ここは冬、ずっと冬
「わにのにわ」改題・改稿
桜が咲いて散り、あたたかな風が眠気を運んでくる。
りん子は久しぶりに、川の向こうの友達に会いに行くことにした。作ったばかりのカップケーキをバッグに入れて、橋を渡っていく。
ところが着いてみると、川の向こうはまだ冬だった。
銀色の雪野原が広がっている。風が雪を吹き上げ、遠くの景色をぼかす。ぽつぽつと民家のようなものは見えるが、人の姿はなかった。
「どうなってるのかしら」
りん子は上着の前をかき合わせ、雪の中を一歩一歩進んでいった。風が吹きつけるたびに、体の芯まで凍り付くようだ。
しばらく行くと、道の真ん中に白い塊があった。
作りかけの雪だるまか、それとも石か何かの上に雪が積もっているのだろうか。
「動物みたいな形ね」
まるでワニが這いつくばっているような、奇妙な形をしている。
今にも動き出すんじゃないか。そう思いながら近づいていくと、本当に動いた。
「えっ?」
りん子は驚き、持っていたバッグを落とした。蓋が開いて、カップケーキが転がり出る。
すると白い塊がばっくりと割れ、カップケーキを飲み込んでしまった。ぎょろりと目を開け、歯を見せて笑う。
「わ、ワニ!」
それは本物の、白いワニだった。
『お前、よそ者だな』
低く硬質な声が、どこからともなく響いた。ワニが、りん子の頭に直接語りかけているらしい。
「ちょっと、返してよ。私の……」
りん子ははっとした。言葉が出てこない。ワニに何かを食べられてしまった、そんなような覚えはあるのだが、それが何なのか思い出せない。
ワニは、透き通った目と氷の歯を光らせた。
『俺の口に入ったら最後、全てが消えてしまう。人も物も記憶も、何もかも』
「嘘よ。だって確かに……」
思い出せない。確かに持っていたのに、それをワニが食べてしまったのに、名前も形も浮かんでこない。そうなるともう、怒る気にもなれなかった。
「まさか、この町の人たちみんな食べちゃったの?」
『いやいや、俺はそんな底なし胃の持ち主じゃない。一日に二、三人でいいんだが、あいつらは臆病者でな。家に閉じこもったきり、出てこなくなってしまった』
「なるほど。気の毒な人たちだわ」
『そうだろう。だからせめて、代わりに食べられてやってくれ!』
ワニは口を開けて飛びかかる。足下で歯が鳴り、りん子は危うくかわした。靴に付いていた赤い星が引きちぎられ、紐だけが残る。
「何てことするの。せっかくの、せっかくの……」
ワニがにやにや笑う。思い出せない。お気に入りの靴だったのに、どんな飾りがついていたのか、もう覚えていない。
りん子はぞっとした。もし、足を食いちぎられたらどうなっていたのだろう。自分に足が生えていたことを忘れ、浮かんだまま歩くようになるのだろうか。
「冗談じゃないわ!」
りん子は雪をかき分けて走った。ワニから逃げる時はジグザグに進むのがいい、と何かの本で読んだので、あっちへこっちへ方向を変えながら走った。
『忘れるのは悪いことじゃない。悲しまなくていいんだからな。五人兄弟の一人を食べても、最初から四人だったと思えばいい。もう一人食べれば、三人になるだけだ。みんなそうやって暮らしてきたんだよ』
ワニは器用にしっぽを振り、追ってくる。言葉が頭を噛むように、じわじわと響く。りん子は何度も転びそうになりながら走った。
『お前がいなくなっても、この町の奴らは誰一人気づかない』
「私は友達に会いに来たのよ」
『ほう、それは誰だ?』
りん子はこめかみを押さえた。
顔を思い浮かべようとする。友達。久しぶりに会う。川の向こう。壊れたパズルのように、ぼろぼろ崩れていく。
雪が舞い上がり、ぶつかり合って音を奏でた。
あなたは誰 思い出せない
水の影 花のささやき
それは ひらがな四文字で
それとも 漢字で十五文字
まるくて みどりで さんかくで
星のように いなくなる
ワニはせせら笑った。
『川岸でお前を待ってたよ。お前の好きな柚子あんパンとほうじ茶を用意して、そいつは浮かれて待ってた。あんな無防備じゃどうしようもない。後ろから近づいて丸飲みさ。いやあ、愉快だったね』
りん子は走った。悲しくない。友達がワニに食い殺されたというのに、少しも悲しくなかった。何も考えられず、感じられず、ただひたすら走った。
走っても走っても雪景色だった。広く、深く、終わらない冬が町を眠らせている。春も夏も秋も、ワニが食べてしまったのだろうか。どこまでも白い町に、りん子の息が溶けていく。
どれくらい走ったのだろう。足がしびれ、背中が汗ばんでくる頃、道の途中に白い塊を見つけた。
ワニがもう一匹。いや、あれは木だ。細い枝に雪が積もり、生き物のように見える。
「ここまでおいで、ワニさん!」
りん子は低い枝に飛びつき、足をかけた。凍った幹にしがみつき、ワニがジャンプしてきた瞬間、ひょいと裏側に隠れた。
ワニは勢い余って、枝と枝の間に首を挟んだ。口を開けてりん子を捕らえようとするが、枝に締めつけられて動けなかった。
『最高だ……最高だろう』
ワニはつぶやく。
りん子は幹を滑り降りた。雲間からうっすら陽が差し、白い木とワニを照らしている。
『ここは冬……ずっと冬。何も思い出さなくていい。最高じゃないか……』
木の表面から、白く透き通ったしずくが落ちる。ワニの輪郭も、少しずつ崩れ始める。
まるで、大きなワニが小さなワニを食べているようだ。
「そういうわけにはいかないわ。ほら、明るくなってきた」
りん子は空を指さした。分厚い雲が途切れ、光が降り注ぐ。辺りを覆い尽くしていた雪が溶け、アスファルトや緑の草地が顔を出す。
木はワニを挟んだまま、ぽたぽたと溶けていく。ワニの体は次第に丸く、小さくなっていく。透明な目を見開いたまま、最高だ、と言った。
『忘れていくのは、最高だ……』
近くの家のドアが開いて、小さな子どもが出てくる。母親らしい女性が、薄い上着を羽織って出てくる。あちこちの家で、ドアや窓が開く。人の声が聞こえ、一人、また一人と道に出てくる。
枝の上で、ワニが静かに溶けていく。
りん子は胸を押さえた。
心に穴があいたような、それを無理矢理ふさいだような、変な気分だ。
どうしてここへ来たのか、思い出せない。ずっと楽しみにしていたような気がする。面倒に思っていたような気もする。何か悲しいことがあったような気がする。でも、何も思い出せない。バッグの中にココアパウダーが散らばっているけれど、思い出せない。
木の枝には新芽がのぞき、柔らかい色に光っている。
あと少し、あとひとしずくで、全部忘れてしまう。最後の白い塊に、りん子は手を伸ばした。
「ありがとう。楽しかったわ」
手のひらに落ちて、消えた。
りん子は目を閉じ、溶けていく記憶を見送った。
ワニなんていなかった。そう、どこにもいなかったのだ。