連載第1回 <失恋したくせに、康一、失意の瑠梨を慰める>
北原康一は、女性に対する今までの優柔不断な対応をあらため、由紀子という純朴な女性へ人生最大の求愛を行い、その結果は報われない残念な結果になった。この康一の大失恋は学生4人で暮らすシェアハウス「伽藍工房」の住人やそこに出入りする知人たちに知れ渡った。
この頃、康一は「ブルーバックス」シリーズの一般相対性理論関係の本にはまっていた。光速を超える速度を出すことが不可能であるというアインシュタインの理論を完全に理解しているわけではないが、宇宙というものが康一の想像をはるかに超えるスケールであり、地球外の知的生命体の存在を否定するのは思い上がりも甚だしいということを認識した。そしてブラックホールという不思議な存在も知り、由紀子との愛がまるでブラックホールに吸い込まれてしまったのだと思うようになった。
「康一さん、由紀子さんとのこと聞いたけど、大丈夫?」
東連寺瑠梨が、心配そうに声をかけてきた。瑠璃は康一の隣の部屋の内藤光男の彼女だった。
「瑠梨さん、ありがとう。燃え尽きたので、今はさっぱりしているよ」
東中野駅から数分の位置に、戦時中建てられた大谷石づくりの半地下の防空壕の上に木造の建屋を乗せた古い民家があり、1971年頃からここを改修して同じ日大建築科の同級生4人が暮らしていた。今で言うシェアハウスで、康一達は普段は「伽藍」と呼んでいたが、ここを住人たちにより何らかの創造拠点となるような大きな空間をイメージして「伽藍工房」と名付けたのであった。何か、楽しい異次元の空間へのタイムトンネルとも思えた。
康一が失恋した1972年の夏に、隣室の平の後に住んでいた鈴木が「伽藍」を出て行き、その後に新宿のロック音楽クラブでマネージャーのバイトをしている内藤が移り住んで来た。内藤はロン毛のスリムでハンサムな男で、マネージャーに向いてそうだった。若者にとって魅力的な宇宙基地のような「伽藍」は、住人の知り合い達が何人も訪ねてきたが、内藤の友人たちも、そして彼女の瑠璃も遊びに来るようになっていた。二人ともスタイルが良くて、実にお似合いのカップルだった。
瑠璃は駆け出しのファッションモデルで、雑誌「アンアン」から抜け出てきたかのようなストレートのロングヘヤーが魅力的でスリムな美人。白いコットンのシャツにジーパンというさっぱりした身なりでやってくることが多かったが、スタイルの良さを良く表していた。康一はゴダール映画出演のアンナカリーナの様だと、行ってもいないパリの街を思い浮かべた。こんなに格好よい彼女がいる内藤をうらやましく思った。
あんな綺麗なガールフレンドが出来たら、どんなに楽しい毎日を送れるのだろうと、単純にあこがれた。とても自分の相手になるような、手の届く対象では無いものと考えていた。
ある日、瑠璃が泣きながら康一の部屋にやってきた。
内藤と行き違いがあったらしい。瑠璃は、内藤との付き合いは続けていたものの、内藤の心が自分から離れていったことは理解していた。康一は思った、瑠璃は自分が暗黒の宇宙に放りだされ、そして内藤の瑠璃に対する愛情もブラックホールに吸い込まれ消滅していったのだろうと。
瑠梨は、「伽藍」に来るうちに康一のことが気になり、何度も話をしたりしているうちに康一を好きになったようだった。それでも2年も付き合った内藤に別れ話をされて、涙があふれてきた。
そして、康一に対する好意を自覚して、康一の部屋のドアを開けたのである。
部屋に入ると、泣きながら康一に抱きついてきた。
「康一さん、私、彼の気持ちがわからない。どうしたらよいの?」
「瑠梨さん、俺、なんて言ったらいいんだろう。兎に角、落ち着こう。俺に何をしてほしい?中島に何か言ってやる?」
康一は、瑠璃をやさしく抱きしめた。
「キスしてもいい?」
瑠璃は康一にキスを求めた。
康一は、由紀子との別れの傷がいえず、うつろな日々が続いていたので、自分には不釣り合いの高嶺の花とは思っていたものの、好みのタイプであることは間違いない女性からのキスは、動揺した。同時に、うつろになった心を埋めてもらえるような気になった。
康一もキスに応え、すこし強く抱きしめた。
康一は、以前、内藤から瑠璃の笑い顔は見られたものではないと信じられない言葉を聞いたことがある。こんなに美人でスタイルの良い瑠梨のことをそんな風に他人に言うなんて、瑠梨のことに飽きてしまったのだろう、他に女ができたのだろうかと推察した。さらに、内藤は、瑠璃は「伽藍」の中で自分は別として康一が好きなんだとも言った。もし、由紀子へ求愛し、報われない日々が続いていた時期に、瑠梨の気持ちを知っていたら、由紀子を忘れて瑠梨の愛を受け入れていたかもしれない。そして、由紀子への思いが吹っ切れた今、瑠梨との関係の進展を妨げるものはなくなった。
瑠璃は、
「康一さん、ごめんね。もう大丈夫だから、帰るわね」
と言って、内藤の部屋には戻らずに「伽藍」から出て行った。
「伽藍」の1階の玄関わきにはタバコ屋の店先によくあるピンク電話がある。瑠璃が出て行ってから2週間ほどしたある日、そのピンク電話がなった。瑠梨から康一へのデートの誘いだった。赤坂のディスコに一緒に行きたいと言う。瑠璃が行きたがっていたのは1968年にオープンした赤坂のディスコ「MUGEN」であった。もっぱら新宿でうろつくことの多い「伽藍」の住人は赤坂という場所は少し敷居が高く、懐の寂しさから、あまり出向くことは少なかった。
待ち合わせの赤坂見附駅で出会った彼女は、いつもとは違って絹のような光沢感のあるエンジ色の上下そろいのパンタロンスーツでおしゃれしてきた。一方康一はいつものブーツをはいているものの、タートルネックのシャツやよれたジーパンはバーゲン品で、瑠璃のファッションとの差に、やや気が引けていた。
瑠璃は、「今日は、おすすめのディスコなのよ。康一さんの好きな曲ばかりのはずよ。うんと踊って楽しみましょう」と、康一が着ているものの差にこだわっていることなど意に介せずに楽しそうに言った。
康一は、瑠璃に連れられて赤坂見附駅から数分の場所にある「MUGEN」にやや緊張して入っていった。狭い入り口から階段で地下に降りて行くと、そこにはよく行く新宿の居酒屋やスナックとは異なる、心が惹かれる空間があった。話に聞いていた通りの華やかで刺激的で魅力的な内装と音楽。この雰囲気を康一は大いに気に入った。それこそ銀河系宇宙だった。
新宿にも、高校同期の桃田が連れて行ってくれた刺激的なダンスの店があった。桃田は美術大学に進学したが、新宿のクラブで最新の音楽を流す店の情報をいち早くつかんで康一たちを誘った。ポップス好きの康一でも、フォアトップスの「アイ・キャント・ヘルプ・マイセルフ」などの最新米国R&B曲を大音量で流して皆で踊っているクラブは初めてで、大いに気に入った。桃田は長身でハンサムで女に持てないはずがないので、こんなクラブで女の子と知り合いになって楽しい一夜を過ごすんだろうなと、妄想していた。
赤坂の「MUGEN」は日本のディスコの先駆者で、その後バブル期に全盛期を迎えた全館がディスコの六本木のスクエアビルや麻布十番のマハラジャ等のディスコブームの到来を予感させるものであった。
「MUGEN」に行くと、迫力のある黒人バンドのライブ演奏があり、レコードでも康一が好むスティビーワンダーの「迷信」、オージェイズの「裏切り者のテーマ」等の当時のビルボードで上位ランクされている黒人系のヒット曲がかなりの音量で流れていて、そこで好きなステップで自由に踊ることは気持ちよかった。
瑠璃と向かい合わせで、目を見つめ合いながら自由に体を動かしてのダンスは快感であった。激しい曲が2、30分続くと、一転ムーディナな曲を流すチークタイムがやってくる。スタイリスティックスの「ユー・アー・エヴリシング」やプロコル・ハルムの「青い影」などの曲でカップルが体を寄せ合いながらチークダンスを踊る時間だ。
瑠璃から促されて、チークダンスを踊りはじめた。慣れていない康一、初めは恥ずかしがったが、瑠璃と体をぴったり寄せ合い、ゆっくりとフロアを廻りながらのダンスは、少し刺激的で気分はいやが応でも上がっていく。
こうやって、瑠璃の希望の形でデートすることは、心を痛めている瑠璃を少しでも慰められることにもなるといいのだが、と思うのであった。
瑠璃は、キスしながら
「私の彼氏になってくれる?」
とささやいてきた。康一は
「俺で、いいの?」
「あなたがいいのよ」
康一は、黙って瑠璃を抱きしめた。
このあとも、数回二人で「MUGEN」デートをした。康一は、由紀子に失恋したものの、ついに自分にも彼女ができるという新展開に大いに期待するのであった。三段ロケットで宇宙に飛び出したかのように。
しかし、康一の期待は裏切られた。瑠璃に思いがけずの事態が発生したのだった。
「わたし、子供ができたらしいの」
康一に妊娠していると告白してきた。内藤の子供だというが、終わりになりつつあった内藤との関係から、話がこじれてきた。このことを名古屋の地方に住む両親に知られ、瑠璃は実家に呼び戻された。
康一は、1964年に開通した東海道新幹線のひかりで名古屋に戻る瑠梨を東京駅まで見送りに行った。瑠璃は、子供のことをどのようにするかは康一には多くを語らなかったが、内藤とは話し合いを続けているようであった。康一は、瑠璃とはこれから楽しい恋人同士の付き合いが始まるものと思っていたが、瑠璃のかかえる重荷を考えると瑠璃に掛ける言葉はなかった。なお、この後、「伽藍工房」が閉鎖される少し前に、内藤から、瑠璃と話が付き、完全に別れたとの話を聞いたのであった。本当に子供ができたかどうかの真偽は判らないままだった。
新幹線のドアがしまる直前に泣き顔の瑠璃は康一にキスし、「ありがとう」とだけ別れの言葉を言って、車内に消えていった。
康一の心には、またまた大きな空洞ができてしまった。またしても、暗黒のブラックホールだ。
しかし、常に女性との恋の成就を待ち続ける康一は、このままでおとなしくなることは無い。今までのアプローチが良かったかどうかはわからないが新たな出会いを求めることにした康一に、しばらくすると今までと異なる愛の気持ちが芽生えたのであった。
つづく