表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

第一回 嫌悪感

挿絵(By みてみん)

著作者:lwtt93

© 2015 - GATAG|フリー画像・写真素材集 4.0 - Design by WPThemeDesigner.com.

 馬謖ばしょくが、二万の軍勢を率いて街亭がいていに向かったのは、建興六年の春が終わろうとしていた頃である。

(やっと、私の時代が来た……)

 先鋒の主将に選ばれた時、馬謖は感動に身体を震わせて、そう思ったものだ。

 怖くはない、と言えば嘘になるが、今こうして軍を率いる鞍上にある身になれば、内心には漲る自信しかない。

(今に見ておれ)

 馬謖は、澄み渡る涼州の空を仰ぎ見て、ほくそ笑んだ。

 自分が主将に選ばれた事に、蜀軍内では強い反対が出た。魏延や馬岱は声を荒げて批判し、あの物静かな趙雲ですら、諸葛亮に異論を唱えたという。陳到に至っては、副将である王平と代われとまで言った。

 それは屈辱だった。しかし、馬謖は唇を噛み締めて、それに耐えた。全ては、老いぼれ共を見返す為である。

 侮辱は許さない。自らの才能には自信があり、現に結果を示してきた。何より、この人事に異論を唱えるという事は、師でもある諸葛亮の眼を疑うという事でもある。

(まぁいい、あと数ヶ月で全てが変わる)

 ここで武功を挙げれば、蜀軍の陣容は変わる。さすれば、趙雲・魏延・陳到という老兵を軍内から追い落とし、この馬謖が蜀軍の総帥となるのだ。

 程なく陽が暮れ、全軍に夜営を命じると、馬謖は配下の部将を召集した。

 まず姿を現したのは、張鉄・李彰・丁燕という直属の将校である。この三名は、馬謖が自ら見出だした軍人で、武芸のみならず学識も備えた英才である。

 次いで王平・陳翼らが幕舎に入って来た。

 幕舎には卓が置かれ、その上には街亭付近の地図が広げられている。

(今更軍議も無いのだがな)

 と、思っているが、王平が是非にと言うので、馬謖はそれに従った。主将となれば、人を使う立場である。程々に配下の言を入れるのも、務めだと先帝が言っていた事がある。

「確認するほどはありませぬが」

 最初に口を開いたのは王平だった。

「我々の任務は、街亭の守備であります。丞相の指示通りに、街道に布陣し守り抜くのが第一」

 隣で、腕を組んだ陳翼が頷く。

 陳翼は陳到の甥で、叔父に似ず派手好きな男である。今も、孔雀の羽根と獣皮をあしらった甲冑を着けている。実績ある中堅の軍人であるが、それは指揮官の指示を受けての事で、馬謖の眼中にはない。

「街亭は両側を高い山に囲まれた、隘路です。今は砦を築いて、その道を塞いでおり、我々はそこに籠って魏軍を迎え撃つ事になりましょう」

 王平は、地図の上に置かれた駒を動かしながら説明した。

「魏軍の先鋒は、張儁乂ちょうしゅんがい率いる十万。我々は寡兵で戦う事になりますが、隘路を活かせれば、相手は一万以下で戦う事を余儀なくされます」

「ぶつかる数は同数だが、相手は数を恃んで攻めては来ないか?」

 そう訊いたのは、陳翼だった。

「遮二無二攻め寄せる可能性はあるだろう。しかし、それでは犠牲が出る。老練な張儁乂はそのような愚を犯すとは思えないが、敢えてという事もある」

「どう出るか読めぬ、という事か」

 王平が頷いた。

「少なくとも十日。出来れば二十日耐える事を丞相は望んでおられます」

「判っておる」

 馬謖は王平の言葉を遮ると、陳翼が一笑し、

「王平は、若い三名に言われているのですよ」

 と、口を挟んだ。すると王平は一つ微笑み、張鉄・李彰・丁燕の三名に顔を向けた。

「如何にも。私と陳翼、そして馬謖殿は、欲目を出さず愚直に街亭を守れと丞相に申し付けられたが、お前達三名はその場に居なかったのでな。再度確認するが、丞相は街道に布陣し、街亭を少なくとも十日ほど守り抜けと命ぜられた。勝手な行動は慎むように」

 三名が深く頷く。その光景を眺めながら、馬謖は王平への言い難い嫌悪感を覚えた。

 王平は愚直で、命令に忠実な軍人である。経験も豊かで何事も安心して任せられる男だが、陳翼のように戦場全体を見渡せる将帥ではない。つまり、いずれは自分の手足となる駒の一つに過ぎない存在である。そうした者に、馬謖は今まで特別な感情を抱いた事がない。言わば、路傍の石である。しかし、今は妙な苛立ちを感じている。

「王平、その点は心配ない。私からも重々言っている」

「それは出過ぎた真似を。ならば私からは何も申し上げませぬ」

 それから馬謖は李彰に命じ、迎撃の陣容を説明させた。

 それを王平は生真面目に聞き入っている。そうした所も、癪に障った。王平の横で興味なさそうにしている陳翼が、まだましにすら思える。

(何故、丞相は王平を副将に付けたのか……)

 命令に忠実で、経験豊か軍人が副将。あたかも、自分のお目付け役のようではないか。もしそうなら、大きな不満である。

 王平は文盲である。文字が書けないし、読めない。報告書の類いは、全て部下任せだ。それでいて漢人ではない。我々より劣った、無知蒙昧な民族の出である。そのような者が、この〔馬氏の五常〕である私のお目付け役と思うと、無性に腹が立つ。

 街亭に到着したのは、二日後だった。

 狭い街道を塞ぐように、砦が築かれている。が、それは堅牢と呼ぶには程遠いものだった。

 それに比べ、砦に覆い被さるように聳える両側の山は、まさに天嶮と呼べるものである。

(もし、敵がこの山に陣を敷けば……)

 想像しただけでも、肌に粟が立つ。正面の敵の他に、両端の高所から圧力を受ける事になる。これでは十日も持たないであろう。

 砦に到着した日から、馬謖は用意された私室に籠って、地図と向かい合っていた。

(山に陣を移すべきではないか)

 と、声が囁くのだ。

 高所に陣を取るのは、兵法に適っている。まずは山頂より逆落としを仕掛けて相手の出鼻を挫き、そして砦に籠る。それが士気を保つ上でも、最良の策ではないだろうか。山には水源もあり、籠るに何ら不都合はない。

(しかし、それでは丞相のご命令に背く事になる)

 それが、迷いの種でもあった。

 やはり、両側の山が邪魔なのだ。それは陳翼も気付いていて、一度だけ山に布陣される危険性を言いに来た事がある。しかし、王平にそんな素振りはない。毎日、砦の外に出ては兵を駆けさせているだけだ。愚直というより、考える頭が無いのだろう。

 斥候が戻り、魏軍が二日の距離に迫っている事を告げた。

 十万の大軍。その氣が、風に乗って伝わって来る。

(十日。十日、私は守れるのか)

 迷っていた。砦は頼りない簡素なもので、王平は数を恃まないと言ったが、その読みが違った時にどうなるのか。何より、あの山に布陣された場合、私はどう防げばいいのか。

 相談する相手がいない。馬謖は急に心細くなっていた。子飼いの将校に、迷っている情けない姿を見せる事など出来ない。陳翼は指示を受けるだけの男だ。王平などには、決して相談したくはない。

(丞相も酷な事をする)

 それだけ、期待をしている事なのだろう。しかし、それは重過ぎるものだった。

 魏軍が一日の距離に迫った時、三人の将校が私室に現れた。

「どうしたのだ」

 馬謖が怪訝な表情で訊くと、張鉄が口を開いた。

「馬謖様、これは噂で聞いたのですが」

 言い難そうにしている。何かあるのだろう。馬謖は、早く言うように目で促した。

「いや噂というより、王平殿の将校を通じて耳にしたのですが、王平殿は出征前に丞相に呼び出され……」

「ほう」

「そこで、丞相は王平殿に馬謖様のお目付け役を命じたというのです」

「なんと。それで、あ奴は受けたのか?」

「ええ。しかも、丞相は無事守り切れば、王平に格別な恩賞を約束したというのです」

 肺腑を突くような怒りを、馬謖は覚えた。その矛先は命じた諸葛亮ではなく、それを受けた王平にだった。

(何様のつもりだ)

 文盲で漢人でもないくせに、〔馬氏の五常〕のお目付け役とは、愚弄するにも程がある。

「戦の前に言うのも憚られましたが、この屈辱に我慢できず。このまま此処を愚直に守れば、王平殿の手柄になってしまいます」

 そう言ったのは、李彰だった。

「お前達……」

「言わずとも伝わります。こう見えても我々は馬謖様の弟子なのですから。戦術変更のご決断を我々は支持します」

 この時、馬謖は心がスッと軽くなる心地がした。決断はした。後はやるだけである。

 主だった部将を、私室に招集した。

「これより、あの山に布陣する」

「何を申されます」

 王平が顔色を変えて言った。

「あの山に布陣すると言ったのだ」

「何故? 丞相は街道を守れと申されました」

「王平、お前にはあの山が見えぬのか」

「見えます。見えますが、街道を守れと言うのが命令です」

「では、張儁乂が山頂に布陣したらどうする? 逆落としを受けるぞ」

「それでも、守ればよいのです。これは全体を把握した、丞相のご命令です」

「これは戦だ。そして戦局は水のようなもの。ならば戦術は、臨機応変に対応させるものであろう」

「反対です。断固として」

「判らぬ男だな。よかろう、漢人でもない貴殿に判るように説明しよう。勿論、文字など書かぬから安心せよ」

 そう言うと、傍で聞いていた陳翼が呆れた顔をした。王平は目を細めただけだが、馬謖は構わず先を続けた。

「この策戦は、街道を守る為のものなのだ。山頂からの逆落としで、行軍で疲労を重ねた魏軍の出鼻を挫く。そして砦を中心に布陣し迎え撃つのだ。これが士気を高め、相手の士気を下げる最良の策だろう」

「馬謖殿が丞相であれば、私も従いましたが、現実はそうではありません。丞相の命令は馬謖殿の命令より優先されます」

 馬謖はあからさまに舌打ちをした。頑迷な男だ。何を言っても聞き耳を持たない。馬謖は陳翼に意見を求めた。

「個人的には、逆落としが好きですがね。ここは丞相の命令を優先するべきでしょうな」

「判った。貴殿らは、地虫のように此処を守られるがよい。我々だけで山頂に移動する」

 踵を返すと、王平が追いすがった。

「どうか、どうかお考え直し下さい。此処に籠れば十日は守れます」

「……十日守って、丞相に格別の恩賞を頂戴するのだろう? だが、生憎そうはいかん。山頂からの逆落としで魏軍に痛撃を与え、街亭を守り通す」

 王平の顔が赤黒くなった。馬謖は鼻を鳴らして、私室を出た。決意は固まった。あとは戦い、結果を出すだけだ。蜀軍総帥。その地位は眼前に迫っているはずだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ