そういうもんか
二人の移動した部屋にはキッチンがあり、フライパンと包丁がそのキッチンに置かれていた。他にも道具はあったが、使われた形跡はない。
「そこに座って待っていてくれ。肉を焼いてやろう」
サフィが指定した場所は先ほどの場所にあったテーブルより背の高いもので、そこには対面する位置にそれぞれ一脚ずつ設置してあった。テーブルも椅子も濃い茶色をしていて、装飾が少ないため、シックさがあった。
彼は指示された通り、そこにあった椅子に座る。特にできることもなく、彼女の料理をする後ろ姿を見つめる。彼女はいつの間にか、ケープを脱いでいて、その代わりではないだろうが、エプロンを身に着けていた。コンロに指先を向けるとそこに火が付いた。フライパンを手に取り、シンクの中でそのフライパンに掌を向けると、それが水に包まれた。すぐにその水はシンクの中へ流れていく。見れば、そのシンクには蛇口がなかった。彼は記憶がないと考えているが覚えている範囲では、指をさすだけで火のつくコンロや、蛇口はないが水の出るシンクは見たことも聞いたこともなかった。そこでようやくサフィが雪の中で言っていたことを思い出した。それは魔法と超能力だ。そして、それに引っ張られるように、火の大魔女という単語を思い出した。どこで聞いたのかは思い出せなかったが。
魔法というものがあるならば、それで簡単に記憶を取り戻せるのではないだろうか。しかし、そういう魔法があるなら、なぜ彼女が思いつかなかったのだろうか。彼女が使えないから、という理由はあるかもしれない。これについては自分の知識では全くわからなかった。彼女以外にも超能力を持った人がいて、その人が記憶を取り戻せるかもしれない。どちらのことも彼女に聞いた方がいいだろう。彼はそう考えて、サフィの作る料理を待った。
待ちに待ったというと大げさな程度に待った彼の前にようやく、その料理が出てきた。一般的に皿と言ったらこのサイズというような、中くらいの皿一枚の上にその皿と同じくらいの大きさのステーキが乗っていた。それと同じものが彼の対面にも置かれた。それはサフィの分であった。彼女が座り、どうぞと手を差し出した。
「いただきます」
そういうと彼女は不思議そうに顔をほんの少し傾げた。イサナリはそれに気が付かず、皿と一緒に出されたナイフとフォークを手にし、目の前のステーキを切り食べた。口の中に広がるのは味付けのされていない肉の味であった。ほんのり獣臭い気もする。うまいかまずいかで言えば、まずいと言わざるを得ない味。獣臭さが抜けきっていない分、より微妙な味であった。まだ、まずいと言ってとっさに吐き出せる味の方が救われていたかもしれない。
「ど、どうだ。料理はあまり得意ではないのだが、焼くのは自信あるんだ。なにせ、毎日やっているからな。剣と同じで毎日やればうまくなるだろう」
確かに、焼き加減は悪くはない。この微妙な味はちょうどいい焼き加減のせいでもあるのかもしれない。
「うん、おいしい、かな」
「そうか。よかった」
彼女が嬉しそうな顔で自身の分を食べ始めた。その顔を見ると何も言えなくなる。彼は明日にでも味付けをした料理でも作ろうと思った。調味料がこの家にあるのかはわからなかったが。
味については考えるのをやめて、先ほど考えていたことをサフィに聞いた。魔法と超能力、そして、火の大魔女についてだ。
「魔法ではそんなことはできない。超能力であれば可能性はあるかもしれないが。火の大魔女か。それは伝説上の魔女で、この世界の火を作ったとされる魔女だな」
それだけ答えると、彼女は切り分けたステーキの欠片を口に入れた。サフィは食事に集中したいのかもしれないと考えて、彼はそれ以上訊くことはなく、彼女と同じように素材の味しかしないステーキを黙って口に入れた。
ステーキを食べ終え、サフィは満足そうにしていた。
「ごちそうさまでした」
イサナリは皿の前で手を合わせてそういった。サフィはそれをまた不思議そうに見る。
「さっきも似たようなことを言っていたが、それは何だ?」
「何って、何が?」
「その、いただきます、とか、ごちそうさま、とか」
「ああ、食材とそれにかかわった人に感謝しますって意味だよ」
彼女はそう聞いても不思議そうな顔をするだけだ。彼はその意味が通じないことが不思議であった。
「食材といっても、この肉は魔獣のものだ」
「魔獣でも感謝するべきじゃないのか」
「その記憶もないのか。魔獣は人間や動物の敵だぞ。獣を食べるときには感謝するが魔獣に感謝は必要ないだろう。それにいくらでも沸いてくるのだ。食ってやってるだけましだろう」
彼は魔獣についての知識は物語の中のものしか知らなかったが、人間に危害を加える倒すべき生き物であるとわかった。しかし、そこまで嫌われているのになぜ、食べようと思ったのか。そう訊くと、ここらへんの豪雪地帯で獣の肉は手に入らないらしい。だから、魔獣でも肉を食べ、飢えを凌いでいるということであった。
「私も動物の肉が食べたい。しかし、この雪の中で動物が生きることはできないんだ」
「じゃあ、なんでこんなところに?」
「街に住めば、魔女である私に頼み事をするものが多くいる。そういうのは煩わしいだろう?」
うんざりしているような表情であるということは、実際に街に住んだことがあり、そういう経験をしているのかもしれない。イサナリは聞いてやればいいのに、という言葉が頭をよぎったが、確かに毎日似たような頼み事をされていればうんざりするだろう。中には自身でできることも彼女に任せたものもいるのかもしれない。
「そういうもんか」
「ああ、そういうものさ」
その後、キッチンのある部屋から出てきて、食事前にイサナリが寝ていた部屋まで戻ってきた。先ほどとは違い、キッチンからくるとその部屋全体が見渡せた。全体的に暗い茶色を基調とした家具が多く、ものも多くはない。彼が先ほど寝ていたのは大きなソファであり、彼女の座っていたのは背もたれの高いソファだと分かった。リビングと呼ぶのがちょうどいいだろうか。その部屋の中には木製のロッカーのようなものが三台並んでいるのが、少し浮いているように見えた。
「さて、疲れているだろう。そろそろ寝るとしようか。いや、それともシャワーを浴びたいか」
彼は自身の体の疲労を自覚していたが、ここに来る前にも一日一度は風呂に入っていた彼は風呂に入らないのは調子が悪いので、シャワーを浴びることにした。それを彼女に伝えると風呂に案内された。風呂の中はバスタブが一つあり、その横にシャワーヘッドが設置されていた。バスタブには水をためる仕組みはなさそうであった。
「魔法は――使えないか。それなら私がやっておこう」
そういうと、シャワーヘッドの下、ちょうど天井と床の中間あたりにあった金属製の丸いボタンのようなものに手を翳した。すると、その場所が一瞬輝き、すぐにシャワーヘッドから水が出てくる。すぐにそれはお湯に変わった。
「それでは服は私が洗っておこう」
「いや、それくらいは自分でやらせてくれ。洗濯機とか、洗剤は借りたいけどな」
冗談めかして、そういったが、サフィはくすりともしなかった。その代わり、不思議そうな顔をしている。
「俺、何か変なこと言ったか」
「その、洗濯機や洗剤はこの家にはないぞ。あれは魔法をうまく使えないものが使うものだからな。この家にはない」
つまり、魔法で洗濯ができるということだと彼は解釈した。
「ほら、服を貸せ。実際にやってやろう」
イサナリは彼女の前で全裸になるのは勘弁したかったので、上半身に来ていたTシャツだけを渡した。
「よし。見ていろよ」
そう言った彼女はその服を左手で持ち上げて、右の掌をシャツにあてた。すると、何もないところから水が出現した。その水は風船のように膨らんでいきすぐにシャツを包む。彼女が両手を離してもシャツはその水の球の中に浮いていた。その次に彼女は両の掌を水の球に向けた。右手には赤い光、反対には緑の光を出現させ、それらは水の中に入っていく。すると、突然水の中にうねりが現れ浮いていたシャツが野のうねりに飲まれた。水の球の中を行ったり来たりする彼のシャツ。そのシャツの持ち主はそれを見つめることしかできない。やがて水の中のうねりが収まり、彼女が水の球の中を泳いでいたシャツをとった。その中から出てきたTシャツからは一滴も水が滴っていない。目立つ汚れがついていたわけではないが、彼はそのTシャツが綺麗になっていると感じた。それが本当かどうかはわからない。しかし、彼女はTシャツを持ちながら自慢げにしているところを見ると、綺麗になってないだろうとは言いづらい。
「さぁ、シャワーを浴びてくるといい。その間にこれで全て洗っておこう」
彼女はそう言って、水の球を指さした。
イサナリはその凄さをいまいち感じられないまま、シャワーを浴びた。もちろん、彼女がその部屋を出て行ってから服を脱いだ。風呂に入っている間に、ひゃっと悲鳴が聞こえた気がしたが、気にしないことにした。もし、それを聞こうものなら自分が洗濯物のようになりかねないと考えたからだった。
「風呂、ありがとう。それと洗濯も」
彼は丸首の茶色のシャツと綿製のズボンに着替えていた。彼が元々来ていた服は寝づらいだろうと用意してくれたものだ。心なしかいい匂いがする。
サフィもシャワーを浴びた後でどこかリラックスしているように見える。
「さて、そろそろ寝ようか。君には来客用の部屋を使ってもらおう。来客はほとんどないが、念のために用意していたベッドが役に立つな」
彼女にその部屋に案内された。
「ゆっくり休んでくれ。良い夢を」
彼女はイサナリを部屋に入れると、ドアの前でそう言って手をひらりと振ってドアを閉めた。
「……なんだって、こんなことになってんだ」
暗い部屋の中、ベッドに潜って一日を振り返る。といっても起こったことはそう多くはない。ただし、起こったことの衝撃が大きかった。混乱している中、サフィに会うことができたのは幸いだっただろう。ふと、寂しさがこみ上げる。父親も母親も兄もこの家にはいない。明日、目が覚めても友人の顔を見ることはできないだろう。目が覚めれば自宅に戻っているなんてことはなさそうだ。
「明日から、どうしたらいいんだ」
学校に行かなくていいから楽、とかそういった冗談も笑えない。
自分の知っている常識は通用しない世界だろう。自分の過ごしてきた人生の中で魔法も超能力もあったためしがない。魔獣もいるようだ。今の状態で魔獣なんてものに会えば、一瞬で殺されるだろう。川辺で熊に遭ったことはあるが、そんな状況も生易しいものになるのだろうか。
「……いっそ、あの世界の漫画の主人公たちみたいに楽しめればいいのに」
異世界召喚、もしくは転生。あの世界にはそういうファンタジーが溢れていた。一度はそうなりたいと思ったことはあるが、妄想の中で充分であったことを今この時に知った。
寂しさと不安。それ以外にも様々なものが頭と心にあった。しかし、体は疲れていた。彼は考えているうち、いつの間にか眠っていた。
「やぁ、起きたかい。いや、眠ったかいの方が正しいかな」
彼の目の前には緑の瞳があった。その次に金色の髪が目を惹く。
「ここは、どこだ」
彼のすぐ横には白いブロックでできた噴水。そこから四方向に道があった。それ以外の場所は芝生だ。
見たことはあった。しかし、それがどこだったのか思い出せない。
「ここは、君の夢の中、みたいなもの。一度来ているのにもう忘れたのかい?」
にこやかな表情のまま、彼女はそういった。そして、その言葉が引き金になったのか、彼は気絶していた間に見た夢を思い出した。その時に見ていた夢がこの場所で、この目の前の赤の大魔女と会話といえない会話をしたのだ。
「おや、思い出したようだね。なら、私の目的はもう達成されたわけだ」
赤の大魔女は何もない空を見上げた。目的は達成したがすぐに帰るつもりはないようであった。
「赤の大魔女。俺はどうして召喚されたんだ」
「魔女でいいよ。どうせ、ここには二人しかいないんだ。君を召喚した理由は簡単だ。君は私の選出した王将だからだ」
――王将、だと。
彼はそう発言しようとしたが、声を出すことができなかった。
「これは賭け事と同じ。他の魔女との競争。最後に残った王将の召喚者が勝者。そういう遊びさ」
――遊び? 人を勝手に呼びつけておいて、遊びだと。
「ははは。怖い顔だ。そう怒らないでくれ。元の世界には戻せると言っただろう」
――そういう問題じゃないだろ。
「まぁ、私たち大魔女は神様ではないが、長い時間を過ごすとなると、こういった余興が必要なのさ。君だって暇なときは遊ぶだろう? それと同じ」
「……な」
喉から絞り出すように声がやっと出た。
「へぇ。手加減しているとは言え、私の口封じを少しでも破るとは。でも、動けないだろう」
「俺が勝てばいいのか?」
怒りによって興奮しているせいで、声が獣の威嚇のような鋭さを孕んでいた。
「いや? 勝敗はどうでもいい。君が死なずに現実で私に会うことができれば元の世界に転移する前の時間にある体に君を返すさ」
魔女の笑みは崩れない。彼がどれだけ怒りを表現しても彼女の態度は変わらない。それが彼の怒りをさらに高める。
「気に入らねぇな」
「勝ったら戻してあげるとでもいえば、満足かな?」
「うるせぇ。もういい」
彼は魔女と話すことなどないと、目を覚まそうとした。これは自分の夢なのだからそういうこともできるだろうと思ったのだ。
「少し、頭を冷やした方がいいな。遊びなのだから、君も楽しめばいいのに」
そういって、彼女はその姿をその場から消した。直後、綺麗な噴水も芝生もその場からなくなった。