第8話
楽しい時間はあっという間に過ぎるのというのが真理であるならば、その逆もまた真理である。
具体的な話をすれば、それは僕の通う中学校の授業で言うところの歴史の授業でのことである。
あの時間は本当に苦痛で、教室の時計の針は遅々として進まず、退屈な時間を持て余すことになる。
あれは、担当教員である渋川逸男三十五歳独身の授業の進め方が多いに関係している。
あの分厚い教科書に書いてある内容を、僕は全く興味が持てない。
午後一発目の授業が歴史であるならば、教科書を開いて五秒で眠れる自信があるほどだ。
そしてそんな教科書に書かれている文章を、渋川逸男はその渋い大人の声でもって、ただひたすらに読み上げるだけなのである。
「――先の戦争は、今から二十年程前に集結しました。戦争というものは、お互いの譲れない主義や主張がぶつかり合って争いとなることもありますが、この戦争では、相手から戦利品や権益を得ることを目的として開戦されたというのが現在主流となる考え方です。しかしこの戦争では、お互いに得られるものはほとんどありませんでした。何故ならば、――」
授業の一節を思い出しただけで眠くなる。だがしかし、この授業の恐ろしいところは、眠ってはならない、というところにある。
実のところ、渋川逸男は大らかで細かいことは気にしない性格の、優しい先生である。
彼の授業中に内職(他の科目の勉強)をしていようが、こっそり持ち込んだ漫画を読んでいようが、はたまたお菓子を食べていようが、注意されることはない。
ただ唯一注意されるというか、逆鱗に触れる行為となるのが、居眠りなのである。
放課後呼び出しで一時間コースで説教の上、課題をたっぷり出されるという地獄を見たというのが、居眠り常習犯であったとあるクラスメイトの証言である。 その居眠り常習犯だった彼は、今では授業中は背筋をピンと伸ばして姿勢正しく授業を受ける、渋川逸男の授業限定の優等生である。
夏休みが終わり新学期が始まって、またあの苦痛な授業を受けなければならないのかと思うと、それだけで心苦しいものがあるのだが、
「ゆうき、――――? ――――??」
あぁそうだった。アリスが隣に居るというのに、何を僕は意識を飛ばしてしまっていたのか。
可愛い女の子と一緒に過ごすこの時間が、あっという間に過ぎてしまうのが本当に残念で、だから、
「ごめん。ちょっとだけ考えごとしちゃってて。あ、今って何時くらいなんだろ」
腕時計のバックライトを点灯させる。撤退予定であった二十一時まで、五分を切っていた。
あぁ本当に、楽しい時間は過ぎるのが早い。でも、ここで僕は決断をしなければいけない。その為には、まずアリスに、
「あのさ、アリスは何時までここに、」
「ゆうき!? ――――??? ――――!!!???」
僕の質問は、アリスのまくし立てるような叫びにかき消された。
アリスは、しきりの僕の腕時計を指さして、何事かを叫んでいる。
「えーっと、これ? つけてみたいの?」
アリスは何度も何度も頷く。
そういうことなら、と僕は腕時計を外し、アリスのその白くて細い腕をとって腕時計のバンドを巻こうとして、
「あれ、ねえこれって、入れ墨とかそういうやつ?」
アリスの手首の内側に、黒色の不思議な模様が描かれているのに気付いた。
ちょうど腕時計の文字盤くらいの大きさの円があり、その中に幾何学的というか、直線や曲線が複雑に絡み合った、なんとも説明の難しい模様が描かれている。
魔法陣っぽい印象を受けるその模様について、僕はアリスに、
「ゆうき! ――――! ――――!!」
アリスが、そんなこと知ったことか早くしろ、と言わんばかりに腕時計を巻くよう催促してくる。
「ごめんごめん。綺麗な模様だなって思って、思わず見入っちゃってた」
謝り、腕時計を巻いてやる。ちょうど文字盤が、先の模様を隠すような形になる。
「――――ッ! ――――ッ! ――――???」
腕時計を身に着けてご機嫌だったアリスは、しかしバックライトの点灯のさせ方がわからないようだった。
だいぶアリスの気持ちがわかるようになってきたので、そろそろアリスマイスターとでも名乗ろうか、なんてことを考えつつ、
「ライトはね、ここを押すんだよ」
アリスの腕をとって、実演してみせる。腕時計が点灯し、「20:58」と表示され、三秒ほどで消灯する。
それを見たアリスは、最初は恐る恐るといった風にボタンを押し、点灯、消灯。
一度でコツを覚えたというか、我が意を得たりとでも言わんばかりにボタンの連打を開始する。
「――――ッ! ――――ッ!!!」
その姿はとても微笑ましく、僕はいつまでもこうしてアリスと一緒に居たいと思ってしまうが、しかし。
腕時計が示す時刻がいつの間にか「21:00」を表示しているのを目にして、だから僕は、もう一度アリスに尋ねる。
「ねえアリス。アリスはさ、何時までここに居られるの?」
その問いに、返ってきた答えは、
「もうお戻り頂くお時間です、お嬢様」
突如割り込んできたその声に、僕は心臓が止まりそうになるほど驚いた。
アリスのものでも、まして僕のものでもない、その別の誰かの声は、僕達の背後から聞こえてきた。
振り向けば、そこには。
黒いスーツに身を包み、銀髪赤目の老紳士の姿があった。
老紳士は、僕に全く視線を向けることなく、
「お時間です、お嬢様」
そう、繰り返した。
その老紳士がアリスに向ける目も、声色も、酷く冷たいもので、だからこそ、僕には理解できたことがあった。
楽しい時間は、ここで終わりなのだ。