2. Iの限界点
『あー! もうっ! なんだよっ!!』
耳元で酷く不機嫌な声が聞こえた気がしてビクリと体を震わせて目を開ける。ユラユラとした意識の中で、汗と酒の臭いが鼻につき、臭いの元であろう毛の塊が腹の上でモゾモゾと動いているのをぼんやりとみ見る。
「あにぃ、上等な細工布だ、破れたら値が下がる!」
頭の上から野太い声と唾が降ってきて顔をしかめた。と同時にだんだんと意識と感覚が戻って来る。
「うるせーっ! わかってらぁ!」
毛の塊が苛立たしげに舌打ち混じりに返事をする。先程の声の人物だろうか? 髪の部分しか見えていないので大型の犬かかなにかと思ったのだが、どうやら人間のようだ。
「この胸当ても上等な生地のようなんだが取れねぇんだよ……」
ブツブツと呟きながらブラジャーを外そうと四苦八苦しているようだ。ワサワサと脇や胸の際どい所に触れられウヒャッと声が漏れた。毛の塊はピタリと動きを止めた。そしてキラッと光る物をちらつかせて顔を覗き込んできた。ナイフだろうか……
頭の上にいる野太い声の持ち主は、私の両腕を押さえ込んでいる手にギュッと力を込める。
「騒ぐなよ! 大人しくしてりゃ痛い思いはしなくて済むからな!」
ここが何処かも、何故こんなところで寝ているのかも分からないが、とりあえず今、自身の身が大変危険な状態なのは理解した。黙って大人しくコクコクと頷づく。
うっすらと月明かりに照らされた正面の男は私より若そうに見える。ナイフを私に向けたまま腹の上から降りると、野太い声の持ち主に顎で合図を送る。すると私は抱きかかえるようにして立たされた。
「服を脱げ。胸当てもだ。代わりに……おい、お前の服を渡してやれ」
私を抱きかかえたままスンスンと人の匂いを嗅いでいた男に指示をする。指示をされた男は深く息を吐くと、私の髪に顔を突っ込み、目一杯息を吸い込み私から離れた。
私はゆっくり頷くと背中を壁にするように体の向きを変え、服を脱ぐフリをする。そして何故か私よりもじもじと服を脱ごうとする男を横目で見る。ナイフを向けたままの男も私越しにその様子を黙ってみていた。
チャンスだと思った。なぜか恥ずかしそうにシャツを持ち上げ、万歳の形で頭を服でスッポリと隠した瞬間、起される時に掴んだ砂をナイフを向ける男に向かって投げつけ、うぉぁぁぁーと色気も何もない叫び声をあげながら服を脱ぎかけた男に体当たりをして走り出す。狭い通路の所々に積まれた物を倒しながら明るい場所を目指して駆け抜ける。男達が何か言っていたようだが自分の叫び声で何を言っていたかは聞き取れない。
路地を抜けると少し広い道に出た。が、人が全く居ない。街頭もなく、家から漏れた灯りと月灯りが辛うじて道や建物の堺を照らしている。家に灯りが灯っているので人は居るのだろうが、あれだけ騒ぎ、ガタガタと物が倒れる音がしたと言うのに厄介ごとに関わりたくないのか、扉や窓が開く気配はない。
月灯りで見る街並みは自分の知るものとは大きく異なり、ここが何処だか分からずに動揺する。助けを求めようとぐるりと周りを見渡し、灯りの付いた家の扉をノックする。開く気配どころか返事もない。
路地の奥から先程の男どもの声が聞こえ、また夢中で走った。
曲がり角を何度か曲がり、途中から後ろを確認することもなく、ただただひたすら走った。ゼーゼーと肩で呼吸をし、運動不足を実感しながら、木で出来た看板の掛かるお店の脇の路地に入り、物陰にうずくまる。出来る限り気配を殺し、息を整えつつ入り口に注意を向ける。と、すぐ後ろでキィーと扉が開く音が聞こえた。かと思うと、後ろからガシッと腕を抱え込まれ建屋に引きすり込まれた。
両腕ともに抱え込まれ身動きが取れない。と、もう片方の手が伸びてきて口を塞がれる。体を左右前後に振ってみるも、がっしりと抱え込んだ腕はもがいてもびくともせず、んーんーと唸りながら唯一動く足をバタつかせてみる。
「待って! 落ち着いて!! なにもしない、大丈夫!」
女性の声を聞き、抵抗を少しだけ緩める。そして無意識にギュッと瞑っていた目を開けてみる。
「手荒な事してごめんな……さい?」
覗き込んできた顔は驚きと戸惑いの表情で固まり、発した言葉も何故か最後は疑問系。目が合うと口元をキュッと引き締め少し警戒するような表情になる。女性は私を見たまま先ほどより固い声で
「言葉は解るかしら? 解るのなら二度ほど足で床を蹴ってみて。」
私は言われた通りに自由に動く右足でコツコツと床をならしてみる。そして口元を覆う手を外して貰おうとモゴモゴと話す。
覆っていた手はくすぐったいのか一度緩むもすぐにまた覆い直される。息苦しい。んーんーと逃れるように頭を振ると目の前の女性が私の後ろに向かい、離してあげてと呟いた。
口が自由になった私は新鮮な息を吸い込み目の前の女性に頼み込む。
「すみません、お手洗いを貸してくださいっ!!」
読んで頂きありがとうございました。