12話:エインヘリヤルの刻印
儀式の準備は着々と進んでいた。
ナイミラが用意したのは、特殊な筆と、魔力と希少な素材が溶け込んだ液体が入った黒光りする壺だった。壺から立ち上る気配だけで、そこに込められた力の重みが肌に刺さるようだ。
「この筆と液体は、キミの肉体に『エインヘリヤルの刻印』を刻むための特別な道具だ。普通の魔力操作では到底扱えない――私の知識と魔力があって初めて可能になる術式だ」
ナイミラの声には、いつになく重々しさがあった。しかし同時に、彼女の目には喜びすら宿っている。
「アルド、覚悟はいいか?」
俺はナイミラの前に立ち、上着を脱ぎ捨てて上半身をさらけ出した。すでに数多の傷跡が刻まれた体は、これからさらに苦しみを味わうのだ。
「ああ、準備はできてる」
自らの言葉に笑みを浮かべる。恐れはない。痛みすらも力へと変える――それが俺だ。
ナイミラは深呼吸し、筆を手に取った。その筆先が液体に浸されると、まるで生き物のように光が波打ち、魔力が空間を震わせ始める。
「……では、始めるとしよう」
ナイミラの筆が俺の肌に触れた瞬間―― 灼熱の痛みが全身を貫いた。
「っ――!」
息が詰まる。肌に焼けつくような痛みが走り、その感覚が骨の髄まで達した。それは単なる痛みではなく、まるで肉体と魂の間にある何かが引き裂かれるような――いや、焼き尽くされるような感覚だ。
「耐えろ、アルド。これはただの痛みじゃない……お前の肉体に新しい魔力の回路を刻んでいる」
ナイミラの声が遠く感じた。それほどまでに痛みは激しく、意識が白く塗り潰される。
筆が動くたびに、魔力が肌に染み込み、ルーンの刻印が線を成していく。痛みが収まるどころか、さらに激しく、全身を蝕んでいく。
だが―― 俺は倒れない。
「くっ……はぁ……! まだ……まだ……ッ!」
歯を食いしばり、痛みを噛み砕く。血の味が口の中に広がるが、それすらどうでもいい。
俺は、この先にある理想のために――自らを不死の狂戦士に変えるために、絶対に折れるわけにはいかないのだ。
「アルド……お前、本当に狂っている。普通の人間なら、とうに死んでいる痛みだ」
ナイミラの声には驚きと興奮が入り混じっていた。彼女の筆がさらに加速し、刻印は腕から胸、そして背中にまで広がっていく。
痛みは限界を超えた。しかしその瞬間、俺は―― 新たな力の気配を感じ取った。
身体の中を駆け巡る魔力が、今までとは違う回路を通り、俺の肉体を作り変えていく。
「……見える……!」
痛みの向こう側に、確かな力が見えた。これが『エインヘリヤルの刻印』―― 不死の力への第一歩。
全ての刻印が刻み終わり、ナイミラが筆を置いた。その顔には驚きと満足の表情が浮かんでいる。
「……成功だ。アルド、お前は本当にやり遂げた」
俺は息を切らし、汗と血で濡れた身体を震わせながら立ち上がった。痛みはまだ残っているが、それもすぐに消える。なぜなら――
「ふっ……はははっ! これは……いい……!」
全身を駆け巡る魔力。意識を向けただけで、細かな傷が一瞬で再生されていく。まるで痛みさえも快楽に変わるような、この感覚―― これが『エインヘリヤルの刻印』か!
「これで……俺は死なない。戦い続けられる……!」
狂気に満ちた笑い声が、空間に響き渡る。ナイミラもまた、その光景に笑みを浮かべていた。
「アルド、お前は新たな力を手にした。キミが望んでいた、不死の狂戦士へと至るための力だ。この力には私でも分からないことがあるかもしれない。気を付けるように」
「わかった」
彼女の真剣な表情に俺は頷いた。
新しい術式ということもあり、未確認の現象が起きる可能性がある。それを言っているのだ。
俺は拳を握りしめ、自分の新しい身体を確かめる。
「これでいい。俺は戦うために生まれてきたんだ……この力を、存分に使わせてもらうぜ!」
「それはいいが、注意事項を覚えているかい?」
「首の切断だけは再生しない、だろ?」
彼女はコクリと頷く。
当然だ。いくら不死身になったとはいえ、斬られたりした首が再生するのは不可能だ。
事実上、死を意味する。
「あとは、一度に心臓を何度も再生することはできない。心臓が消えた場合は不可能になる」
「覚えているよ」
「よろしい。では、明日から訓練を再開しよう」
翌日から、ナイミラとの訓練は熾烈を極めた。
『エインヘリヤルの刻印』を慣らすため、俺は限界を超える戦闘を何度も繰り返した。切り裂かれ、貫かれ、倒れては再生する――その繰り返しだ。だが、その痛みも恐怖も、次第に俺の中から消えていった。
痛みすらも、今ではただの刺激でしかない。
職業スキルである『狂気の解放』による理想の消失というデメリットが消え去った。
エインヘリヤルの刻印は俺の肉体を不死に近づけ、そして俺自身も、狂戦士の名にふさわしい姿へと変貌していく。
時が流れ、ナイミラと出会ってから一年が経った。
俺はもう、かつての自分ではない。肉体も、精神も、生まれ変わった。
「アルド、これで私の役目は終わりだ」
ナイミラが静かに言った。彼女の目には、満足と、どこか寂しげな光が宿っている。
「行くのか……?」
「ああ。キミはもう、一人で十分に戦える。私がこれ以上教えることはない。私が知っている限り、キミは最強の狂戦士だ」
ナイミラは微笑みを浮かべ、俺の前を離れていく。彼女がいなければ、俺はここまでたどり着けなかっただろう。だが――これ以上、彼女を引き留めるわけにはいかない。
きっとまたどこかで会える。
「……ありがとう」
背を向ける彼女に向けて、短くそう告げる。それ以上、言葉はいらない。
戦いが、闘争が俺を待っている。俺の新しい力を試す場所が――
「アルド、キミの活躍を楽しみにしているよ」
その一言を最後に、ナイミラは姿を消す直前、「そうそう。私のことは秘密で頼むよ」と言っていた。
あまり人に知られたくないのだろう。
ならば、これは俺と彼女だけの秘密とさせてもらおう。
家も無くなり、俺はクレイヴンハート家へと帰るのだった。