そういえば、『ざまぁ』と『復讐』の違いってなんだろう? とか考えてみた
近頃の『なろう』といえば、『異世界転移・転生』『悪役令嬢』『婚約破棄』『追放』『復讐』『ざまぁ』……と、このあたりが今主流を締めて、そこから次はどこに行こうかと探っている辺りでしょうか?
そんな過渡期の入り口にある今、『ざまぁ』大好きな私はふと思ったのです。
私には『ざまぁ』は好き、でも『復讐』はあまり好きではないという差があるのです。この二つの違いはなんだろう? 考えてみることにしました。
デジタル辞書(『三省堂 大辞林 第三版』Weblio辞書より)で、簡単に『復讐』を調べると、
[かたきを討つこと。仕返しをすること。 「敵に-する」]
と出てきます。似た言葉に『報復』『仕返し』『御返し』『復仇』『会稽』とありますね。
ついでに、同タイトルの小説作品一覧がずらずらーっと出てきてビックリします。うん、まぁ、そりゃあるよね。
試しに『報復』を見てみれば、
[① 仕返しをすること。 「 -行為」 「ひどい仕打ちに-する」② 国際関係で、他国の不当な行為に対し、仕返しとして同様の行為(国際法上違法でないものに限られる)を行うこと。 「 -措置」]
と、ニュースに見る言葉になったり、
恥ずかしながら知らなかった『会稽』をたどれば、
[会稽の恥はじ
〔中国の春秋時代、越王勾践が会稽山で呉王夫差に敗れたが、後年この恥をそそいだという「史記越王勾践世家」にある故事から〕
敗戦の恥辱。他人から受けたひどいはずかしめ。 「 -をそそぐ」]
っていう、もう『復讐』モノは人類の歴史の一部であると証明されそうな一文にたどり着いたりと、面白い発見が出てきます。
やっぱり紙本でもデジタルでも辞書は面白いですね♪
本筋からはぐれてるので、戻しますが、
まぁ、積極的に相手を追い落とそうとする意思の見える言葉になるようです。
対して『ざまぁ』なんですけれども。
何でしょうかね。落ちぶれた相手を嘲弄う感じはあれど、そこに積極的に関わったかどうかは言葉には含まれないようなんですね。
つまりあれですか。
『復讐』はそこまでの課程から達成までで、『ざまぁ』は達成自体をいうのですかね。
思い返せば、私は悪どいことをした人が自滅するものが好きで、それを主人公が積極的に成そうとするものがあまり好きではないのですよ。『ざまぁ』と思うのも、周囲か読者であって、主人公ではない。
例えていうと、『かちかち山』は好きでなくて、『花咲か爺さん』は好き。『さるかにばなし』と『すずめのおやど』はなぜか逆だけど、『鉢かつぎ姫』は応援しちゃうよね! みたいな。『かぐや姫』は大人になってから積極性が見えてきて嫌になった……。
つまりはあれですよ。『善い人』が報われて『悪どい人』に己の所業が還るのが好きなんですよ。
因果応報、自業自得。それが好き。勧善懲悪大好きだ!
たぶん復讐モノだと、復讐者が『善い人』とは言い切ることができなくて、モヤモヤするというか、本人もやがて堕ちるだろうなとかそういう感じがするのが好きくないのかもしれないです。
悪なら悪で『復讐なんて関係ない』と突っ走るのは好き。自業自得がやってきても、知ってるそれがなんだと受け止めるヤツ。いいですね!
また閑話休題。
結論は、『『復讐』はそこまでの課程から達成までで、『ざまぁ』は達成自体』『『復讐』は主人公が積極的に相手を追い落とす、『ざまぁ』はそれに限定されない』辺りでしょうか。
あと、読者も大多数はきっと『勧善懲悪』大好きだと思います。じゃなきゃ水戸の御老公が何度も復活したり将軍が暴れまわったり桜吹雪が舞ったりしないと思うのです。日本人の血に刻まれてるんじゃないですかね?
『ざまぁ』が流行るのを嘆く人がいるみたいなのが不思議です。最近の流行りってわけでなく、そもそもざまぁは何千年の昔からあったもの。
人は理不尽に不遇を受けた人の気が晴れて「良かったね」って言うのが好きなのですよ。理不尽をした人が理不尽を返されるのが、自分も報われたようで好きなのです。
自分の与える理不尽の戒めでもあります。逆にもっと飽きるまで広まればいい!
あなたはどっちが好きですか? どっちも好きもいいですよね!