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連載第2回 <気が付くと地味な事務員律子がそこに居た>

 康一の勤める建設会社に女性事務員が2人いる。ミニスカートが似合った少し色気のある葛城さくらは設計部の先輩で、彼女とは結ばれることは無かったものの深夜に康一の部屋に来てマッサージしてくれてそれなりに楽しい時間を過ごした思い出があり、彼女が退職して寂しくなった。さくらが会社で働いているときは、さくらの存在の陰に隠れて目立たなかった事務員たちだが、さくらがいなくなってから、事務員の一人、高橋律子の存在を意識しだした。


 さくらとは対照的な黒縁メガネをかけた目立たない存在。康一は、この黒縁メガネの律子の地味さに惹かれた。さくらの他に、突然部屋に着てキッス襲撃を行った「ミー子」、「伽藍」の地下室でヌード写真撮影を許し、誘惑してきた「真奈美」、そして最近康一への愛を告白してきたものの結ばれることのなかった「瑠梨」、彼女たちに比べて、律子のおとなしい印象が、由紀子との結ばれない愛の後遺症が完治しない康一には、なにか、心を癒される感じがしたのだった。いろいろと出会った女性たちの表面的な魅力に気を取られすぎたことに対する反省であったかもしれない。宇宙のどこかの銀河系に住む知的生命体が発信する希望を感じさせる電波が届くようなものだった。


 康一は、学生集会の帰りに康一の会社に立ち寄った土木科の全共闘闘士の嶋田勝則に、事務所で働く律子の姿を遠くから見せて、

「あの黒縁メガネの事務員、気になっているんだ」

と、告白した。勝則は、

「ああ、いいんじゃあない、俺も、ああいう清楚な地味な女は嫌いじゃあないね」

康一は、嶋田の後押しするような言葉で、さらに律子を意識した。


 律子はこの時18歳であったが、康一はその落ち着いた囲気からもう少し大人かと思っていて、そんなに年若い女であったことはだいぶ後で知った。

 ある日、会社の近くのスナックに律子と同僚の男性社員とが二人でカウンターに座って食事していたのを目撃した。あの二人は付き合っているのだろうかと、軽く嫉妬したが、二人の間には何の関係もなかった。ただ、その嫉妬が、康一の律子への思いを加速させたのだった。


 康一はじめ「伽藍」で暮らす日大建築科夜間部の同級の石川康則と岩井孝雄の3人は建築士の資格取得を目指していた。石川は安田講堂事件の際に東大赤門の屋根に乗って機動隊と学生との戦いを眺めていたという、普段の物静かな態度から考えられないような豪傑だったが、そういった紛争も沈静化してきた。結局、3人は学生運動、日大紛争の異常事態に遭遇したものの、何とか大学を卒業し、最終的には全員が建築士になることが出来たが、「伽藍」時代はどうなるか未知数の状態で、それぞれが建設会社や設計事務所で実践の経験を積む日々であった。康一が建設会社に勤めるようになったのは、そのためであった。


 康一は設計部所属だが、時々現場にも駆り出された。それほど体力のない康一は、現場作業は結構しんどい思いをし、疲労困憊で事務所に戻った際には、律子たちの事務員からねぎらいの飲み物を出してもらうこともあった。

 律子は、疲れた康一に優しく言葉をかけてきた。律子のやさしさが心にしみた。事務所で働く律子は、会社支給の上着に自前のズボンで、黒い髪は事務員らしいスタイルの肩までの長さ。化粧も軽めで、取り立てて目立つことは無いが、印象は悪くない。


 律子は、事務所で康一が他の社員と、設計の仕方や現場のおさまり、工事の進め方などで打ち合わせや議論をしている様子を、脇で眺めていて、康一の仕事に対する真摯な取り組みに感心していた。康一の存在が、律子の中で大きくなっていった。

 


 そんな日々が続いている中で、康一は、ある日律子をデートに誘ってみた。今までの女たちへの誘いとは違って、割と軽い気持ちで声をかけたのであった。

「律子さん、今度食事でもどうですか?銀座におしゃれな店があるんですよ」

「ええ、そうですね。いいですよ。夜ですか?」

「仕事が終わったら。一緒に行きませんか」

「わかりました。よろしくお願いいたします」

 初めてのデート場所として無数のブラウン管で外観を飾る個性的な建築で有名な銀座ソニービル半地下の「パブ・カーディナル」を選んだ。そこで軽く食事をし、そのあと近くのモダンジャズの店「69(ローク)」にも連れて行った。律子がこれらの店を気に入ったかどうかわからないが、付き合ってくれた。律子はモダンジャズには興味なかったが、とりあえずせっかく誘ってくれた康一の気が済むように付き合ったのであった。


 その後付き合いを続け、何度かデートを重ね、律子も「伽藍」に足を運ぶようになった。律子は初めて「伽藍」に来て地下室に案内されると、それが昔の防空壕であることを知って驚き、その大谷石造りの空間の雰囲気の良さを気に入った。映画に出てくる暗黒の地底世界のような、わくわく感もあった。康一は、ここで知り合いだったロックバンド「頭脳警察」のアルバムジャケットの撮影があったことをすこし自慢げに話した。

「そうなんですか?私そのバンドは知らないですけど、すごいですね」

「そのバンドのリーダのパンタとは、ちょっと知り合いだったのでこの地下室のことを話したらマネージャーが見に来て、気に入っちゃって、それで、撮影することになったんだ」

 律子は上階の木造の個室に暮らす「伽藍」の住人とその知人の常連たちと交流を重ね、「伽藍」に溶け込んでいった。岩井の部屋の居候の陽気な間島は特に律子に優しく接してくれて、康一も嬉しかった。


 康一は東中野の街も案内した。ある日は東中野銀座の老舗の中華「十番」で餃子とレバ入り焼きそばを、またある日は「みすず」でお好み焼きを味わって、そのおいしさに律子も喜んだ。

 また、桃田から教えてもらった新宿歌舞伎町のR&B音楽で踊れるクラブにも連れて行った。瑠璃との思い出のある赤坂の「MUGEN」には大分経ってから誘ってみた。律子は地味な恰好であったが、結構楽し気に踊っていた。律子も宇宙気分を味わったようだ。


 康一は、黒縁メガネの奥の律子の素顔を、だんだんとしっかり把握することが出来るようになって、その瞳の美しさに気が付き始めていた。

 律子は、いつも康一に優しく接してくれていたが、実は芯の強い頑固な女だった。最初は外交辞令でほめていた康一の部屋に飾っていたヌード作品を、嫉妬からなのか外してほしいと要求してきた。康一がしぶっていると、なんだかんだ言い続けて、結局外させたのであった。

 

 康一は、徐々に律子の女としての魅力にも惹かれていった。

 そこで、3ヶ月くらいして律子を旅に誘ってみた。二人で京都に旅行に出かける計画を立てた。会社には付き合っていることは秘密にしていたので、それぞれ別の理由で休暇を取った。

 康一は、渋谷のジャンジャンでのアルバイトのカメラマンだったが、バイト代も入ったので、一度宿泊してみたかったグレードが高い京都の「都ホテル」を予約した。それは、律子との一夜を迎えるにふさわしいホテルとの思いからのことだった。

 律子は待ち合わせの東京駅に派手さがないさっぱりした服装でやってきた。

「お待ちどう様、京都は楽しみね」

「そうだね、律子さん、京都は少しは詳しいから、いろいろ見せたいところに連れて行くよ」

 康一は、八坂の塔、産寧坂から清水寺の定番コース、不思議な煉瓦造りの水路閣が境内にある南禅寺、見晴らしの良い渡り廊下のある東福寺等をゆったりと案内して回った。以前一人で京都に来た時には、三千院まで足を延ばし、6×6番カメラで撮影して回ったが、今回は一人ではないので6×6ではなくNikonを使い、お寺をバックに律子をスナップした。地味な律子なのでスナップも地味ではあった。


 当時の市内には路面電車が走っており、市内観光も結構便利なのである。ある時期に路面電車が廃止になったが、康一は観光資源として価値のあるこのシステムを廃止することの先見性のなさを嘆いた。その市電の荒神口停留所から数分のところにあるジャズを聴かせる「しぁんくれーる」は、倉橋由美子の小説「暗い旅」にでてくる知る人ぞ知る店だ。京都市内には「Blue Note」、「Yamatoya」等のモダンジャズの店が数多くあったが、そんなにジャズが好きというわけではない律子には、それなりの雰囲気の楽しめる「しぁんくれーる」に絞って連れて行った。この店で律子に倉橋由美子の小説の話をしたが、じつは、倉橋由美子のことは「伽藍」に出入りしている松本から聞いたことで、やや受け売りだったのだ。実際、倉橋の「スミヤキストQの冒険」の話は異次元の別の星の世界のようで、なかなか理解ができなかった。

挿絵(By みてみん)

 律子は、倉橋の話は別としてジャズがわからなくても結構楽しんでくれたようで康一は安心した。

「律子、しぁんくれーるは、どうだった?」

「そうね、JAZZはあまりよくわからないけど、お店はすごく雰囲気があったわね」

「そうだよね、京都のJAZZの店は、皆個性的なんだ」

「康一さん、そういう店が好きなのね」

「これから泊まる都ホテルのすぐ近くには「カルコ20」というちょっと有名な店があって、今回は行かないけど、そこもいい雰囲気なんだ」

「ふーん、じゃあ今度ね」

 こんな会話をしながら、その後三条大橋近くのお好み焼き店に行き、楽しい食事をしてからホテルにチェックインした。

 この都ホテルには木造の数寄屋風別館「佳水園」があり、建築士を目指す康一は興味があったが、この別館の予約客以外は中に入れないので、許されるところまで行って眺めていた。それなりの格式のある都ホテルのロビー等の空間を見て回ってから予約した部屋に入った。高額の部屋ではなかったが、やはり都ホテルなので気持ちの良い部屋だった。


 康一は、今度こそ童貞と決別する決意だった。

 いよいよベッドイン。康一は、まず、律子にキスをし、裸の律子を抱き寄せた。律子は康一を好きになっていたので、康一の思惑は十分に承知していて、覚悟も出来ていた。あくまで受け身で、康一のしたいように身を任せていた。

 しかし、何しろ経験がない童貞康一は、どうしても最後まで行くことはできなかった。

 律子は康一の行為を拒否することもなく任せるままになっていたのに、うまくできなかったことは、ばつの悪いことであった。

 うまく進行できず、あたふたしても格好がつかないので早めにあきらめて、

「また、今度にしよう」

などと、その場を繕った。

 康一の頭には、またブラックホールに吸い込まれていく自分が目に浮かんできた。

 律子は、特に表立った反応はなく、そのまま寝てしまった。


 翌日も特に変わった様子は見せずに、康一の案内に従って嵐山、渡月橋あたりの京都観光を楽しんで帰京した。

 同じ会社の社員がそろって休暇をとったことで、二人の仲を疑われるのではないかと心配したが、他の社員たちの関心が少ないのか、鈍いのか、ばれることは無かった。

 その後も、二人は京都の夜のことは特に気にしないで、静かに交際を続けていった。

 

つづく



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