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パンチ! 4

 ちょっとちょっと、と小春は腹を抱える。地蔵のような昨日の杉木を思い出すとおかしくてたまらない。

「どういうことよ。キックするんじゃなかったのぉ?」

 いやァ、と杉木は苦い顔で首をひねってみせる。「無理だった」とうなだれ、自分でもおかしくなったのか鼻から笑いを漏らす。「やっぱ俺には無理だぁ。だってあいつグイグイ来るんだもん、こえーよー」

「しっかりしてくださいよ、大黒柱なんだから」

小春があてつけるように冷笑すると、うちの大黒柱はハルだ、などと杉木は無責任に笑う。「っていうか、ハルこそ『私がパンチしてやるぅ』とか言ってなかったっけぇ?」

 杉木がする小春のモノマネが面白いらしく、町宮が少し離れたところで笑い転げている。

 古林らの二度目の訪問から一夜明け、小春と杉木はその感想を面白おかしく話していた。昨日までの緊張をどこか遠くに追いやるように、穏やかな時間を楽しんでいる感がふたりにはあった。

 三岡がそんな様子をくすくす笑いながら見ている。「ハルさんなら本当にするかもね、パンチ」と予約品の仏花を包装紙でくるみながら言う。

 あら、と小春は口をとがらせた。「三岡さんまで」と三岡の腕のあたりに、えい、とパンチを見舞う。

「昨日の私の抗戦はある意味パンチよ。そう思わない?」

小春が言うと、杉木は思い返すような目で笑い、ホットコーヒーに口つけた。

 花は今日も美しかった。オムレツ色のスプレーバラの隣でライムグリーンのリキュウソウがみずみずしく(つる)を巻く。

 今この、つつがなく流れる時間を、なぜだか今日は前にも増して愛おしく感じる。まるで自分が卵の薄膜のような温かなものに包まれているような、そんな感覚だ。『楽しいから笑うんじゃない、笑うから楽しいんだ』って、誰が言った言葉だっけ。その通りかもしれない。小春は手のひらに伝わるマグカップの温かさを楽しみながら、三岡の淹れたコーヒーを含んだ。

 いらっしゃいませぇ――。

 こんにちはぁ――。

 今日は朝から客の入りがいい。

 結婚記念日のアレンジ、三回忌法要の仏花、美容室の開店祝、奥さんの誕生日、ワンちゃんの仏花、スナックの開店三周年、友達のお見舞い――。前もって予約してあったものを取りに来る客、もしくは先の予約をしに来る客が大半だ。

 レッドクローバーは、人口七万人クラスの比較的小さな街にあった。街いちばんの繁華街といわれる場所に軒を連ねてはいたが、繁華街とは名ばかりで、今や道行く人はまばらだ。昔は随分と活気があったらしく、祭りの時には道が人で溢れたという。神輿(みこし)のあとに続く子供たちの大行列を、前に広報紙で見たことがある。

 高校を卒業した者のほとんどは、やがて進学だの就職だのでお決まりのように街を出ていくようになった。昔はみな地元の会社に勤めたものだったらしい。結果、街に残るのは、たくさんの高齢者とわずかの子供たちだ。時が進むにつれ高齢者は増え続け、子供たちの数は尻すぼみになっていった。

 テレビの中の、都会に乱立するきらびやかなビルの谷間を闊歩する若者の群れを見てはため息が出た。渋谷に日本初上陸の店が出来たとか、六本木にものすごいビルが建ったとか、イベントに二万人詰めかけたとか三万人詰めかけたとか、四億円のネックレスとか五億円の豪邸とか、銀座とか新宿とか原宿とか、芸能人とか有名人とか、来日とか渡米とか、舞台挨拶とか千秋楽とか、スパニッシュとかロシアンとか、トリュフ・フォアグラ・キャビアとか、キャデラック・ポルシェ・ランボルギーニとか、クロエ・ロエベ・ヴェルサーチとか――。インターネットで世界と繋がる世の中になったといったって、都会のそれらはとても同じ国の出来事とは思えず、まるで夢いっぱいのおとぎ話のようだった。

 この繁華街の唯一ともいえる高層の建物は、駅前の六階建ての細長い雑居ビルだ。だが四階から上は久しく空の状態が続いており、来年か再来年あたりには取り壊されるという噂もあった。それ以外にこれといって商店街に目立った高い建物は無く、ただただ余白のように空が広がるばかりだった。

 そんな中で予約制を浸透させるにはとても時間がかかった。古林が言ったように、当初はなかなか客の理解が得られずいろいろあった。それを貫き通すために、小春と杉木は幾度も衝突した。「やっぱりこんな小さな街で予約制なんて無理なんじゃないか」とことあるごとに弱気になる杉木に、「そんなことない」と小春は引かなかった。他の花屋と同じことをやっていたってこの時代の中で生き残れないことは、杉木もわかっているはずだった。「出来ない」と言ってしまえば本当になにも出来なくなってしまうような気がして、小春は「出来る」と言い続けた。

 そもそもこの街には花屋が多すぎる。ざっと数えても、この界隈だけで支店を含め十数軒はある。どこも、ちょっと歩くと行ける距離か自転車や車ですぐのところだった。前になにかで読んだことがある。各都道府県別の、人口に対する花屋の軒数の割合は、地方へ行くほど高い傾向があるそうだ。つまり、都市部より田舎の方が、意外にも競争率が高いということらしい。小春も杉木も以前から肌で感じていたことだった。

「ハルさん、先に出産祝いのアレンジ、作った方がいいかもしれないですよ。川島さん、三時に取りに来ることになってますけど、ちょっと早くなるかも、って言ってたから――」

三岡が伝票を片手に声をかける。「妹さんに赤ちゃんが生まれたんですって。仕事が終わり次第、お花を持って病院に会いに行くそうですよ。女の子ですって」

 三岡は有能な秘書のごとく、スケジュール管理が上手い。予約伝票と仕事帳を照らし合わせ、小春と杉木に絶妙な言い回しとタイミングで指示を出す。そのおかげで小春はいつも、作る作業に集中することが出来た。

「女の子かぁ。ピンクでかわいく作ろっかな」

小春は花を選ぶ。

 仮にスタッフを雇えなかったとしたら、スケジュール管理から受注、接客、製作まで、自らこなさなければならなくなる。忙しいシェフが厨房を出て自ら客を迎え、席へ案内し、注文を伺い、調理し、運び、時々は客と気の利いた会話をし、食べ終えた食器を下げ、会計をし、洗い物をする。それを全客にする。もちろん店内清掃もする。経理もする。経営ビジョンも練る。『スタッフがいない』とは、例えて言うならそういうことだ。全ての過程に一定以上の水準が求められ、それにそぐわないとなれば、最近なら下手するとネットに良からぬことを書き込まれてしまうことだってある。

 花屋の場合、一人で切り盛りしている店もそうめずらしくない。人を雇うのは簡単だが、雇い続けるのはなかなか難しい。金銭面、適性など、理由はいろいろある。

「私もう、配達に出ても大丈夫ですかぁ?」

町宮が客の出入り具合をうかがいながら訊く。「松本さん、夕方になったら出かけるようなこと言ってたんですよねぇ、確か。誕生日だから、家族でどこか食事にでも行くんですかね。その前にお花が届いたら……うれしいですよねぇ」アレンジを両手で抱え、町宮は花の香りを楽しむ。

「その花、だんなさんと息子さんたちからのサプライズらしいよー」と小春が言うと、町宮は目を輝かせる。「すてきー。私もサプライズしてほしいなぁ」

 飲み終えたカップを三岡のかかえる盆に返し「こーちゃんに頼めよ」と杉木が言うと、「ですねぇ」と町宮は恍惚のまなざしでなお花に見入る。少し間があり、え、と声をあげた。「頼んだらサプライズにならないじゃないですか、ヨウさん!」

 わっと笑いが起きた。「うけるぅ、本気ですかァ? ヨウさん――」

 そのやりとりを、三岡がおかしそうに笑って聴いている。「みなみちゃん、松本さんのところに行くなら井田さんの分もお願いしていいかな、家が近いの」とさっきくるんでいた仏花を用意する。「了解です」と町宮は受け取る。

 レッドクローバーはスタッフに恵まれている。それぞれが日々の仕事の中に自分なりの喜びや面白みを見出している。これまで何人かパートを採用してきたが、中でもここ数年は実に安定していて、仕事や人間関係の歯車がわりかしスムーズに回っていた。

 小春は無意識に微笑んでいた。もしかしたらずっと前から、この温かな膜に包まれ守られていたのかもしれない。たまたま今気づいただけなのかもしれない。なんだか店の中が陽だまり色に染まっているように思えた。乳白色のパンパスグラスが白馬の(たてがみ)のようにライトに艶めく。きれいだ、と小春は見つめる。

 ふと、追徴課税のことが頭をよぎった。 

 帰り際に杉木が古林にそれとなく尋ねたのだ。だいたいでいいから税額が幾らになるのかを知りたくて、五〇万くらい? と聞いた。古林は、うーん、と渋く首を傾げた。一〇〇万とか? と聞くと、まだなんとも……、と困った顔をしてもったいつけた。

 古林が目の中に一瞬何かを浮かべ、そしてそれをすぐに消したのを、小春は見た。


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