第9話
老紳士を前にして、アリスは固まってしまっていた。
目を見開いて、信じられないものを見つけてしまって、でもそれを信じられないとでもいうような、そんな表情。
「アリス? 大丈夫?」
僕は声を掛けると、
「――――ッ! ゆうきッ! ――――ッ!!!」
老紳士と僕とを交互に見ては何かを叫んで訴えてくる。だが、
「ごめん。何を言いたいのか、わからない」
焦ったようなアリスの気持ちを理解したいとは思うが、それが出来ない。
本当に申し訳ないと思い、アリスの目を見て改めて謝ろうと思って、けれども、
「アリス。もしかして泣いてるの?」
瞳いっぱいに湛えられた涙に気付いた。まだ溢れてはいないが、それも時間の問題でしかないだろう。
この老紳士の存在がアリスをそうさせたのだとしたら。
「なんなんだ、アンタ。アリスに、こんな顔をさせて、」
不意に僕に湧き上がる、怒りの感情。拳を固く握って、きっと敵わないまでも、この老紳士に一撃くらいは、
「ゆうきッ! ――――!?」
アリスが、僕の手を握る。思わずアリスの顔を見れば、彼女は泣き笑いのような表情を浮かべていた。
その表情を見た瞬間、頭が冷える。
「ああ、ごめん。この男の人は、アリスのことを迎えに来たんだよね。そんな人に取る態度じゃなかった」
僕の謝罪を受けて、アリスの顔がもう少しだけ笑顔の側に傾く。
「――――、ゆうき、――――、――――」
今の僕なら、アリスが何を言いたいのかがわかる。
「僕も同じ気持ちだよ、アリス。まだ、帰りたくない。アリスと一緒に居たい。でも、」
思いはきっと一緒で、だけれども、アリスには迎えが来ているのだ。ならば、僕が引き止めるような真似をするべきではない。
ここは笑顔で、笑って別れよう。そう、決めた。
「さあお嬢様、お早くお戻りください。宜しいですか?」
老紳士が、右手を掲げて、そして指を鳴らした。
その行動にどんな意味があるのか、何かの合図だったのか、
「あれ、アリス!? どうしたの!?」
アリスが、急に崩れ落ちる。それを寸でのところで抱きとめることに成功する。
僕の左腕が、アリスの胸に。微かな膨らみの、その柔らかさにドキリとする。
あ、いやあの、決してやましい気持ちがある訳ではなく、これは事故のようなもので、
「現地人、貴様は邪魔だ」
僕に鋭い言葉を投げつけると同時、僕の腕の中からアリスの体が離れていった。
老紳士が、アリスの腕を掴んで、引き寄せていた。その仕草は、およそ女の子にするものではなく、まるで人形を取り上げるかのようで、
「女の子に何て事するんだよ!」
「ふむ。コレをどう扱おうと、貴様には関係のないことであろう」
なんだか、この老紳士の態度が理解出来ない。
お嬢様、と大事そうに呼んでいたと思ったら、次の瞬間にはこれである。
「アリスの意識がないからって、そんな乱暴にするなんて、おかしいだろ!」
「何を勘違いしているのかわからんが、これは、」
老紳士が、アリスが被っている水泳帽を引っ剥がす。
押し込められていた金色の髪が露わになる。月明かりの下で輝く金色を、僕はとても綺麗だと思った。
その金髪を、老紳士が乱暴に掴んで持ち上げる。
老紳士の顔の高さまで引っ張り上げられたアリスの口から、小さな悲鳴が漏れる。
目の前で女の子が乱暴されているという事実を目の当たりにして、一瞬で僕の我慢の限界を超える。
僕は男に体当たりするがごとく勢いで老紳士に迫り、その腕にしがみついて、
「おいッ! この手を離せッ! アリスを降ろせよッ!」
しかし老紳士は僕の行動を全く意に介することもなく、
「全く、物事の本質を見ることの出来ない現地人相手は疲れる」
「何言ってんだッ! いいからこの手を離、うわああああ」
僕は水着を掴まれて引き剥がされて、アリスと同じように持ち上げられる。
あ、駄目止めて、脱げちゃう見えちゃう、アリスに見られちゃうのだけは駄目って、
「うわああああ」
僕は、まるで玩具を放り投げられるかのごとく、プールに投げ込まれた。
水面に落ちる直前、老紳士が、
「全てなかったことに」
男とアリスが、光に包まれている光景を幻視した。
僕の左腕の傷が綺麗さっぱり消えてしまった時と同じ光が、僕の左腕にも伸びてきてまとわりついて、そして。
頭から水面に落ちて、光は見えなくなった。
パニックになり、もがきにもがいて。両の足がプールの底を捉えてようやく溺れかけの状態から脱して。
水面から顔を出したその時には。
二人の姿は、どこにもなかった。
「まさかこの歳になってかくれんぼをすることになろうとは」
独り言を呟きつつしばらく周囲を探してみたものの、そもそも人の気配をどこにも感じられなかったし、一匹だけ頑張ってないていたセミの声もいつの間にか聞こえなくなっていた。
月の位置が、いつの間にかかなり低い位置に移動していることに気付く。
アリスと出会ってずっと高鳴っていた胸の鼓動も、老紳士の行動に怒り震えたあの感情も、熱という熱を身体と心から奪っていく夜風に身を震わせ、くしゃみを一つ。
腕時計で現在時刻を確認しようとして、けれども腕時計はなかった。
正確な時刻はわからないが、今がどういう時間なのかだけはわかる。
そう、おばけなんていないし僕は欠片も信じてはいないけれども、そいつらの時間だ。絶対に。
話数を間違えていましたので、修正しました。
正しくは、第9話です。