第0-1話 こんなところに人がいるなんて
三年前、私は小学校を卒業し、春休みをずっと家で過ごしていた。
小学四年生の頃から私は同級生からいじめられていて、心を閉ざすことによって、何とか耐えていた。
もちろん、家族にも助けは求めた。でも、無駄だった。この辺では有名な名家の娘の母は、世界中の人間が優しいと思っている世間知らずで、いじめがこの世にあると思っていない。婿養子として結婚した父は、白菊家の現当主である母の父。つまり私にとって母方の祖父の機嫌を取ることしか考えておらず、むしろいじめられていることを隠したがっている。そして七歳離れた姉は、何でもできる天才だが、天才故の周りからの大きい期待にストレスを感じているらしく、母がいないところで、私に向かって嫌味を言ったり暴言を吐いたりしている。
家族から助けてもらえない時点で、親族にももちろん助けてもらえないことは分かっていた。毎年正月は、母の実家で親族が全員集まって過ごすのだが、私を含む孫は、祖父母からの扱いによって、他の親族からの扱いも決まる。私の姉はもちろん、他のいとこも何かしらの才能があることから、祖父母から溺愛されている。
でも、私は平凡だった。才能と呼べるものはなく、祖父母はお年玉を渡すと、私のことを空気のように扱う。だから、他の親族も私を無視するか、良くても偽りの笑顔で私を見てくる。私を本当に愛してくれたのは、私が七歳の時に亡くなった、曾祖母だけだった。
曾祖母は自分のことを「魔法使い」と言っている変わり者で、親族の多くは曾祖母とあまり関わらないようにしていたが、本当の笑顔を見せてくれる曾祖母のことが、私は大好きだった。私は幼い頃、曾祖母と二人きりでいることが多く、曾祖母から色んな話を聞かせてもらった。
若い頃は別の世界で暮らしていたとか、魔法の中でも移動魔法が得意だとか、大切な人の為に魔法を創っているとか、曾祖母があまりにも楽しそうに話すので、私も目を輝かせて聞いていた。結局、曾祖母には一度も魔法を見せてもらったことはなかったが、私のことを本当に愛してくれた曾祖母は、私にとって確かに素敵な魔法使いだった。
そんな曾祖母も、もういない。私を愛してくれる人は誰もいなくなってしまった。才能のない平凡な私は、私立中学校の受験をさせてもらえず、行くのは学区で決まった、私をいじめる人達ばかりがいる公立中学校だ。
だから私は、あと三週間くらいで終わる春休みの先に、再び地獄が待っているであろうことを憂いている。死にたいとはぎりぎり思わない程度の絶望が、心に昏い影を落とす。
自分の部屋で小説を読んでいた私は、心に積もっていたものを減らすように、深いため息をつく。こんなことを考えていたら、小説の内容が頭に入らない。
一度読むのをやめようと、小説のページを閉じると、本棚の同じタイトルが並んでいる場所にしまう。そこで私は、ある本に目が留まった。重厚そうな、題名が記されていない黒い表紙の本。これは確か、私が六歳の誕生日に、曾祖母がくれたものだ。
―――渡すのは今だけど、あなたが十二歳になったら、読んでほしいの。
そう言って、私にくれたのをすっかり忘れていた。私はそれから、どうしても本の中身が気になって、一度だけこっそりと本を開いた。でも、三百はあるページのどこにも、何も書かれていなかった。どうして何も書かれていないのか曾祖母に聞こうとしたが、その前に曾祖母は亡くなってしまったのだ。
それから私は、小学校でいじめられるようになって、その本について忘れてしまったのだ。
私は久しぶりに、曾祖母がくれた本を手に取る。曾祖母がどうしてあのようなことを言ったのかは、今でも分からない。でも、曾祖母が言っていた十二歳に私はなった。どうせ何も書かれていないだろうけど、とりあえず開いてみよう。
そう思い、表紙をめくると、私は驚いた。何も書かれていなかったはずなのに、ページにはいろんなものが書かれていた。よく分からない文字でつづられた文章や、何かの絵や紋様のようなもの。そして。
「魔法陣……?」
二つのページにまたがるように、見開きに大きく描かれた魔法陣に、私は手を触れた。その時、魔法陣が白い光を放ち、強い風が私の体を包んだ。眩しさと風の強さに私は思わず目を閉じた。体に浮遊感を感じた後、私の意識は途切れた。
どれくらい経っただろうか。ふいに優しい風と、柔らかい草の匂いを感じて、私はゆっくりと目を開けた。目の前に広がっているのは、青い空と白い雲、そして草原。私は体を起こして、周囲を見回す。先程まで自分の家にいたはずなのに。夢でも見てるのだろうか。
そこで私の横に、曾祖母がくれた本があることに気づき、手に取る。そっと開くと、やはり文章や絵が書かれていたが、どこに触れても再び光を放つことはなかった。
「―――こんなところに人がいるなんて、珍しいこともあるんだね」
背後から男の声が聞こえ、私は振り向く。そこにはいつの間にか、男性が立っていた。年齢は二十代だろうか。濃い灰色のローブを纏った男性は、私ににこやかに微笑んでいる。
「……あなたは?」
「僕は“ルー”。ただの旅人さ。ところで、君はどこから来たんだい? 近くに集落は無いと思うけど」
ルーと名乗った男性に聞かれて、私はすぐに答えられない。夢だと思っていたが、どうやら違うらしい。
なかなか答えない私から、ルーは持っていた本の方に目を移す。
「その本、少し見せてもらってもいいかな?」
私は頷くと、ルーに本を手渡す。ルーは慣れた手つきで本を開き、順にページをめくっていく。そしてあの魔法陣が描かれているページで手が止まる。その目は、驚いて少し見開いている。
「これは、移動魔法か……通常のものより細かいし文量も多い……えっと、この魔法での移動先は、“チキュウ”から“ティラエア”……」
聞いたことのない言葉に、私は戸惑う。ティラエア。この場所のことだろうか。それに、移動魔法? ファンタジーでよくある魔法の一つ?
状況が更に分からなくなっていると、ルーは私に尋ねてきた。
「君は“チキュウ”というところから来たのかい?」
「えっと、地球というより、地球の中の、日本という国から来ました」
そう答えると、ルーはどこか腑に落ちたように、私に告げた。
「……君はどうやら、こことは別の世界から来たみたいだね」