古林も。社会って……いったいなんなんだろう。

 グラスに挿されたブルースターは優しい水色をまとって順に咲き進む。名の通り青い星の姿をしている。終わりが近づいた下部の花には桜色が差し、水彩画のように静かに滲んでいた。

 一月一〇日締めの請求書を手にとる。暮れの仕入分はこの前払い終えたばかりなのに、もう新しい請求書が手元にある。無意識にため息が出た。

 背後で杉木の静かな息が聞こえる。椅子がギギ、と(うめ)く。

 小春は、よし、と手を叩いた。「やろっか」と振り返る。「えいえい、おー」とゆるい拳を上げ上唇を突き出しペンを乗っけておどけてみせるが、杉木は笑わなかった。

 杉木はため息を吐きがっくりと大袈裟にうなだれる。『あ』に濁点でも付けたようなそのため息は、フラストレーションを溜めた大人のものであると同時に、ふてくされて泣き出しそうな子供のもののようでもあった。

「一四七万かよぉ……」

杉木は不満がどうも上手く拭いきれない様子だ。

 小春はペンを置く。もしお金持ちになったらどうする? と言うと、杉木の貧乏ゆすりが止まった。

「これってさ、チャンスなのかもよ、ヨウちゃん。お金の勉強よ。こんな経験なかなか出来ないわよ。貧乏人がお金持ちになって行く話、よくテレビでもやってるじゃない。私、ああいう話、結構好き」

楽しい話をすれば自分の負けそうな心も上を向くような気がして小春は勢いに任せて話す。 

「トーク番組なんかで人気俳優がさ、『実は昔、食えなくてねぇ』とか言うやつよ。『バイトいろいろやりましたよ、宅配ピザ、ビル清掃、皿洗い、警備員、レンタルビデオショップ……』みたいな。バイト・稽古・バイト、稽古・バイトって、劇団での下積みの日々が続くの。もちろん貧乏よ。後輩や同期が売れていくのを悔しい思いで見るの。でも、胸の奥には熱い炎が燃えているはずよ。そして、四〇を過ぎてついにその時が! なんてね。その頃には、十分すぎるくらいの実力を身につけているわ。だって苦労したんだもの。いろんなものを見ていろんなことを考えたでしょうね。経験がちゃんと形になってきているはずよ。ずっと走って行けるわ、これから先。まあ、賭けみたいなものよ。なにに賭けたのかな。可能性? いや、自分にかな。自分にだね。夢を追い続けるって、そういうことよね」

 杉木は腕組みして、回転椅子を揺らしながら黙って聞いている。

「ミュージシャンなんかもそうじゃない? 昔は全然売れなくて、ライブのお客が数人だった、とか。それが今や、武道館! 満員! サンキュー! みたいな。最高の気分よね。想像してみて、自分にライトがあたってるの。みんながこっちを見てるのよ? みんなが自分を応援してくれているのよ? そして手を振って叫ぶの。『ありがとーっ』って。それはもう、最高の景色よねぇ」

そんな景色を自分もいつか見てみたい、と心の底から思う。他人のサクセスストーリーを思い浮かべるだけで自分にも無限の可能性があるような気がしてくる。胸の中で風船が膨らんでいくような高揚を味わいがら、小春は思いつくままに続けた。

「ケンタッキーのカーネルサンダースの話、知ってる? カーネルサンダースは六六歳で事業に失敗したのよ。貧乏になって、それで、フライドチキンのレシピを売ってお金持ちになったのよ。すごいと思わない? レシピを売ったのよ? 六六歳よ? 諦めなかったのよね。そういう方法もあるのねぇ」

 杉木は苦笑いを浮かべた。でもなぁ……、と座ったまま両手を頭の後ろに組み、天井を見上げて独り言みたいに言う。「高い勉強代だな」

 一四七万円――。

 杉木の言葉が妙に堅実に思える。反論できず、確かに、と小春もうなだれた。「うちには少し、高過ぎるか……」

 叔父からの借金の件は、ギリギリまで頑張るという結論に行きついた。「頑張りたい」と言ったのは小春だった。言わせたのは、小春の、経営者としてのプライドだった。その小さな小さな抵抗で、かろうじて心の中の大事なものが守られた気がした。本当は金が欲しいにきまっていた。

 杉木は再び頬杖ついて、憂鬱そうにブルースターの花を指でつんつんやっている。

 金を借りるとなると、当然返さなければならない。果たして返せるのか。この出口の見えぬ不況の中で、一四七万もの予期せぬ出費のしわ寄せを、上手にやり繰りして行けるのか。加えて、その後々に襲って来るであろう余波を上手く乗り越えて行けるのか。借金など、無いほうが良いにきまっている。

 予期せぬ出費、一四七万円――。

 その言葉を、小春は頭の中で繰り返してみた。二の腕のあたりに悪寒が走り、脇を締める。

 売場では町宮が鉢花に水をやっていた。サイネリア、マラコイデス、ムスカリ、ニオイスミレ。鉢花の種類もだんだんと春めいてきて、蜜蜂や蝶が喜びそうな楽しげな香りが窓際で漂い始めた。

 小春は春がいちばん好きだった。凍った大地の目覚めと共に、どこからともなく花たちの開花のリレーが始まる。フキノトウからクロッカスへ、クロッカスからスイセンへ、チューリップへ、シバザクラへ……。バトンが次々と渡り、大地は力強く息を吹き返し美しく染まって行く。なにか新しいことが始まるような気がして胸が躍る。

 今年はどうかな、とふと思う。今年の春も、いつものように胸をときめかせてくれるだろうか。楽しい気持ちにさせてくれるだろうか。

「いい匂い。ね」と町宮がこちらに微笑んだ。

「ね」と小春も口元に笑みを作った。

 通りの向こうで、くたびれた白いビニール袋が風にもてあそばれ、同じようなところを行ったり来たり舞っている。日差しはあるのに底冷えし、なにか余程の用事のある人しか歩いていない様子だった。

 ビニール袋を見つめながら、不意に悲しくなった。

 洋菓子屋の旗は物寂しく揺れている。隣の靴屋はなにやら張り紙をして、昨日から臨時休業だ。

 太陽を仰ぐサイネリアの、能天気なほど澄んだ青を見つめながら、小春は店に流れるテネシーワルツのメロディをなぞる。


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