第32話 まだ生きていたのね
境界の森の中を進んでしばらくして、棗が足を止めた。彼に倣って実結も足を止める。
「この先から、魔界になります。彼らは魔界の東端で暮らしているので、入ったらすぐに戦闘となる可能性も覚悟しておいてください」
いつもより硬い声の棗に、実結は頷く。ここに着く少し前から、空気中を漂う魔力の濃度が濃くなっていっていた。普通の人間ならおそらく、息苦しく感じるくらいだ。
魔力値は特級になるぎりぎり手前まで既に解放している。契約している魔族達もすぐに呼び出せる。こちらの準備は万端だ。
実結の様子からそれを察した棗は、視線を前に戻す。
「では……行きましょう」
そして棗と実結は魔界へと足を踏み入れた。
魔界に入ったが、風景ががらりと変わるというわけではない。だが、先程までとは明らかに違い、濃密な魔力が充満しているのが分かる。
棗は実結の方を見ず、前を見たまま言った。
「もう少し進めば、彼らの邸があるはずです」
自分が棄てられてから、二十年ほど経つが、魔族にとってその時間は、人間の数日程度の感覚だ。場所を移すとは到底考えられなかった。
少し歩くと森が開けて、大きな邸が見えてきた。広々とした庭に花は植えられていないが、草木は綺麗に剪定されている。
その時、邸の正面の扉が開き、一人の女性が出てきた。見た目は三十代後半くらいだが、人間ではない。
〈―――管理官様方ですか? 最後の確認は明日の予定のはずですが、どうかしましたか?〉
今のところ、彼女に敵意はない。だが、実結の隣にいる棗の顔は強張っている。どうやら目の前にいる女性は、棗の家族らしい。変身しているからか、女性が棗の正体に気づいてはいないようだ。
棗は呼吸を落ちつかせると、女性に言った。
「僕達は、あなた達を止める為に来ました」
棗の言葉に女性は首を傾げる。
〈どういうことですか? 今更、無駄な正義感にでも目覚めたのですか?〉
途端に冷え冷えとした口調に変わり、棗の肩がびくりと震える。それに気づいた実結が、そっと棗の手を握った。実結の手の温かさに、棗の強張っていた心が落ち着きを取り戻していく。
ミユさん、ありがとうございます。
棗は心の中で実結に礼を言うと、一度目を閉じた。
本気の戦いなら、変身を解除した方がいい。その分の魔力も全て、攻撃に回す。
棗の姿は瞬く間に違うものに変化していく。
身長は三メートルほどになり、肌の色は浅黒く変わり、その肉体はすらりとした細身から、筋骨隆々になる。目の色は色彩が反転し、髪は黒から灰色がかった白へと変わった。それはオーガそのものの姿だった。
棗が本来の姿に戻ると、彼の家族の一人である女性が棗を嘲笑いながら言った。
〈あら。誰かと思ったら、愚弟じゃない。まだ生きてたのね〉
とっくに廃魔に喰われていると思っていたのに。
〈……残念でしたね。僕も魔族の端くれなので、存外しぶといんですよ〉
〈へえ。少しは言い返せるようになったのね〉
棗の姉は、彼の言葉に怒ることなく余裕の笑みを見せた。
冷え切った空気の中、実結は棗と彼の姉との様子を静かに見守っていた。
ここに来る前、実結は棗に言われていた。
―――もしも家族と話す余地があれば、彼らと話す時間を僕にください
彼らとは分かり合えない。そう言いつつも、棗は家族と戦う以外の道を探そうとしている。ならば自分は、棗がその道を信じている間は、手を出さないでいよう。




