連載第5回(最終回) <律子の大変身とクリスマスイブの初体験>
康一が由紀子に振られ、瑠璃との別れがあった1972年の夏ころ、「伽藍」には松村や美恵等の高校同期の仲間はじめ多くの若者が出入りしていた。松村もそれなりに恋に生き、美恵も梶本と付き合っていた。彼らは康一が律子と恋人同士になっていることを喜んだ。そして律子が18歳であることを知って驚いた。
康一は、建設会社の設計部の仕事も順調にこなしていた。この時期まで渋谷ジャンジャンのカメラマンの仕事を続けていて、もう、バイトとは言えないプロ並みの仕事ぶりだったが、本業が忙しくなるので、このアルバイトはやめにした。
会社では、毎日のように律子と顔を合わせ、時々デートをするようになり、週に1,2回は「伽藍」に来るようになっていた。
ある晩、「伽藍」に来た律子は会社を辞めることにしたと康一に言ってきた。
「わたし、やりたいことがあるの」
「なに?」
「化粧品会社の美容部員になりたいの」
「えっ?」
「美容部員って、何?」
「デパートの化粧品売り場で、お客さんに化粧品を試してもらったり、アドバイスする仕事よ」
またしても康一の頭の中で銀河系宇宙にブラックホールが出現した。
康一は、そういえばデパートの1階の化粧品売り場にいる、綺麗な女性店員がいたことを思い出した。地味な律子が、そんな仕事に就けるのであろうかと、耳を疑った。
既に、面接し、ほぼ就職が決まりかけているという思いがけない告白であった。
「律子がやりたいことがあるなら、やればいいさ」
康一は、反対しなかった。律子の決断力、行動力に感心した。
黒縁メガネを外した律子の瞳の綺麗さは、すでに知っていたので、その仕事も大丈夫だろうと考え、後押しした。
律子は建設会社にも筋を通して円満退社し、化粧品会社の独身寮に移ることになった。寮生活となると律子と自由に頻繁に会えなくなることはつらかったが、律子の思いを尊重した。
律子との連絡はやや面倒な寮への取次電話となり、それでもデートは時々は行うことができた。研修を始めてしばらくして会った律子の容姿の変わりように驚いた。
もう、地味な女ではない。
化粧品売り場に居る美しい女性に変わっていた。
黒縁メガネは利用せずに、コンタクトレンズに変えていた。当然、美容部員なので化粧も上手い。濃くは無いが魅力を引き出す「いい具合」のメークだ。ファッションも大きく変わっていた。こんなに着こなしのセンスがあったのかと感心した。決して高価ではないがファッション雑誌に載っているような、最新のモードでやってきた。律子へのキスも実に新鮮で、楽しいものだった。久しぶりに「伽藍」に来た時には、皆も驚いていた。
律子は2カ月間の研修ののちに、売り場に出ることになった。康一は、何度か売り場にも行ってみた。そこには生き生きと働くカッコイイ律子がいた。
二人で街を歩いても、つい自慢したがる気分だった。そんなことから調子にのって美容部員の制服のままの律子を連れて映画館に行ったが、その映画は少し過激な「女囚701号/さそり」であった。律子は目立ってしまい制服を知っている観客からヒソヒソトささやかれてしまい、ちょっとまずかったかなと反省した。
生まれ変わった最先端の格好の律子と、久しぶりに赤坂の「MUGEN」に行った。地味な律子の時もたのしくダンスしていたが、今ではダンスを十分に楽しみ。目立つ女子であった。「MUGEN」と同じビルにある、より高級な「ビブロス」にも連れて行っても見劣りしない。当然、チークタイムでは抱き合いながらのキスでステップを踏んだのだった。
この1972年の2月には学生運動からの逸脱と言える一部急進派の赤軍派による「あさま山荘事件」が発生。学生運動への世間のイメージはますます悪くなっていた。そして、この年は学生運動も下火となり、日大は通常の学校運営に戻っており、康一達は3月に日大を卒業した。そして建築士を目指して実務経験に励んでもいた。
5月には沖縄返還がなされ、日本の国家主権のゆがみが少しずつ解消されていったが、米軍基地は相変わらず大きな存在で、県民への負担は積み残されたままであった。康一は南の島へ行きたがっていたミー子が、返還前の最南端の与論島よりもっと南の沖縄まで行ったのであろうかと思いをはせた。
康一は、自身の恋愛生活の1972年を振り返ってみた。
2月:プラトニックラブで熱烈に求愛した由紀子とトミー達との湯沢スキー旅行
6月:深夜に「伽藍」に出入りの不思議女ミー子の突然の部屋への訪問とキッスの不意打ち
7月:求愛しつづけていた由紀子に振られて大失恋
8月:ミー子との心に残る伊豆旅行、瑠璃からの求愛と心残りな分かれ
9月:律子との出会いと恋人関係の成就
10月:律子との京都旅行と童貞決別の失敗
忙しい年だった。
康一は、長い間熱望していた女性体験を果たすことを願って計画した京都の一夜は残念な結果となった。この目的は必ず達成したいと決意してそのタイミングを待った。
建設会社での設計作業は相変わらず忙しく、律子もデパートでの仕事でなかなか会うことが出来なくなっていた。
何とか、週に1回はデーとするようにし、律子の仕事場で仕事終わりに待ち合わせした。それは、それなりに楽しい時間ではあった。時には、六本木のクラブにも踊りに行った。しかし、律子は原則として寮に帰らなくてはならない。ゆったりと一夜を過ごす時間は、あまりなかった。
「律子、クリスマスイブには会えるかな?「伽藍」にこれる?」
「クリスマスイブは仕事だけど、次の日に休みを取れたので、泊まりにこれるわ」
「じゃあ、二人でゆっくり過ごそうよ。」
康一は、律子にクリスマスイブに会えるのを楽しみにした。
このところ、「伽藍」の住人も少なくなり、昔ほどにぎやかではなくなっていた。クリスマスイブなので、岩井や居候たちも新宿あたりに飲みに行くようだった。
いよいよ、その日がやってきた。中華「十番」でささやかな夕食を取ってから「伽藍」に戻り部屋の鍵をかけて二人だけのクリスマスイブを静かに過ごした。律子も、康一の覚悟は悟っていた。京都の恨みを晴らすのだろうと思った。夜の10時ころに二人ではベットに潜り、律子は毛布の中で全裸になっていた。
「律子、今日は、ちゃんとするつもりだ」
「わかってる」
「もたつくかもしれないが、よろしく頼む」
律子は決してグラマーではなく、乳房も大きくはない。それでも18歳の若い娘の体はぴちぴちしている。
康一は、想像力を豊かにして、律子と一体になるようにいろいろと体を動かした。
律子も、康一の動きを助けるように、誘導した。そして、ようやく康一の思いの通りに二人が一つになった。
「律子、いいね」
「いいわよ」
康一は、ようやく想いを遂げた。
律子は康一を優しく抱きしめてくれた。康一は幸福感のなか、静かに眠りについた。
康一ロケットの打ち上げは成功し、宇宙に飛び出していった。もう、ブラックホールが出現することは無いだろう。
康一は、どちらが先に初体験を済ませるかの競争で負けてしまった横尾にやっと追いついたことを連絡した。横尾は、1年ほど前に彼の仲間内で借りていた共同のアトリエ兼住宅で同じ大学仲間の女学生と関係を持ったのだが、康一の報告に対して心から祝福してくれた。「伽藍」にやってきた松本にも話をしたが、さゆり共々喜んでくれた。松村には特にしっかりと伝えたくて時々依頼される郁美の撮影旅行の際に打ち明けた。もちろん「ようやくだったね」と、やはり喜んでくれた。この旅行には、律子も同伴させることもあった。康一の手元には4人で撮影した西伊豆での写真が今でも残っている
大学を卒業するとなると「伽藍」での居住の期限が来るが、大家である嶋田氏は1年ほどの猶予を与えてくれた。1年前に一足先に大学を卒業した石川はオリーブとの関係は良好に続けたが、すでに「伽藍」から巣立っていった。隣室の中島もすでに引っ越ししていた。岩井は、あいかわらず「伽藍」の外で楽しい女性関係を続けていたようだが、「伽藍」では居候と暮らしていた。
そして、康一は、「大学」だけでない、「女性体験」での卒業を迎えて、めでたしめでたしであった。いろいろ背負っていた課題をこなした充足感があった。
そんな中で「伽藍」での生活に終わりが見えてくると、寂しさを感じるようになってくる。律子との愛をはぐくみながら、その寂しさの中で「伽藍」で残りの生活を楽しむことにした。
康一は、今までの住人や来訪者に声をかけて、解散パーティを開くことを呼び掛けた。簡単な造作の間仕切壁を外して大広間にし、「十番」の餃子などの料理をそろえ30人程度の宴会が開催された。石川、平、岩井等ここで暮らした住人や大家の息子の嶋田、平と由紀子、居候だった間島とトミー、常連の訪問者鈴木、松本とさゆり、隆太と満里奈等「伽藍」での常連が集まった。しかし、南の島に行ったままのミー子や瑠璃がその場にいないことは寂しかった。参加者は、それぞれが「伽藍」での思い出に浸りながら、お互いの近況を語り、遅くまで盛り上がった。
「みんな、これで「伽藍」は終わりになるけど、嶋田と父上のおかげで暮らしてこられたのを皆で感謝しようよ」
「そうだ、勝則、ありがとうな」
「そうだ、お父さんにも宜しく言ってくれよな」
そもそもこの「伽藍」に康一達日大の学生が住むことが出来たのは、学生運動に励んでいた嶋田勝則の父親が勝則が家から出て行かないように勝則の友人たちを取り込んだことによるもので、その狙いは当たった。そして住人たちはこの「伽藍」で4年間の生活を送ることが出来たのは、その理由による恩恵を受けたのである。
そして、1973年6月に「伽藍工房」はひっそりと閉じられた。康一は4年間の「伽藍」の生活を懐かしみながら、律子との新しい愛の生活を始めるのだった。
康一は、この「伽藍」閉鎖の少し前に近くに借りたアパートに引っ越した。律子はほぼ毎日このアパートに通ってきて、明け方始発電車で寮に帰っていくという、ほぼ同棲ともいえる新しい愛の生活が始まっていた。康一は夜明けに「伽藍」を出ていくこの通い愛をほぼ毎日淡々と繰り返す律子の直向きさに更に感動していた。
松村が、久しぶりに新宿で会った時にこの半同棲生活を始めたことを聞いて気になることを言った。
「律子は18才だったよね。その年齢は犯罪ものだよな」と冗談で言った。
さらに、「その歳の女との同棲は、ちょっと気になるね」とも言ったが、康一はさほどその言葉を気に留めなかった。松村は未成年の律子と同棲生活を行っていることで、それを知った律子の親などが何らかの行動にでるのではないかということを危惧していたのだった。のんきな康一は松村の「気になっている」という言葉はさほど記憶に残らずにいた。大学も無事卒業でき、律子との愛の生活が続く毎日を過ごし、銀河一の幸せ者と思う康一だった。そして、松村の言う心配事はいずれ現実になるのだったが、それはまだ先のことだった。
完