失恋したのでリア充暴発しろ
此処は第1章とは書いておりますが、ある意味序章と言えるかもしれません。
少し長くなりますが、最後までお付き合いいただける幸いです。
「わたし……草地くんのことが好きなんだ」
7月1日、午後4時30分。
この瞬間、俺は思った。
――リア充、暴発しろ。
時間を遡ること、8時間。午前8時30分。
広い教室にはざっと、30人ほどの生徒が居た。机に腰を落ち着けて雑談する者が居れば、静かに本を読んでいる者も居る。真っ白な電子ボードには「00:15:08MINUTES 」と授業開始時刻までの残り時間が示してある。少し騒がしい教室の中、俺は一人、机の前に座ってソワソワとしていた。
少し跳ね返っている髪を直して、制服に乱れが無いかチェックをし、それが終わると満足そうに頷く。窓に映る自分の顔の口角はだらしなく緩み、目は見事にへの字になっていた。
自分でも体が妙にウキウキとしているのが分かる。恐らく己の周囲には花が舞っているように見えるだろう。その証拠に隣の席の男は胡散臭そうにこちらを見つめていた。眉間には皺が寄っており、「気色が悪い」と言う奴の思いがデカデカと顔に書いてあった。
「……金城、おまえ今日どうした?」
だがそんな事など知らない。俺は奴の心情から目を逸らして、満面の笑みで言葉を返す。
「べっつにー、ちょっと身だしなみ整えてただけー」
「身だしなみって……お前」
その返答に男はさも呆れたとばかりに息を吐く。
半目で自分を見つめる男に俺は少しムッと顔を顰しかめた。
「草地……お前、何も分かっていないな」
「……何をだよ」
「嫌な予感しかしない」と草地は顔を歪めながら、こちらにもう一度視線を向けた。そんな奴に俺は「案ずるな」と得意げに顎を少し上へと逸らした。
「今日から夏服だ」
「……そうだな」
呆れたようにこちらを見る草地に俺はふふん、と誇らしげに笑った。そしてちらり、と前隣りの女子に目を向ける。
何時もより露出の多い肌、白くて柔らかそうな太ももや二の腕は、短くなった袖から姿を現し――布も多少薄くなることで、汗を搔いた際にはブラウスの向こう側に可愛らしいブラも見える。
不埒な想像を膨らませながら俺は胸を高鳴らせた。心臓はドキドキと鳴り、鼻の奥から何かが垂れ始めている。鼻血だろうか。
そんな俺を見て、草地は更に半目になった。もはや糸目である。
「お前……気を付けねぇと女子に引かれるぞ」
「俺は欲望に忠実なのだよ。草地くん 」
「‟色欲゛と言う名のな。それよりお前、受験勉強は始めたのか?」
「……」
――忘れてた
さあ、と一瞬で顔から血の気が引いてゆく。
記憶の彼方に葬り去っていた単語を目の前へと引き戻され、俺は机に突っ伏した。ゴン、と見事な音が鳴った。「しまった、どうしよう」と頭を抱えなおす。思わぬ襲撃を受けてしまった脳味噌がとズキズキと痛み出した。胸の奥からは不安か、或いは焦燥か、不穏な気持ちが込みあげてきた。心臓は早鐘を打ち、上昇していた気分が急激に落ちる。
7月1日、俺たちは既に中学三年生となっていた。今やもう受験の夏だ。周りは既に受験校を決め、進学するために勉強を始めている。自分はこのまま現在在籍している学園の高等部へと上がるつもりだったのだが、残念ながらその進学と言う名の階段さえも、危うくも崩れかかっている。理由は明確、かつ簡単だ。
己が馬鹿だからである。
分かっていた。このまま行けば留年してしまうことも。分かっていた。ちゃんと勉強をしていればこんなことにならなかった事も。それでも俺はどうしてもやる気になれず、勉強に関する全ての事柄を己から遠ざけていた。正しく愚の骨頂である。
「……お前、頭は別にそんな悪くねーんだからよ。普通に勉強すりゃ良いのに、やっぱ馬鹿だよな」
呆れたようにこちらを見つめるこの男、草地巴は俺の幼馴染だ。小学校からの腐れ縁と言ってもいい。短髪に、鋭い目つきと整った顔立ち。ガタイも良く、いかにもスポーツ青年という風貌で、最近女子にもてはやされている。彼女たちによると何時も気だるげな表情が可愛いらしい。その意味を俺は未だに理解できない。
むしろ、こんな失礼な男の何処がいいのかと恨めしく思っている。女子が騒いでいるその気だるげな態度は何時だって自分の神経を逆撫で、怒らせる。今も、ほら。奴を殴りとばそうと拳が震えている。だが、いち早く鳴ったチャイムと共に女性が教室に入ってきたことにより、それはあえなく中断された。
「はーい、全員席について。今日、高野先生が体調不良により遅れてやってくるので代わりに私が出席を取ります」
「うげ……」
最悪だ。思わず小さく呻いてしまった。
「なえセンか。相変わらずケバいな……」
申し訳ないが自分もその言葉に同感だ。元々0地点まで陥っていた気分が彼女の顔を見て更に降下してゆくのが解った。
「あれはケバいとかの問題じゃねーよ……マジで教育実習生なのあの人?21にしては、なんか…」
そう。なえセン、もとい土宮香苗は先月きたばかりの教育実習生だ。東大でのエリートらしいが、化粧の濃さや、臭い香水の匂い、そして垣間見る学力などで人を判断する、その厭味いやみな性質から生徒の間では気分が萎える先生、通称――「萎えセン」と呼ばれている。ちょっと成績が悪い奴を見下したように見ることが多く、そのせいで生徒に嫌われているのだ。かく言う自分も、嫌いとまではいかないが、正直苦手だ。
憂鬱な気分を腹の奥へと押し込めて、号令の準備をする。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢
昼休み。だるく感じてしまうホームルームや物理などの授業が終わり、俺は草地と共に食堂に来ていた。
「うわ……混んでるし」
「……何時ものことだろ」
購買の方も酷かったが、こっちも酷いと肩を落として項垂れる。カウンターの前は50人ほどの列が出来ており、気のせいか給市型のロボットがアタフタしているように見える。白く、半球体のそれは直角型の腕と器用な指先を忙しそうに動かしている。おまけに、頭につけている三角巾がつるつるの肌から滑り落ちそうになっていた。大丈夫かな、と少し頭を傾ける。
すると、
「金城くんたちも学食?」
――こ、この声は!?
ドッキン、と大きく跳ね上がった心臓を押さえた。
柔らかく、優しげな声に振り返ってみると長い髪の少女が其処に立っている。
さらりと靡く鮮やかな黒髪に、真っ直ぐ他人と合わす、凛とした瞳。しなやかな手足に、すらりとした体躯をしている彼女は美少女と部類しても良いだろう。陽だまりの様なその笑顔に自然と心臓の鼓動が早まる。自分の顔がだらしなく笑むのが分かった。
「お、おう。伊奈瀬も学食?」
「ううん、お弁当。今日は何か甘いものが欲しくって……苺のスムージー買おっかなって。安いし」
「あ、ああ!スムージー!そういえば今日暑いし、丁度いいかもな!うん、良いと思うよ」
伊奈瀬と苺、似合う。それを想像したら何故か興奮してしまった。鼻息を荒くして、彼女の言葉に激しく同意するその様は異様に見えることだろう。その証拠に草地が引いたように己を見ている。だがそんな事実は知らない、決して知らない。何故ならそんな自分を見ても、伊奈瀬は変わらず優しく微笑みかけてくれるからだ。
――俺は、彼女に恋をしている。
「ぷふ、ふ……ありがとう。やっぱり金城くんって面白いね」
「そ、そかな?」
「うん、草地くんも毎日金城くんと一緒で楽しいでしょ?」
「いや、むしろ疲れるぞ……いろんな意味で」
「おい!」
コントのように草地に突っ込む自分を伊奈瀬がまた可笑しそうに笑う。この瞬間が俺はとても好きだ。空気がゆったりとしていて、不思議と心が落ち着く。
「それじゃあ、私そろそろ行くね。二人ともまたね」
「あ、うん。伊奈瀬、あの!」
「分かってる、また放課後に!」
彼女のその言葉に俺はホッと息を吐く。実は今日、彼女と放課後に待ち合わせる約束をしている。デートと言うわけではないが、近くの売店で新しく苺味の新商品が販売され始めて、「良かったら行かないか」と、この前誘ったのだ。金銭問題で少し悩ましげな顔を伊那瀬はしていたが、意外と安いと伝えると、苺好きな彼女は半刻ぐらいならと快く頷いてくれた。それが嬉しくて嬉しくてしょうがなく、今朝、俺は窓を写し身代わりに使って己の格好を整えてたのだ。
「じゃあ、また後でね!」
「おう!」
小走りで、甘いもの系のバーカウンターに向かう彼女に手を振る。細長い足が一歩一歩、軽やかにステップを踏むたび、スカートがヒラリと僅かに舞い上がって、白い布がちらりと顔を覗かせた。限界まで開ききった瞼の向こうから、血走った眼球が飛び出そうになったのは仕方あるまい。コホン、と邪な思いを追い払うように咳払いをする。
「……金城、お前」
「……なんだい草地くん。俺は何も可笑しなことなどしていないよ」
怪しげに伺う草地はため息を吐くと、一人でさっさと食堂ロボットの下へと向かう。「失礼な奴め」と俺は何時ものように唇を尖らせて、眉を顰めた。
草地は天ぷら定食、俺は味噌ラーメンを頼んで、食堂の端っこの窓際にあるテーブルを陣取った。
此処の食堂は広いが、デザインが古風だ。この学園は2010年に設立されて以来一度も改装されたことがないので、他校と比べて些か小汚い。現代の電子ボードやロボットは支給されているが建物自体は昔と変わらない。その事に対して不満を覚えている生徒はいるようだが、此処は公立だ。他の公立学校だって似たようなものだと俺は思っている。だから、不満不平を言ってもどうにも出来ないし、そんなに文句があるのなら私立の学校へと行けば良い。俺はこの学園を気に入っているし、確かに多少の小汚い印象は否めないが、IDカードや認証を要求する面倒なゲートが設置されている校舎より、こういう‟気楽”で‟味気”のある建物の方がずっと良い。
つらつらとこの学園に対する感想を抱きながら麺を箸でつつく。コシのある太麺は俺の好みで自然と頬が笑んだ。目の前の草地はそんな自分と反して食事に多少不満の様で、俺はふとある事に気づく。
「そういえば、お前今日は珍しく学食なのな」
「ああ、ばあちゃんが今日体調崩しちまって」
そう、草地は何時も弁当だ。学校に支給される食事はあまり好きじゃないらしい。奴いわく味気が無く、無機質な感じがするのだとか。その意味は理解しかねるが、俺も奴の婆ちゃんが作る弁当の方が好きだ。癖はあるが、優しい味をしている。確かに工場ロボットが作る飯と比べたら、弁当の方が断然いいと俺も思った。
「ばあちゃん大丈夫なのか?」
「ああ、ただの風邪らしい。三日やすめば直るって」
「そか、良かった」
「おう」
草地の婆ちゃんには何度も会っている。とても優しそうな人だった。腰がすっかり折り曲がって、豆粒の様だという印象を抱いていたが、何時も柔らかくニッコリと笑っていて、顔の小皺がとてもチャーミングに見えた。喋り方もゆったりとしていて、初めて草地の家にお邪魔した時も気兼ねなく話せたのを覚えている。
草地は幼い頃、早くに両親を亡くして婆ちゃんに引き取られたらしい。だから、草地にとって“ばあちゃん”は大切な親で唯一の家族。彼女に負担をかけないために、バイトして部活もやらず、家事の手伝いをするために草地は何時も真っ先に家に帰っている。
「見舞いに行く」
「いい、それよりお前はまず伊奈瀬に告白してさっさとくっつけ」
「ブッフォ!!」
吹いた。
「近いうちに告白するんだろ?なんか今日待ち合わせる約束をしてたみてーだし」
「ゴッハァ……!!」
吐いた。というか出てしまった。顔のありとあらゆる穴から。
「おまっ……汚ったねーな……というか気持ち悪。麺星人か。」
「ごふ、ごは……お、お前が」
動揺する思いを抑えて口を開こうとするが穴が痛くて、つい咽せてしまう。草地にナプキンを渡され、顔を綺麗に拭いた。顔の彼方此方がヌルヌルしている気がして正直気持ちが悪い。あとでトイレに行って顔を洗わねばなるまい、と汁の散ったテーブルも拭く。
一通り麺を片付けて落ち着くと、改めて聞いた。
「な、なんで」
「おめーのその露骨な態度を見ていれば分かる」
「そ、そか」
「ああ」
「……」
「頑張れよ、それと赤くなるな、なんかキモいから」
――本当に失礼な奴だ。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢
放課後。長い授業が終わって、帰り支度をしていると草地にポンポンと肩を叩かれた。
「じゃあ、俺さきに帰るから」
「お、おう。また明日」
またな、と手を振って奴はそのまま教室を出た。婆ちゃんの看病をするため、帰りにスーパーで色々買って行くのだろう。やはり、明日にでも見舞いに行こうと少し意気込む。
教科書を全てしまい終えた鞄を肩に担いで、伊奈瀬のクラスに向かった。片手に例の売店のチラシを眺めながら軽い足取りで廊下を歩く。ペラペラの紙には「苺ポテトアイス新発売! お手頃な価格であなたの心をノックアウト!」とピンクの文字がデカデカと書いてあり、少し之をデザインした人のセンスを疑った。だけど、商品の方は伊那瀬が好みそうな物なので俺の口はすぐにニヘラと笑んだ。
伊奈瀬に初めて出会ったのは二年前、一年生の頃、同じクラスになった時だった。隣の席だったことからよく話をするようになって、彼女の魅力を知り、気が付けば好きになっていたのだ。その感情に気づいたきっかけは確か、彼女の身内話を聞いた時だった。
「え、伊奈瀬その弁当自分で作ったの?」
お互い共に食べる相手が偶々居なかった昼休み、彼女が家の家事を殆ど一人でしていることを初めて知った。母子家庭であまり裕福ではないらしく、毎日仕事で忙しい母の代わりに、まだ三つの弟の世話や家事を全て一人で担っているらしい。
「そっか、大変だな……何か俺に出来ることがあったら言ってくれ」
「うん、ありがとう。でも大丈夫。お母さんは優しいし、弟も可愛いから全然苦には思わないんだ。それに、こうして金城くんに気にかけてもらえるだけで十分うれしいよ。有難う」
その時の伊奈瀬の笑顔を俺は一生忘れない。俺の乙男フィルターが懸かっていたのもあるかもしれないが、あの時の彼女はキラキラしていて、とても可愛く、神々しく見えたのだ。
その姿を思い出して俺の口は更にだらしなく緩んだ。
「……やっぱ、伊奈瀬は可愛いよな」
困ったような顔をしている伊奈瀬を見て思う。きっと己の鼻の下は伸びていることだろう。よくそれで草地には引かれているが構うものか、彼女の困り顔が可愛いのが悪い、と俺は一人で勝手に納得する。うんうん、と頭を頷かせるがすぐにハタ、と我に返る。
――まて、困り顔?
「って、なえセン!?」
視線の先、教室の前には伊那瀬ともう一人、女性が居た。なえセンだ。伊奈瀬を見つめるその表情は気のせいか険しく、教室の前で何やら彼女に注意をしている。下校時間は過ぎているため生徒は大分いなくなっていたが、何人かまだ残っていて、野次馬のように教室から顔を覗かせていた。
「何してんだ?」
彼女たちの会話が聞こえるようにもう少し足を少し近づける。微かにだが二人の声が聞こえてきた。
「伊奈瀬さん? あなた分かっているの?」
「……はい、でも家は母が働きづめで弟も」
「それは分かっているわ。あなたが家のためにバイトしていることも。私が言ってるのは成績よ。どんな理由があろうとも結果は変えられない。働くのは良いけど成績と出席はちゃんと取りなさい。このままいくとあなた留年するわよ」
成績、出席、留年――どれも聞いたことの無い話だった。伊奈瀬が母子家庭で家が貧しいということは知っていたが、まさかそんな事になっていたとは。俺は僅かに眉を顰めながら二人のやりとりが終わるのを待った。正直、二人の間に割り込みたい所だが、そんなことしても自体が悪化するだけだ。
しばらくして、言いたいことを全て言えてスッキリしたのか、なえセンが去ってゆく。俺は即座に伊奈瀬の処へと駆け寄った。
「伊奈瀬」
「あ、金城くん……来てくれたんだ」
「ああ……その、大丈夫か? さっき……」
「うん、大丈夫。心配してくれて有難う」
そう言って彼女は笑ったが、その笑顔には陰りが見えた。
このまま既に込んでいるかもしれない売店へ予定通りに行くのは考え物で、俺は公園で少し涼んでいくことを提案した。今の時間帯、生徒は部活動をやったり、既に帰宅したりと疎らだが、あの公園にはあまり人は来ないはずだ。伊那瀬は俺の提案に素直に頷いてくれた。
公園は行ってみると実際見事に空いていて、貸しきり状態だった。伊奈瀬は金銭問題で遠慮していたが、俺は小腹が空いていたので彼女の分も含めてカキ氷を二つ、近くの自動販売機で買った。
「……あのさ、何かあった?」
公園のベンチに腰掛けるとさっそく伊奈瀬に訪ねた。聞くか否かで迷ったが、伊奈瀬なら言いたくないことは言わないと言ってくれるから大丈夫だろう。悩ましげに長い睫毛が伏せられる。伊奈瀬は何度か躊躇するように口をパクパクと開いたり閉じたりするが、ポツリポツリと話し始めた。
「さいきん…お母さんの会社赤字が続いてるみたいで…」
その言葉の意味を俺は瞬時に理解した。
伊奈瀬の家は元々、今で精一杯という暮らしをしていた。それが彼女の母の給料が減ることで暮らしが更に難しくなり、バイトを増やすことで家を支えようとしたが、逆に成績は落ち、出席もちゃんと取れなくなって、あんな事になってしまったのだろう。なえセンが其処で出てきたのは、大方あそこの担任の常田先生にその役を押し付けられたからだと推測した。あの教師はムッツリで、伊奈瀬の前では強く出れないから。
伊奈瀬は行き詰ったような顔をしている。そんな彼女を見て何か出来ないかと必死に思案してみる。
「あ、あのさ良かったらウチで働いてみない?」
「え?」
「伊奈瀬も知っていると思うけどウチ、本屋やっててさ。この前バイトが一人やめて困ってたんだ。ウチならそっちの都合に合わせられるし。なんだったらバイ ト中弟連れてきても良いし、俺の母さんチビっ子好きだからさ。伊奈瀬もそしたら無理なバイトせずに勉強とかちゃんと出来んじゃねーかなって 」
「……金城くん。でも迷惑じゃ」
「だ、大丈夫だって。ウチ友達にしょっちゅう手伝ってもらってるし、皆けっこう自由にやってるんだぜ?草地なんか営業中マンガ読んでてさ」
「草地くんが?」
「お、おう。あいつ毎週末ウチでバイトしてんだけどずっとマンガ読んでてさ」
つい先日の出来事を思い出す。カウンターの前で紙媒体の本のページをパラパラと捲りながら読む草地は、明らかに仕事に集中していなかった。確かに客は少ない、というよりむしろ居ないと形容した方が正しかったが、「それでも金出してるんだからもうちょっと集中しろよ」、と俺は言いたかった。まあ、そんな自分と反して母は「ちゃんと仕事はしてくれるし、漫画読む様も格好いいからヨシ!」親指を立てていたが。漫画も報酬に入っているらしい。
その様子をありありと話すと伊奈瀬はクスクスと笑った。
「草地くん、そんなことしてたんだ。ふふっ、何か草地くんらしいなぁ……」
その笑顔に、少しの不安を覚えた。何故だろう、凄く嫌な予感がする。気のせいか、伊奈瀬の表情は何時も以上に柔らかく、頬も薄っすらと赤く色づいていた。その様が何とも可愛らしく、そして彼女を華やかに魅せた。
膨らんでゆく疑心が無意識に、自然と言葉となって口から滑り出る。
「い、伊奈瀬。まさか……草地のこと好きだったり」
「え!?」
その瞬間、伊奈瀬の顔がボン、と爆発したような気がした。
「そ、そそそそそそそんな。みゃ、みゃさか!?くくくく、草地くんを好きなんてそんな!?そ、そりゃつい目で追っちゃったりするけど…って、あ」
真っ赤に茹で上がってしまった顔に、左右に泳ぐ視線。潤んだその愛らしい瞳は己の勘が当たっていることを語り、心を凍てつかせた。
しばらくして、落ち着いたのか。はあ、と顔の熱を逃がすように息を吐く彼女。悩ましげな顔は色っぽく見えた。そして、赤くふっくらとした唇は静かに、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「な、ないしょ、ね…」
――リア充、暴発ぼうはつしろ。
頭が大きな混乱の渦に放り込まれた。暴発しろではなく爆発ばくはつしろ、と此処では言うべきだし、そもそもリア充と決まった訳ではない。
草地の想いは知らないが、伊奈瀬の気持ちを知ったことで、心が極寒の地へと追いやられる。未だに頭は真っ白で、何も考えられないのに、胸が凍傷したかのようにズキズキと痛む。泣きそうだ。そんな傷スカーだらけの心ハートを何とか元気づけようと、思考を前向ポジテイブきに変える。
大丈夫だ。諦めるのはまだ早い。いや、早いというかそう思う必要もないのかもしれない。草地が伊奈瀬のことを好きと決まった訳ではないのだから。そうだ、まだ両思いと決まったわけじゃない。なら、自分にもまだチャンスがあるかもしれない。そう、草地より良い男になれば。そこまで思考を走らせてパタリ、と止まる。
――良い男? 良い男って何? 俺、あれの何を越えれば良いの? 身長? 顔? 成績?
「って、全部じゃねーかァァァあ !?」
「え!?」
――……は、しまった。
突然のショックで思考がまたもや大パニック、ではなく可笑しな方向へと走り出してしまった。正気に戻った頭で伊奈瀬に視線を向けると何やらポカンと口を開いている。恐らく己の突然の奇行に驚いているのだろう。「可愛いな、ちくしょー」と心の中で悪態を付きながら、深呼吸をしてとりあえず自分を落ち着かせようとした。そして上目づかいでこちらを伺う、愛らしくも残酷な彼女に何とか言葉を紡ぐ。
「あ、あの」
「ああ、悪い伊奈瀬。ちょっと変なこと思い出しちゃって」
「あ、そうなの?」
「うん、あははは。あー、うん。大丈夫、草地のことは黙っとくから安心してくれ。俺の口は岩より堅いからな」
「あ、有難う。」
「うん、バイトも母さんに伝えとくから考えといてくれ」
「うん、本当に有難うね。私もお母さんに相談してみるね」
「うん……えと、ごめん。俺ちょっと急用思い出しちゃった。もう行くね 」
「あ、うん。今日は本当に有難うね金城くん。なんか気が大分楽になったよ」
「うん、それじゃあ」
「バイバイ」
笑顔で手を振る伊奈瀬と別れた後、ふらふらと覚束ない足取りで帰宅した俺は、食事も取らず自室に籠った。
そして、静かに枕を濡らした。
もちろん、心配そうに声をかけてきてた母にバイトの話をするのを忘れずに。
その翌日。草地から週末は家に来れないと連絡が来たので、俺は一人で店番をした。幸いにも草地と顔を合わせる必要がなくなって、店番は金曜の失恋ショックを癒すにはちょうど良く、仕事に没頭することで、何とか伊奈瀬のことを忘れようとした。結果は言うまでもなく失敗に終わったが。
そして月曜日。7月4日、午前8時30分
憂鬱な気分を胸の奥に押し込めて、学校に向かった俺は予想だにしなかったニュースを耳にする。
――草地が警察に捕まった。