王女に毒を盛ることを命じられたモブAの話
あ、終わった。
この瞬間、アナベル・タラモは17年という短い生涯の終わりを察した。
目の前には閉じられたカーテンの隙間から外を眺める王子殿下の背中が見える。アナベルが不本意にこの部屋に立ち入ってから、彼はチラリともこちらを振り向くことはない。
普段は何に使われているのかもわからない少し埃っぽい部屋の中にいるのは、アナベルと王子、そしてその側近の男だけだった。この側近の男こそ、アナベルをこの部屋に招き込んだ張本人である。
「最近ミシェルの体調が優れないのだとか…何か気を揉んでいることでもあるのか、あまり眠られていないそうではないか。嘆かわしい」
「はい、そのようで」
王子は独り言のように、若干演技がかった台詞を吐く。
それに応える側近も、まるでアナベルはここにいないかのような振る舞いだ。
「そういえば、先日よく効く睡眠導入の薬が手に入ったな。これはミシェルに是非ともお裾分けしてやらねばなるまい」
「それは妙案でございます」
アナベルはこの芝居がかった胡散臭い話を聞きながらも、必死に打開策を練って頭をフル回転させた。
アナベルからすれば、その不眠の原因はお前だろうと言ってしまいたいのだが、そんなことは口が裂けても言えない。
「だがなぁ…ミシェルは大層疑り深い上、限られた人間しか寄せ付けないだろう?唯一の兄妹である私ですら遠ざけるとは、病的だとは思わないか?」
「おっしゃる通りでございます」
アナベルはハンッと鼻で笑ってやりたかったが、すんでのところで飲み込んだ。これ以上事態をややこしくするのは得策ではない。
「あの頭の硬いミシェルのこと…きっと睡眠導入剤だなどと言ったら、撥ね除けられるのが目に見えている。しかしあの窶れた顔は労しくてな…」
なんとかならないものか、と王子はわざとらしく息を吐いて項垂れた。
そんな様を白けた目で見ながら、貴方様は頭が緩すぎると思いますけれど、とアナベルは内心で毒づく。
「殿下、たまたま、今ここに王女殿下の侍女がおります」
「なんと…!それは奇遇だ、是非今晩ミシェルにこの薬を飲むよう取り計らってくれないか?」
やっとのことでこちらに視線を向けた王子の顔は、口元は不自然に弧を描いているが、目がまったく笑っていなかった。
ぞわっと得体の知れない不快感が背を駆け抜け、室内に入ってから激しく脈打っている心臓がぎゅっと鷲掴みされたように苦しくなる。
内心では色々と悪態を吐いていたが、実際は冷や汗が止まらずきっと顔色も悪いことだろう。
黙って王子を睨みつけていたアナベルの前に、側近がずいっと小さな包みを差し出す。
側近のその顔は何の感情も浮かんでいない蝋人形のようで、何とも不気味で堪らなかった。
「そうだ…君の家にはまだ幼い弟と、甥や姪もいるんだったか。随分と家族が多くて羨ましいことだ。我が家は妹と私しかいないからね」
含みのある言い方をして、王子は笑みを深めた。
アナベルは手が白くなるまで強く拳を握り込み、忌々しいその顔を睨みつける。
「…くれぐれも、変な気は起こさないことだよ。君が善意で私に手を貸してくれたんだから、ね」
三日月のように細められたその目が、アナベルの背負う全てのものを見透かしているようだった。
今この瞬間から、アナベルも、そして家族もその運命をこの男に握られたのだ。
ギリリと歯を噛み締め、アナベルはぶん取るようにして包みをひったくり踵を返す。
一刻も早くこの空間から、この男と空気を共にするこの場から立ち去りたかった。
王子に対しての礼儀を欠き、侍女失格である振る舞いで部屋を去ったアナベルを咎める者は、誰もいなかった。
*
さてどうする。
部屋を出てすぐ、アナベルは残り少ない時間をいかにして有効に使うかを必死で考える。
恐らく、いやきっと王子の手の者が自分のことをどこかから監視していることだろう。
少しでも変な気を起こせばどうなるかは目に見えている。さすがにあの愚かな王子も密命を託したアナベルを野放しにするほど阿呆ではないだろう。
いっそそこまでの脳足りんであってほしいとも思うが、あの側近はそこまでの間抜けではあるまい。
そもそもこんなこともあるかもしれないと、数少ないアナベルたち王女の専属侍女は常に念入り過ぎるほど念入りに警戒をしてきた。
それを唯一と言っていい穴を突いて、アナベルが独りになるタイミングを狙って仕組まれたこの凶行。
すべてはあの側近が仕組んだことなのだろう。あの王子にそんな能があるとは思えない。
現国王が病に倒れたのはほんの1週間前のことだ。
それからあの脳足りんがこんなにも早く行動を起こすとはさすがに思っていなかった。認めたくはないが油断していたのだろう。
国王の病状は深刻で、意識不明の状態が続いている。これはもう目覚めることがないまま崩御されるのではないかと気を揉む声が少しずつ上がり始めていた。
現国王の子はアナベルの主人である王女ミシェルと、その兄の王子カーティスのみ。この国では第一子を後継にするという決まりはなく、時を見て王がそれぞれの子の能力や求心力から総合的に判断し、後継を決定することになっている。
二人はまだ二十を超えたばかり。これまで健康上何の問題もなかった王の悲報は、まさに青天の霹靂であった。
もちろんまだ後継の公表はされていない。だが誰の目から見ても、後継に相応しいのは王女ミシェルだった。王の資質を存分に引き継ぎ、溢れ出るカリスマ性は人々を魅了して止まない。
それが面白くなかったのは兄のカーティスである。輝かんばかりの妹の才能を前に、常々辛酸を嘗めてきたと本人は思っていることだろう。
周りからすればそれすら勘違いも甚だしいと呆れ返って言葉もない。
妹への劣等感の塊とでもいうような王子は、その反動を拗らせに拗らせまくって見事に性格がひん曲がってしまった。
プライドだけは異常に高く、野心家な上いつ爆発するかもわからない癇癪持ち。まさに絵に描いたような暴君となることは目に見えているような人物だ。
王家にとって常に付き纏う悪評の根源。
それをどれだけ妹である王女が尻拭いしてきたことか。
まさに王家の目の上のたんこぶだ。
そんな人物でさえ、支持する少数派がいるのだからアナベルには理解できない。あの脳足りんは傀儡にするにはもってこいなのだろう。目先の富や権力に目がくらんだ愚か者たちをアナベルは心底軽蔑している。
お前たちには十年先を見通す能はないのかと問いたい。
万が一にも王がこのまま崩御した際には、後継は重臣たちによる投票で決められる。
例えそうなったとしても、王女が後継となるのは間違いないだろうと皆それを心配はしていない。
そんな中で王子が王になる手段は少ない。
妹である王女が辞退するか、逝去するかの二択だ。
王の目が黒いうちはさすがに行動に移すことはなかったその凶行も、王が倒れた今後はどうなるかわからない。
そう王女の側近たちが警戒を強めていた矢先の出来事であった。
時刻は既に夕暮れ時。これからアナベルの主人である王女の夕食、湯浴み、そして就寝の準備が控えている。
どのタイミングでも、専属侍女であるアナベルには王女に薬を飲ませる機会は十分にあった。
あの口振りからすれば、恐らく今日中に事は遂行しなければいけないのだろう。
普段のアナベルからすればかなりゆっくりな速度で廊下を歩む。少しでも事を先延ばしにしたいという悪足掻きだ。
そしてどうかこの間に妙案が降って湧いて欲しい。
そうして王女宮の廊下を歩んでいたアナベルの視界に、とある男の姿が入る。
その瞬間、アナベルにはもうこれ以外道はないと一筋の光が差したのだった。
*
「まぁ…!申し訳ございません、バークリー様!ボタンが…!」
「大丈夫か?…ボタン?あぁ」
「さぁこちらへ!お直しいたします!」
「いや、ボタンぐらい後で…タラモ嬢…?ちょ、おい…!」
前方からやってきた恵まれた体躯の男にすれ違い際よろけてぶつかったアナベルは、男の制服のボタンを渾身の力で引きちぎった。
男は驚いた顔をしてアナベルを支えたが、ボタンぐらい大したことはないと申し出を断ろうとした矢先、有無を言わせぬほど強引にアナベルにそばの部屋に連れ込まれた。
「いったい何だと言うんだ…」
怪訝な顔をした男は糸がぴろりとついた、ボタンがあったはずの箇所を見下ろして溜め息を吐く。
なんとか男を部屋に押し込んだアナベルは、肩で大きく息をして気持ちを整えた後、意を決したようにその顔を見つめて口を開いた。
「バークリー様、時間がありませんので手短に申し上げます。ひとまず何も言わずに私の話を聞いてください。…私は先程、カーティス王子に睡眠導入剤だと言ってミシェル様に服用させるよう薬を渡されました」
硬い顔で一気に告げたアナベルの言葉に、男は驚きで目を見開く。すぐに口を開こうとしたのを、手を前にかざして制し、アナベルはそのまま続けた。
「恐らく…いえ確実に睡眠導入剤ではないでしょう。そして王子殿下は私の家族を人質に取っているも同然の発言をしていました。…私はこの任を遂行しようがしまいが、始末される運命でしょう。今この行動もどこかで監視されているはずです。不自然だと勘繰られた時点で、もう向こうは最悪の判断をしているかもしれません。…正直、こうなってしまった以上、私の命はもう諦めています。結果的に自らの不注意が招いたことですから。しかし家族の安全だけは…どうか見届けていただけませんか、私の代わりに」
一気に述べたアナベルの声は、最後には震えていた。
自らの口で死を覚悟した瞬間、それが急に現実味を帯びて襲ってきたのだ。
そうか、私は死ぬのか――と。
「ミシェル様には絶対にご迷惑をお掛けするわけにはいきません。どうか、お願いします」
「…なぜ、私に?」
険しい顔をしていた男が、静かに問うた。
「ミシェル様の近衛隊長であり、バークリー侯爵家の貴方様であれば、家族を庇護下におくことも可能かと思いました。もう私には時間が残されておりません…他に妙案を考えつく暇もなく、こんなことしか思いつきませんでした」
もうこの部屋を出た瞬間から、アナベルの命の保証はない。
最期に会うことができたのがこの人で良かったと、アナベルは唇を緩ませる。
「…お慕いしておりました。こんなことを告げて困らせてしまって申し訳ありません。ですが、これが私の最善でした」
アナベルの瞳に膜が張る。
告げるつもりもなかった思いだが、最期に告げられて悔いはない。
妙に清々しい気持ちだった。
そんなアナベルの心境とは打って変わって、視界の先の思い人は険しい顔のまま。
アナベルは小麦栽培が盛んな片田舎の領地の子爵令嬢だった。トンビが鷹を産んだと言われるほどの才女だったアナベルは、こんな片田舎で納まるのはもったいないと家族の強い勧めで王城仕えに志願した。そんなアナベルは数々の試験を突破して、晴れて栄えある王女付き侍女となったのである。
共に王女に仕える仲間の中で、アナベルが最も信頼し、尊敬しているのは目の前のジェラルド・バークリーだった。頭脳明晰で、剣の腕も近衛騎士の中で群を抜いていると聞く。凛々しい精悍な顔つきに、騎士として鍛え抜かれた逞しい肉体を持った彼は、城仕えの侍女たちの間でも人気が高い。
自分よりも十以上は歳上かと思われる人だが、こんな小娘相手でも対等に意見を交わし、王女の側近の一員としてアナベルの実力を認めてくれている。
これまで領地の些か粗野で男女の機微にも疎いような異性としか接してこなかったアナベルにとって、ジェラルドのように紳士な歳上の男性が憧れの対象となるのは自然な流れだった。
才女と名高かったアナベルの目から見ても、王女はまさに非の打ち所がない完璧な王となる素質を持っている人物だ。側にいればいるほど、王女への敬意が溢れ、この方の為に命を尽くそうと強く胸に誓った。
カーティス王子がそんなアナベルを手駒に選んだことが、アナベルは不快で仕方がない。自分の忠誠心をそんな軽いものだと思っているのかと、その場で叱責してやりたいぐらいだった。
あの脳足りんには自分の命より大切なものがあるなんてことは、微塵にも浮かばない考えだったのだろう。
たかがしがない子爵家の自分が、こんな栄えある地位に就いたのがいけなかったのだ。
だから王子側に付け入る隙を与えてしまった。目の前にいるジェラルドや他の側近たちの様に、あちらが簡単に手を出せないような身分を持っていたならば、きっとこんなことにはならなかったのに。
自分の能力ではどうすることもできない力を見せつけられ、アナベルのこれまで培ってきた自尊心はみるみるうちに萎んでしまった。
「はぁ…」
しばらくの後、ジェラルドは呆れたように大きな溜め息を吐いた。
アナベルはそんな彼の様子にますます涙が溢れそうになる。
敬愛する王女殿下は、その心根もお優しい。きっと自分のような一介の侍女が死んだと耳にしても、胸を痛めてくださることだろう。ただでさえ問題が山積みの今、自分がお荷物になってしまうのが忍びない。
その上、一世一代の嘆願をした尊敬し、慕っている人物にまで呆れられてしまった。
もう何もかもおしまいだ。どうせこの人生は直に終わるのだから、悲嘆したって仕方がないのに…とアナベルの胸中は荒れに荒れた。
「痛っ!」
大股にアナベルの前まで進み出たジェラルドは、その指でアナベルの額を弾く。
日頃から剣を握っている男の一撃は、例え指一本であろうと凄まじい威力だった。
衝撃と驚きでアナベルの目からぽろりと大粒の涙が溢れ出る。
「才女と名高い貴女も、平静を失うとこうなるのか…これは由々しき事態だ」
ジェラルドは神妙な声音でそう言って、その言葉とは裏腹に仕方がないというような優しい笑みを浮かべていた。
アナベルは両手で額を押さえながら、呆気にとられた顔で上目遣いにジェラルドを見る。
「何故、敬愛なる王女殿下に相談しない」
「だ、だって…今は国王陛下も伏せておられて、ミシェル様も心労がたたっていらっしゃって…」
「我々が仕える偉大なる王女殿下は、側仕えの侍女の窮地を救えないほど度量が狭いと?」
「そ、それは…」
「何も案ずることはない。我々の主があの愚兄殿下が考えつくことを、予期していないはずがないだろう」
言われてアナベルは、呆気に取られぽかんと間抜けな表情をした。
ジェラルドはその顔を見て愉快そうに口端を吊り上げる。
「とりあえず、ミシェル様のところに行くぞ」
ぽんぽんと幼子を慰めるように大きな手でアナベルの頭を撫でたジェラルドは、呆気に取られたまま動けないアナベルをエスコートして部屋を出る。
しばし思考回路が止まってしまっていたアナベルは、しばらくして動き出した頭をフル回転させて事態の把握を試みた。
あれ、私告白し損では…?
そうして辿り着いた結論に、傍らで自分を守るように歩いているジェラルドから逃げ出したくて堪らない気持ちになったのだった。
*
ジェラルドを伴って現れたアナベルからひと通りの話を聞いたミシェルは、優しい笑みを浮かべて何も心配はいらないとアナベルを抱き締めた。
あの愚兄がまず何をしようとするか、そんなことは疾うにお見通しだ。アナベルの実家は既に王女の指示によって警護対象となっている。
何も心配などいらなかったのだ。一人で大騒ぎして、絶望して、敬愛する主を信じて頼ることをしなかった自分を恥じる他ない。
アナベルはミシェルの胸で声を上げて泣き、何度もごめんなさいと謝った。
折を見てアナベルには色々と助言という名の警告をしようと考えていたミシェルだったが、読みが甘かったと忌々しい兄に内心舌打ちをする。腕の中でわんわんと泣いているアナベルの髪を撫でながら「一足遅かったわね、許してちょうだい」と慰めた。
何しろこのアナベルは田舎から出てきたまだまだ人生経験の乏しいうら若き乙女なのだ。見ていて危なっかしいったらない。こんな純粋無垢な子を毒牙にかけようとするなんてけしからんと、アナベルを妹のように可愛がっているミシェルは静かに激怒した。
そうしてミシェルの逆鱗に触れた今回の一件は、秘密裏に進めていたカーティス王子廃嫡に向けて、一気に事を推し進める引き金となった。
実は床に伏せっていた王は数日前には意識を取り戻しており、これを機に愚息をどうにかしようと王女と共に決意していたのだという。
そうしてあれよあれよと言う間に事態は終息した。全ての事が呆気なく片付いて良かったと思う反面、どこか腑に落ちないと思っているのはきっとアナベルだけだろう。
そんなアナベルの心情がありありと浮かぶその顔を見て、ジェラルドは緩む頬を堪えきれない。
偉大なる主ミシェルが正式に後継として認められ王太子となってから、今日は初めて公の場に姿を現す日だ。
国民たちの歓声は既に耳に届くほど盛大になっている。
準備を進めるミシェルを少し離れたところから見守りながら、ジェラルドは隣の少女を盗み見る。
突出した評判も聞かないような片田舎からやってきたこの少女は、数々の難試験を驚異的な成績で突破し、その才を認めた王女によって共に王女に仕える仲間となった。
彼女の傑出した才は、その驚異的な記憶力にある。密かに"歩く書庫"という名誉なのかわからない異名で呼ばれていたりもするのだが、それは本人の預かり知らぬ話だ。
そんな彼女も、ただの年端もいかぬ少女だと思い知らされたのは少し前のこと。
目の前で取り乱し、いつもは利発そうなその瞳をうるうると潤ませたその姿には、正直グッときた。
なし崩し的に告げられた思いには、今のところ互いに触れてはいない。
だがジェラルドは、いずれそこをじわじわと問い詰めたいなと意地の悪いことを思っていたりする。
大人たちに交じって背伸びをしながら懸命に働く彼女を好ましく思っていたジェラルドにとって、アナベルからの思慕は正直満更でもない。というか嬉しい。大歓迎だ。
これは外堀から埋めていくべきだな、とミシェルの許しを先に得ようと策略を巡らせる。
隣でそんな不届なことを考えている人物がいるとは微塵も思っていないアナベルは、美しく着飾った王太子ミシェルを誇らしい気持ちで見つめているのだった。