絵画と鳥
僕は絵を描いていた。その絵は曇り空で、もやがかかっている。海には小舟が浮かんでいて、中央には一羽の海鳥が飛んでいる。空の向こうに飛んでいきそうな海鳥だった。まだ絵は完成していない。窓から外を見ると、一本の木が生えていた。その木には鳥が止まっていた。絵の中の鳥とは似ても似つかない。絵の中の鳥は実体のないような鳥で、木に止まっている鳥はとても可愛らしい鳥だった。僕はもっと飛びたかった。もっと。
………
僕には恋人がいた。僕は今二十四歳で、彼女は二つ年下の二十二歳だった。彼女とは大学からの知り合いで、交際してもう二年になる。ロングヘアがよく似合う女性だ。耳にピアスの穴を開けていた。そして人見知りだ。目は二重ではっきりしていて、綺麗な瞳だった。僕らは駅のホームで出会った。電車を利用する客はまばらで僕ら二人以外にちらほらいる程度だった。僕らは目が合った。僕は彼女に話しかけた。
「あの、連絡先交換してくれませんか?」自分でもバカらしいと思う。
「はい。」彼女はスマホを取り出した。
僕らはそうして出会った。あっけなかった。僕の手は震えていた。それから付き合うことになった。そうなることが決まっていたみたいに。
僕らはいろんな話をした。お互いの生い立ち、よく読む本の話、音楽の話、日々あったこと、いろいろ。楽しかったけど、いずれ終わりが来る。そのことはわかっていた。終わりが来ても、僕は最後まで別れない方法を探すだろうなと感じていた。感じていた。
「私たち、別れると思う?」
「別れるかもしれない。死別とか、どうしても別れなきゃいけないことがあるかもしれない。」
「僕が向こうに行きそうなときは追いかけてくれる?」
「向こうってどこ?」
「どこか…遠いところ。」
「いくよ。」
「嬉しいよ、ありがとう。」
………
僕について語る。僕は中学校で美術を教えていた。僕はそこの中学校の卒業生で、その学校は山間の田舎にあった。空には大きな鳥が飛んでいた。すぐ近くに海もあり、シーズンになれば海水浴をしに来る人で賑わった。海水浴場にはカップルもたくさん来ていた。深い愛を探すように。僕は愛を探していた。深い海に溺れていた僕を引き上げてくれるような深い愛を。僕は中学生の頃から苦しんでいた。ときには楽しかったりしたが、ときには苦しみを味わった。苦悩とは偉大なものである。そこには思想があるから。誰かが言っていた。僕はその言葉をぐっと手に握りしめ、我慢していた。思想があるから。僕はこのようなことをいつも考えてしまう。苦しいときはいつも、人はいつか死ぬのだからと考えていた。いつかは皆、灰になり自然にかえる。いわゆる循環だ。そう考えれば苦しみも空気や、灰になり消えそうな気がした。そんな気がしただけだった。
………
僕の家から教えている中学校までは車で十五分くらいかかった。その途中は海沿いの道路で、いつも車から海を感じながら通勤していた。車では自分のお気に入りの曲が流れていた。僕は音楽を切り、運転に集中した。なんとなくそうした。そして、いつもの時間に学校に着いた。
「おはようございます。」生徒の挨拶が体に響く。
「おはよう。」僕は挨拶を返す。
僕は職員室に行き、カバンを置いた。そして授業の準備のため、美術室に行く。美術室は窓から朝の光が差し込み、その光が床を照らしていた。僕は美術室の中に入り、ケースに入った絵の具を見た。全種類揃っている。僕は濃い青色を手に取り、またケースに戻す。僕はいろんなことを思い出した。近くの温泉宿の外壁が青だったこと。嫌な青色だった。子供の頃、青い折り紙ばかり使っていたこと。海や空をこの青色で塗ったこと。そして、僕は我にかえり授業の準備を進めた。
授業は午前中に一回、午後に一回あった。いずれも学校から見える風景画を描かせた。僕は生徒たちの絵を見ながら、アドバイスやいいところを褒めたりしてまわった。僕も外を見ると木々が青くおいしげっていた。空は晴れていたが、雲が多かった。切り取られた風景には何かしら意味があると思っていた。意味があると。
授業が終わると、日誌を書いたり、生徒の成績をまとめたりした。放課後は美術部の顧問をしているので、美術室に行く。部員たちは美術室にある人やフルーツの模型などを写生していた。あるいは風景を描いていた。
僕はふと、彼女のことを思い出した。彼女は今頃何をしているだろうか。彼女のことについて話す。彼女は大学四年生で、今年卒業する予定だ。卒業後は看護師になる予定だった。後からわかったことだが、僕らの家は案外近くで、隣町に住んでいた。そこから僕は美術系の大学、彼女は看護系の大学に通っていたわけだ。彼女は本当は本が好きで出版社に勤めたいと思っていたようだ。しかしそれは大学生になってから気づいたことで、もう変えられない未来だと自分で語っていた。
僕は家に帰ると、絵を書くことにしていた。自分の部屋でゆっくり、静かに。スケッチブックにラフな絵をかいたり、キャンバスに本格的に絵を描くこともあった。上手い絵を描ける人はいるが、何かを訴えかける絵を描ける人はそうはいないと僕は考えていた。もっと言うならば、その絵を見た人に何かしら揺らぎを与え、その揺らぎで何かを想起させたり、その人の中にあるものに気づかせてくれる絵を描きたいと思っていた。なぜ絵を描きたいと思ったかと言われればわからない。ただ、苦しんでいたからという以外ない。何かを表現することで救われたかっただけかもしれない。その救済措置みたいな芸術は今のところ失敗していた。あまりにも精神的に孤独すぎるところがあったかもしれない。芸術の世界には僕に似た人がたくさんいた。仲間意識を持って、孤独から抜け出そうとしていた。僕の孤独は彼女にもわからないだろうと思う。しかし彼女が僕を救ってくれたことは間違いない。出会いというそれ自体にどれだけ救われたことか。
………
僕は週末、彼女と会った。僕らは駅前のカフェに入った。そこはパン屋も併設されていて、居心地のよい雰囲気のカフェだった。僕はアイスコーヒーを頼んだ。彼女は紅茶を頼んだ。グラスには水滴が垂れていた。水滴は下に敷かれたコースターに吸い込まれた。そのカフェには、大きなサボテンが描かれた絵がかかっていた。僕らは会話を始めた。
「今日はどこに行こうか?」
「本を買いに行きたい。」
「じゃあ、本屋さんに行こう。」
「おしゃれな本屋さんに行きたいんだけど」
「おしゃれな本屋さんなんてあるの?」
「本屋さんの趣味がわかるようなとこ。」
「調べてみようか。」
僕はスマホを取り出し、調べると古本屋さんが二軒、個人経営の本屋さんが一軒出てきた。
「ここ巡ろうか。」
「そうね。」
僕らは電車に乗って、その場所まで行った。最初はとても古い建物の中に本がびっしりとある古本屋さんについた。奥におばあさんがいて、店番をしていた。店の中は薄暗く奥から何か出てきそうな感じの本屋だった。木造の建物で木は焦げ茶色に変色していた。僕らはひと通り本を見た。さまざまな本があったが、その全てが古く変色していた。僕はその中からドストエフスキーの地下室の手記を買った。なんとなくその本を買った。彼女は何も買わなかった。
次も古本屋さんに行った。入り口にはカエルの置物が置いてあった。雰囲気はガラッと変わって明るい店内だった。若い男の人が店番をしていた。古い時計がカチカチと動いていた。僕らの他にも女の人が二人いた。その二人は中年でどちらも眼鏡をかけていて、いかにも読書が好きそうだった。髪型も二人ともポニーテールで、まるで姉妹のように似ていた。実際、姉妹だったのかもしれない。その二人組は中をカメラで撮っていた。よほど雰囲気が気に入ったのだろう。僕らは何も買わずにそこを出た。
最後の本屋さんは一番おしゃれな本屋さんだった。入り口は隠れ家的な細い道を通った。中はインテリアとして本を置いたり、照明を有効活用して、おしゃれな雰囲気だった。ここも若い男の人が一人で店番をしていた。彼女はここを気に入ったのか、本を五冊選んで、買った。店内の本は完全に店主の趣味が反映されていた本のラインナップだった。
「いいところね。」彼女は言った。
「そうだね。」
「こういうところに来たかったの。何かを示唆してるみたいで好きなの。」
「知らなかったな。」
二人で話していると店主が話しかけてきた。背の高い男で、ブルージーンズに白いシャツというシンプルな格好だった。
「お二人はカップルですか?」彼はとても低い、いい声をしていた。
「そうです。」僕は答えた。
「最近は本が売れなくなって、若い人が来てくれると嬉しいです。」
「そうなんですね。」僕は会話が下手だ。
そこで会話は終わり、僕も本を買いたかったので、本を選ぶために棚を見た。宮沢賢治の詩集があったのでそれを買うことにした。奥にも部屋があり、そこにはCDが売られていた。歌手を見たが誰だかわからなかった。CDには上からの照明がゆらゆらと当たっていた。
全ての会計をしているとき、レジ越しに男の店主がまた話しかけてきた。
「僕にはオーラが少し見えるんですよ。」彼は確かにそう言った。
「あなたは少しずつ向こうに近づいていっている。」僕に向かってそう言った。僕は意味がわからなかった。
「意味がわからないかもしれませんがそうなんです。」彼は続けた。
「注意してください。」
僕は注意しようがないし、怖くなったので、わかりましたとだけ言って、店を出た。その後、彼女はわかったような顔で僕の方を見た。
「示唆されてるの。」
「どういうこと?」僕は聞いた。
「大丈夫。私が呼び戻してあげるから。怖くないよ。」
僕はモヤモヤしながら帰った。彼女に質問しても、大丈夫というだけで何もわからなかった。帰り道、夕暮れの中で大きな鳥が空を飛んでいた。ゆっくりと。ゆっくりと。
………
僕はその晩、夢の中にいた。夢の中は暗かったが、明かりがないわけではなかった。薄暗いという表現がちょうどよい場所だった。そこには彼女がいた。彼女は夢の中で話しかけてきた。
「大丈夫だからね。大丈夫だから。」
彼女の大丈夫が一種の慰めになった。僕が何者になろうとも、どうなろうとも愛して欲しかった。ただそれだけだった。僕は彼女から離れていってどんどん暗い方向に進んでいった。だんだん彼女が見えなくなって、霞んでいくようだった。向こう側に行けそうな気がした。
………
僕は起きた。月曜日だから今日は仕事だ。僕はトーストとコーヒーを朝食にとった。トーストは焼きすぎていたし、コーヒーは苦すぎた。僕はコーヒーにミルクを入れて飲んだ。そして、薬を飲んだ。精神的に落ち着かせる薬だ。薬を飲んだら少し落ち着いた。早めに目が覚めてしまったので、時間があった。僕は煙草を吸いにベランダに行った。昨日のことと、夢のことを僕は考えた。だが、どれだけ考えてもわからなかった。僕のキャパシティを超えたところで何か起こっているようだった。僕は学校に行く準備をして、車に乗った。車で学校に向かっている間いろんなことを考えた。考えてしまったと言った方がいいかもしれない。薬はあまり効かないみたいだ。
………
僕の絵は完成しなかった。海鳥の絵だ。完成していないことでもう完成しているような感じだった。この世界と同じことだ。完成された絵とは?完成された世界とは?もうすでに絵は完成していた。完成されているとすれば、この先の未来とは?僕らは何もわからない。
………
少し前の話をする。少し前といっても十年前の中学生のときの話だ。中学生のときに好きな人がいた。僕は恥ずかしがり屋でなかなか思いを伝えられなかった。その思いをしまったまま大学生になってしまった。長い時間だ。そして思いを伝えたとき、普通に振られてしまった。そのとき恥ずかしさや、情けなさでとても苦しんだ。そして僕はそれを乗り越えられなかった。僕はそれをきっかけに本来の輝きを失ってしまった。自分がわからなくなり、行き場のない苦しみを抱えた。その出口として、絵を描いた。最初は真っ暗な絵を描いてしまった。僕は夢中で絵を描いていて、途中で、なんで絵を描いているんだと思いはっとした。これが表現だということがわかった。表現だということが。
………
月曜日から始まった一週間は何事もなく過ぎ去った。いつものように生徒に教えた。仕事の出来は可もなく不可もなくという感じだと思う。仕事みたいに人生も可もなく不可もなく終わりたいと思っていたのに、そういうわけにはいかなかった。ただしんどかった。なぜしんどいか説明しろと言われても説明できない。神様が仕組んだイタズラなんじゃないかな。そう思っていた。僕は金曜日、仕事が終わったときそう思った。明日、彼女に会おう。そう思った。
………
朝起きて、スマホで時間を見ると九時十三分だった。メッセージアプリを開いて、彼女にメッセージを送った。僕は水を一杯飲み、彼女からのメッセージを待った。三十分後くらいに返信が来た。
「きょうは、きぶんがのらない」とのことだ。今日、一日暇になってしまった。
「じゃあ、また今度ね」僕はメッセージを送った。
「うん」返信が来た。
僕は絵を描こうと思った。何の絵を描こうかと悩んだ末に、彼女の絵を描こうと思った。スケッチブックに鉛筆でラフ絵を描いた。彼女が椅子に座って、本を読んでいる姿を描いた。数枚描いた中からいいものを一枚選んで、丁寧に描き直した。静かで、美しかった。僕はそれに絵の具で色を入れた。きれいな絵になった。他の絵も描いてみた。大きな木や、鳥、花を描いてみた。しかし一番美しかったのは彼女の絵だった。真の美しさとは?
………
次の日は海に行った。徒歩五分のところに海があるので歩いて行った。スケッチブックを持っていった。海は海水浴場として整備されていたので、海のそばを散歩した。朝に行ったので、朝日が登ってきていて綺麗だった。波も風も穏やかで気持ちのいい朝だった。人はほとんどいなかった。僕はベンチに腰掛けて、そこの風景を描いた。海には島が浮かんでいて、橋がかかっていた。船も通っていた。僕はこんな風景を描きたかった。曇り、霧、暗闇…そんな風景ではなく、澄みわたる晴れの風景を。闇を描くのは簡単だ。否定して、真っ暗に塗りつぶせばいい。しかしそこから抜け出したとき、初めて晴れの風景を描けると思う。僕はそんな信念を抱いて絵を描いた。しかし、うまく描けなかった。そんなにすぐにかけるはずがない、時間を味方につけよう。僕はそう思った。絵を描くのをやめて家に帰った。もうその日は何もしなかった。なぜかやる気が全く起きなかった。明日の仕事に備えよう。そう思った。
………
薄い雲の奥に満月。鏡のような海。うっすらとした夕焼け。夜の青。横長の絵のような雲。
………
その夜、夢の中で誰かが話しかけてきた。
「君はもう帰ってこられない。」
「どういうこと?」僕は聞く。
「現実の世界には帰ることができない。」
「なんで?」
「向こう側に来たということだ。はるかなるその先へ。人間も植物も宇宙もその他すべて、はるかかなたの演奏者の奏でる神秘的な音楽で踊っている。それを超えて向こう側に来たのだ。」
「人を超えた存在ってことかな?」
「生きたまま超えることはできない。ということだ。」
なぜか会話が噛み合わなかった。僕は会話を続けた。
「僕は死んでしまったということ?」
「ある意味では。」
「あなたは誰ですか?」
「君だよ。」「君だよ。」その言葉が響いた。
周りは真っ暗だった。もうすぐ完全な闇に支配されそうな真っ暗さだった。次元が一個飛び越えたような感覚で、鳥になった気分だった。
「死んだ人間は皆ここに来る。だけど抜け出せない。」
「生きて帰っては来られない。」
「そうだ。そして時を超える。」
「光の速度で移動する。」
「だから時間の概念が無くなる。」
「追いかけてこられない。」
鳥が光の速度を超えて飛んでいく。自由に。自由に。
………
彼女はなぜかぞっとした。彼が急に心配になった。彼女は早朝だったが、彼に電話をかけた。しかし、出なかった。何回かかけてみたが出る気配がない。どうすることもできなかった。
………
彼女の電話で目が覚めた。頭が痛かった。僕は電話に出た。
「もしもし?」
「何回もかけても出ないんだから。心配したのよ。」
「なんで心配なんかしたの?なんにもないよ。」
「なぜかいなくなりそうで怖かったの。」
「いなくなるわけないじゃない。」
「そうよね。よかった。」
「うん。」
「それだけなの。じゃあね。」
「うん、じゃあ。」
僕は痛い頭を起こした。僕は学校に行く準備をした。そして車に乗って学校に行った。
………
また、今日の夜も同じような夢を見た。美しい夢なのか、悪夢なのかよくわからなかった。
「すくった海水を砂浜に落とす。海水は砂に染み込んで、もう帰ってこない。だけど、海水は蒸発し雲となり雨を降らす。そうするとまたかえってくる。」
「また明日も同じような夢を見させるんですか?」
「海水はまたすくえる。だけど先程の海水とは違う。循環とはそういうものだ。同じように見えてその本質は違う。だが、その見せかけの本質こそ真実。真実は見せかけなんだよ。」
「よくわかります。」
「どうせ生きるなら、せっかく生きるなら、どうせ死ぬなら、せっかく死ぬならあなたはどうする?」
「わからない」
「みんな砂になり、灰になる。」
「なぜ生きてるんでしょうね。」
「明日も来るよ。」
………
同じような夢を見続けた。心が安らぐことはなかった。いや、本質を見たので逆に落ち着いたかもしれない。よくわからない。僕はたびたび海に行った。答えがそこにある気がして。深海のような深さに。しかし、答えがそこにあるのに深海の深さからは逃れられない。誰かに助けてもらわなければいけない。海に来たことでそのことに気がついた。
………
「歴史は繰り返す。繰り返しの恐怖。だから祈り続けるんだよ。思い出せば遥か彼方に。移りゆく時代を眺めてたいな。バイバイ。」
………
彼女はこれまで感じたことのない悪寒がした。夜の遅い時間だったが、彼に電話をかけた。しかし出なかった。すぐに家を出て、彼の家に向かった。
彼の家に着いて、ドアを開けてみた。鍵はかかってなかった。部屋に入ると彼はベットの上に横たわっていた。恐る恐る呼吸を確かめてみた。呼吸はしていた。生きているが意識はどこかに飛んでいっているみたいだった。揺さぶって起こそうとした。
「ねぇ、起きて。」
声をかけてみた。しかし反応が全くなかった。彼女は意外と落ち着いていた。この日が来た。とりあえず、救急車。そう思って電話をかけた。程なくして救急車がきて、病院に行った。容体は安定しているが、原因がわからないとのことだった。彼はその日に入院した。向こう側にいってしまった。
………
彼女は家に帰ることにしたが、勢いで救急車に乗ってきてしまった。彼女はしょうがなくタクシーで帰ることにした。彼女は駅前のタクシー乗り場まで歩くことにした。歩く途中には仕事帰りの人や、若い男女が駅に歩いていた。彼らと一緒に駅に歩いた。振り返ると真っ暗な病院がそびえたっていた。大抵の病院がそうであるように、壁が真っ白だった。歩いている歩道の街路樹に小さな鳥が止まっていた。夜に鳥が止まっているのを見るのは珍しい。森に帰りそびれたのかもしれない。歩道と靴が当たる音がコツコツと聞こえる。信号がチカチカ点滅していて、夜が遅いことを実感した。彼のことを思い返す。多分、彼もこちらに帰ってくるのを待っている。どこかで待っている。空を見上げると、大きな月が見えた。月光。旅に出かけなくては行けない。そう思った。変わらない世界と発展の無いように見える世界がそこにはあった。どこかでみたような仮死状態。彼女は駅へ歩いていった。
彼女は駅に着いた。タクシーは彼女を待っていたかのようにそこにあった。タクシーに乗り、行き先を伝えた。タクシーは白い車体に黒のラインが入っていた。古いタイプの車種だった。車内は古いにおいがした。もう一度彼のことを思った。多分大丈夫。そんな思いがあった。暗いことや、寂しさには、ただその側面だけではないこと、つらいだけだけではないことを知っていたから。タクシーは道路を走る。海沿いを走る。左手には海が広がっていた。右には住宅地があった。海には灯台が点滅していて、海の上に光の線を映しだしていた。住宅地にはまだ光がついている家もあったし、もう消えている家もあった。それらは光と闇のコントラストを暗示していた。タクシーはそれと関係がなくただ走っていった。
家の近くまで来ると周りは真っ暗だった。近くの開けた場所に止めてもらってタクシーの料金を払った。彼女は家まで歩いた。街灯が等間隔に並んでいた。ただそれを眺めながら歩いた。些細なことはどうでもいいと思った。
家に着いた。彼女は旅の準備をした。これからのことはとりあえずどうでもいい。そう思えた。あまり長くはならないだろう。大学をほんの少し休むだけだ。ただそれだけのこと。明日の朝には出発しようと思った。人はどれだけ考えても、どれだけ頭がよかろうともまちがうときはまちがう。直感は意外と大事なのだ。彼女はまずどこにいくか考えた。これもまた直感で北に行くことにした。北の大地。いい響きだ。旅行バックに必要そうなものを詰めていった。足りないものがあったら買い足せばいい。とりあえず準備をして明日に備えた。
………
僕は真っ暗なところにいた。そしてパッと花火のような閃光が見えた。そして、静かに、静かに消えた。
………
旅に対する期待と不安で目が覚めた。夢の中でもう旅に出かけていたような気分だ。彼女はそう思った。はやるような気持ちを抑えて、彼女は起きた。朝の準備をして家を出た。空は晴れ渡る青空で、いい天気だった。彼女は最寄りの駅まで歩いていった。そこから一つ大きな駅まで行こうとした。電車の切符を買い、駅のホームに行って、電車に乗った。車両は一つ前の旧型の車両で黄色がベースとなっていた。電車の独特の揺れに揺れながら、移動した。移動用に本を持ってきていた。その本を開き、読み始めた。人もあまりおらず静かだったので集中して読むことができた。三十分くらいして、目的の駅に着いた。彼女はここから新幹線で移動しようとした。新幹線に乗り換え北へ向かった。目的地はなかったがとりあえず北に行ってみたかった。まず都市に出てそこから北へ向かうことにした。乗り換えを繰り返し、とりあえず北と呼ばれる場所に着いた。
………
否定を否定してわけがわからなくなった。終わりは儚くて完璧だった。
………
彼女が北の方に来た時、もう夜になっていたので近くのホテルに入って一泊することにした。ホテルは一般的なビジネスホテルだった。ホテルに入り、従業員に尋ねた。従業員は男性で黒のスーツだった。髪の毛をジェルで固めていた。
「すみません、一部屋なんですけど、空いてますか?」
「ええ、お取りできます。」
「じゃあ、お願いします。」
「部屋の鍵です。」
鍵を渡された彼女は部屋に向かった。部屋は八階の奥の部屋だった。エレベーターで八階のボタンを押して、上に向かった。エレベーターの中は乗って正面が鏡になっていた。鏡にうつる自分を見るとやつれていた。移動に次ぐ移動で、疲れていた。エレベーターを出ると、八階に着いた。廊下はカーペットが敷いてあった。いくつかの部屋の前を横切ったが、静かだった。部屋に人がいないみたいに。部屋に入ると、電気をつけた。一通り部屋の中を確認してみた。変なところはひとつもない。ただのホテルの一室だった。そしてすぐに寝ることにした。
………
鏡の奥にうつる人は?静寂のなかにこそ真実が。宇宙が。遠く向こうに。
………
朝はすっきり起きることができた。疲れていたのでぐっすり眠ることができた。シャワーを浴びて目を覚ました。それから準備をして目的地のない旅の出発をした。一階に降りて、チェックアウトした。フロントの従業員は昨日と同じだった。
「今のシーズンは山登りがいいですよ。」唐突にフロントの従業員が彼女に話しかけた。
「そうなんですね。」彼女の格好をみて話しかけてきたのかもしれない。目的のないような格好をしていたのかもしれない。
「もし、時間があれば行ってみてください。」
「わかりました。」彼女はそう言ってホテルを出た。なぜ、山登りを勧められたのかはわからなかった。
ホテルを出ると遠くに雄大な山が広がっていた。木々は青々として、眩しいような緑だった。山に登ってみるのもいいかもしれない。そう思った。
………
木々は風に揺れる。決して不規則ではなく、規則的にただそうであるかのように。
………
彼女は山に登ることにした。時間はあったし、やることがなかったからだ。まず動きやすい格好に着替えることにした。スポーツ用品店に行って、山登りのための服を買った。そこから駅に行ってトイレで着替えた。いらない荷物は駅のコインロッカーに置いて行くことにした。スマホで山の入り口を調べて登っていくことにした。幸い駅から近くだった。偶然に次ぐ偶然で、そうなることが決まっていたみたいだと彼女は思った。街を抜けて、山のふもとに来てみると、看板が立っていた。看板にはいろいろな説明が書いてあった。標高はそんなに高くなかったので頂上を目指してみることにした。何があるかわからないし、何もないかもしれないがとりあえず登ってみることにした。
………
初めから仕組まれていたのか?全ての始まりとは?
………
山の入り口は鬱蒼としていて、薄暗く気温が少し低かった。周りには樹齢がかなりたっているような木々がたくさんあった。彼女はその中を一歩づつ歩いていった。周りの岩には苔が生えていることに気が付いた。森の中はかなり湿度が高いみたいだ。虫や動物の気配はひとつもなかった。この季節であれば、虫の一匹くらいいてもいいものだが、いなかった。それが彼女にとって少し虚しさを感じさせた。しかし、それとは関係なしに彼女は歩いていった。
山の途中には開けた場所があったので、そこで休憩した。持ってきていた水を飲んだ。生きるためには水が必要なんだなと感じさせるような水だった。足取りは着実に重くなっていた。なぜこのようなことをしているのかわからないと、ときどき思うようになってしまった。しかしここまで来たからには最後まで行こうと思っていた。疲れていたが、再び歩きだした。
………
進化してきた、これからも進化する人間は。
………
山の途中には綺麗な花がところどころに群生していた。黄色、ピンク、赤、さまざまな種類があった。そこを歩いていると、途中に横道のようなところがあった。彼女はなぜかその横道に強く惹かれた。そこに入ると、綺麗に石畳で舗装された道が続いていた。彼女はその続いている道を歩いて進んだ。
その道は真っ直ぐ進んでいた。そこを歩いて進むと、奥には庭園があった。真ん中に噴水があり、側溝には水が流れていた。その庭園を奥に進むと、石碑があった。石碑は風化し、苔に覆われていたため、何が書いてあるかわからなかった。もしかすると、誰かのお墓かもしれなかった。そこは神聖な場所のように思えた。
………
誰かの思いが詰まった場所。
………
彼女は過去にここに来たかのような気持ちになった。必死に思い出そうとしたが、思い出せなかった。しかし、ここがどこかと繋がっているような気がした。彼女は祈った。彼とまた会えますようにと。
………
祈り。
………
目を閉じて数十秒、彼の声が聞こえた。すぐ後ろにいるみたいだった。
「約束守ってくれてありがとう。」
「帰ってくるの?」
「今は半分くらいこっちにいる。」
彼女は振り向くと、体が薄くなった彼がいた。幽霊みたいだった。
「帰ってきて。」
彼女は思わず手を伸ばした。手が繋がった。彼の手はとても冷たかった。彼女は再び祈った。
「肉体は病院にあるよ。」彼は言った。
「ここには風景を見にきたんだ。頂上から見る景色はとても綺麗なんだ。」
「わかった。見に行こう。」
………
彼と彼女は頂上を目指した。
………
頂上からは木々の下に海が見えた。空を見ると雲ひとつない快晴で気持ちが良かった。その向こうに大きな鳥が横切った。その向こうに、その向こう側に。