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第二回 経験

 晴れていた。

 紺碧の空である。このような日は、屋敷の庭で昼寝でもしていたい。そう思うが、今は大軍を預かる帥にある身である。

 張儁乂は十万の魏軍を率い、涼州街亭へ進軍する鞍上にあった。

 久し振りの対蜀戦である。暫くは荊州に駐留し、司馬懿と共に呉の劉阿と争っていた。

(蜀が相手となれば、些か血が滾るものだな)

 昔からそうだった。老いた今でも、この血潮は変わらない。

 蜀は、魏の宿敵なのだ。それは劉備が今は亡き曹操の宿敵だった事に端を発するが、自分自身も浅からぬ因果がある。

 かつて袁紹に仕えていた頃、劉備と会った事がある。手が長く、耳朶が大きいという怪異な外見だが、穏やかで落ち着いた男だった。何度か実際に話した事もある。

 だが、劉備は穏やかなだけの男ではなかった。何人なんぴとにも屈伏しない意地を持っていた。

 不屈。劉備を評すれば、これに勝る言葉は無いであろう。叩いても叩いても、死なずに立ち上がる。まさに不屈の男だった。

 その劉備も、今は亡い。戦う相手は、劉備の跡を継いだ劉禅、それを担いでいる諸葛亮だ。諸葛亮には、何度も苦渋を飲まされた相手として、張儁乂は記憶している。それは、自分より後方に控える司馬懿の方が、その思いは強いだろう。曹操の宿敵が劉備であったように、司馬懿の宿敵が諸葛亮になりつつある。

 途中、肥易ひえきという邑城ゆうじょうに寄った。魏の前線基地で、補給もこの邑城から受けるようになっている。

 将校を集め、全員で兵糧を摂った。そこで話をする。策戦に関する話から、他愛もない世間話まで、全てだ。食べながら語るのは、張儁乂軍の伝統だった。

 この日は、呉の女の話題で盛り上がった。どうも呉の女は気が荒く、それでいて情が深いらしい。さて、蜀の女はどうか? そんな所で、食事は終わった。

 用意された部屋の寝台で横になっていると、副官の朱参が姿を現した。

 朱参は、まだ三十歳にも満たない若造だが、張儁乂が直々に見出だした軍人である。槍と馬術に秀でているが、頭も切れた。戦場での勘も働く。今は張家の臣として扱っているが、手柄次第では魏の直臣に推薦してやるつもりである。

「将軍、街亭に配された蜀軍主将の名が判りました」

「間者からの知らせか?」

「ええ、今しがた」

 張儁乂は、蜀軍に間者を潜らせていた。そうした諜報は陳羣や蒋済などが引き受けているが、張儁乂は独自に間者を抱え、それを朱参に取り仕切らせている。

「馬謖という、若い将軍です。若いと言って私より歳上ではありますが」

「どんな男だ?」

「秀才という噂です。何でも諸葛亮から弟子のような扱いをされているとか」

「ほう。これは抜擢という人事かな?」

「そう思います。順当に行けば、魏延か陳到、或いは趙雲が任されたはず。余程、馬謖の才覚が優れているのか、或いは何か策があるのか……」

「愛弟子に武功を与えたいだけかもしれん。自らが手塩に掛けて育てた馬謖を要職に就かせたい。しかし、重臣が納得しない。ならば、納得するだけの武功を与えればいい、とな。何しろ今回の相手は儂だ。儂を倒せばその功績は比類なきものになろう」

 朱参が頷く。

「お前は、馬謖をどう見る?」

「経験不足かと」

「ほう」

「小さい戦では負け知らず。民政も為します。政事を考えた軍略が出来る男でしょう。しかし、大軍を率いた戦を知りません」

「馬謖はお前に言われたくない、と思うような評だな」

「ですが、事実です」

 と、構わず続けた。

「これは司馬懿様から聞いたのですが、どうも自らの才を誇る所だあるようで。劉備も諸葛亮に、『馬謖は口だけの男だ』と忠告した事があるとの事です」

 朱参がそう言うと、張儁乂は若き副官をひと睨みした。

「それを司馬懿から聞いたのか?」

「ええ。間者の報告を受けた後、ちょうど司馬懿様の使者が現れまして」

「儂ではなく、お前にか?」

「ええ、私に。どうせ将軍に言っても『司馬懿の言う事など』とまともに聞かぬでしょうから、と」

 朱参が笑うと、張儁乂は鼻を鳴らした。

(あいつめ)

 先帝曹丕の四友に数えられる司馬懿を、張儁乂は嫌いではなかった。

 司馬懿も馬謖に負けず劣らず、才気走る所がある。それ故に皆に嫌われた。罵詈雑言を浴びせる者や、曹操に告げ口する者もいたという。だが司馬懿は、そのような雑音を実力で黙らせた。張儁乂は、その姿勢を好ましいと思うのである。

(いずれ魏を担う男になろう……)

 と、張儁乂は見ていた。故に、朱参とも親しくさせている。

 諸葛亮に劣らぬ才覚はある。それは荊州で共に組み、呉と戦ったから判るものだ。あとは、如何にして人に好かれるかだろう。司馬懿は、兎角敵が多い。仕事に人柄は関係無いが、敵が多いと思わぬ落とし穴になる。その事を、張儁乂は司馬懿に何度も忠告していたが、その度に司馬懿は、理路整然と相手の非を詰るだけで、改めようとはしない。そうした司馬懿に、張儁乂は半ば諦め、半ば意地になっていた。

「しかし、何故お前なのだ」

「さて、私が気に入っているからでしょう」

「ふん。まあいい。明日の準備でもしておけ」

 朱参を追い出すと、脳裏に街亭の地図を思い浮かべた。

 峻険な山々。隘路。街道。砦。そこを進む、十万の魏軍。考えるのは、ある程度までだ。戦は水であり、空気でもある。一から十まで考えていても、その通りになった試しはない。

「魏延、陳到辺りと思ったが……」

 そう呟いた。

 時代は変わった。嫌でもそう思う。かつて、一軍を率いるのは猛将揃いだった。

 呂布、顔良、文醜、紀霊、夏候惇、夏侯淵、関羽、張飛、馬超。指揮官自ら先陣切り、大槍を奮う。今では到底見られない光景である。

 戦の質が変わったのだろう。それは司馬懿を見ても判る。これからは、諸葛亮や司馬懿、そして馬謖のような文官のような将軍の時代かもしれない。

 翌日、軍を一気に進めた。驚いた事に、馬謖の本隊が街道を守らず、山に拠っていた。

 張儁乂は、直ぐに斥候を出した。伏兵がいるかもしれない。山を囲んでいる間に、背後を突く。おおよそ、そのような策戦なのだろう。

 司馬懿が僅かな護衛と共に現れたのは、街亭から半日の距離に至った時だった。相変わらず、感情の読めない細い目をしている。

「妙ですな、山に籠るなど」

 二人だけで幕舎に入ると、司馬懿はおもむろに口を開いた。

「何か策戦があるのだろう」

「さて、どうでしょうか」

「それより、指揮官のおぬしが陣を離れてよいのか?」

「それは構いません。此処は張将軍だけで十分でしょう」

「では何の用だ?」

「何故、諸葛亮が馬謖に街亭を守らせたのか、その謎が解けました」

 と、司馬懿は地図を広げ、指で蜀軍に見立てた駒を動かした。街亭で自分と司馬懿が率いる二十万が足止めされている間に、駒が目まぐるしく動く。そして、その駒が止まった時、張儁乂は血の気が引いていくのを、したたかに感じた。

「まさか」

 司馬懿が動かした駒は、長安を囲んでいた。

「長安奇襲」

「馬鹿な。魏延が奇襲を献策し、諸葛亮はそれを却下したと聞いていたが」

「我々は虚報を掴まされたのでしょう。今や、魏延と趙雲の精鋭が長安に向かって怒涛の進撃をしているはず。これから私は長安に帰還します」

「そうしてくれ。儂は、あの山に籠った馬鹿を捻り殺して向かう」

「お願いします」

「任せろ。しかし街亭を守ったのが、あの馬鹿で良かった。愚直に街道を守られていたらどうにもならん」

「まさしく。おそらく、馬謖は奇襲の策を知らなかったのでしょう。そして、諸葛亮は馬謖なら言わずとも察すると思った。人を信じるからこうなる。これも天運でしょうな」

 幕舎を出ていく司馬懿を、張儁乂は呼び止めた。

「長安奇襲。これに気付いたお前は素晴らしいが、ちと落ち着き過ぎだ」

「そうでしょうか」

「少しは慌てて見せろ」

「仕方ありません。こうした性格なのです。それに、これでも狼狽えておりますよ」

 幕舎を出ると、張儁乂は朱参を呼んだ。

「あの山の水源を断て。三日以内に街亭を落とすぞ」

「既に、手筈を進めております」

 小賢しいと思ったが、何も言わず張儁乂は頷いた。

「朱参、お前は馬謖にはなるなよ」

「御冗談を。私は将軍に厳しく育てられております。何かと贔屓されている馬謖とは違います」

 朱参が去ると、張儁乂は馬謖が籠る山を一瞥した。

(何事も経験だ)

 経験の無さが、馬謖に誤った判断をさせた。もし、馬謖に経験さえあれば、愚直に街道を守ったであろう。

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