第6話
怒っても良かったのかもしれないが、別に怒るような話でもなかった。
どうせプールに入って泳ぐつもりだったのだから、どういう形であれ、水の中に居る今が悪い、ということはないだろう。
とはいえ、不意打ち気味に落とされたのもあって、鼻に水が入って少しだけ痛い。
被害はその程度なのだから、別にどうということはない。
そう、僕は別に怒ってなどいないのだ。だというのに、
「――――!? ――――??」
僕をプールに引っ張り込んだ目の前の少女は、どうして泣きそうな顔をしているのだろうか。
「いや、僕は別に怒ってなんかいないよ」
お互いに言葉がわからなくとも、声色と表情で伝わるだろうか。
「――――!! ――――!?」
少女は、さっきから何を僕に訴えようというのか。しきりに僕の左腕を指さして、何事かを叫んでいる。
「だから、聞き取れないんだってうぇええええ!?」
僕は、自分の左腕を見た。何故か、真っ赤な血の色に染まっていた。
思い出すのは、先のグランドダッシュで転んだこと。たしか左腕はその時に地面にキスしていたはずだった。
今の今まで全然痛みなんて感じていなかったけれども、どうやらガッツリと擦りむいてしまっていたらしい。
その傷を直視して認識してしまえば、ジンジンと腕に痛みがやってくる。
プールの水が、やけに傷にしみる気がする。僕は左腕を掲げて、けれども少女を心配させることのないように笑顔を見せようとして、
「――――、――――」
歌のような何かが少女の口から溢れる。思わず聞き入ってしまい油断した僕の左腕に、少女の手が絡みつくように伸びてくる。
傷口に、少女の白くてほっそりした指先が触れそうになる、その直前。
触られることで走るであろう痛みを想像して身を固くした僕の目の前で、
「――――、――――」
少女の指先に、きらきらと輝く光の粒のようなものが現れた。
一つ、二つ、三つ、四つ……。数はどんどんと増えていき、集まり、光の塊になる。その光が、くるくると円を描くように僕の左腕に絡まる。
僕の左腕がすっかり光に覆われて、それから。唐突に、その光は消えた。
僕は、声を発するのも忘れて、その光景に見入ってしまっていた。
今のは、一体何だったのだろうか。手品だろうか。魔術の類だろうか。あるいは、
「――――! ――――!」
少女が満面の笑みを浮かべて、僕の左腕に触れてくる。
そこには傷口があるはずで、走るであろう痛みを警戒して身を固くして、けれども、
「あれ、痛くない……?」
少女が、腕をよく見ろ、とばかりに傷口のあったあたりを見せようとしてくる。
見る。
「怪我が、治ってる……?」
少女が、どうだやってやったぞと言わんばかりに誇らしげな顔をしていて、だから、
「えっと、あの、ありがとう」
何が何だか、意味不明で疑問は尽きないが、ともかく。
少女が怪我を直してくれたというのなら、やはり最初に伝えるべきは感謝の言葉であると思うから。
詳しい話は、その後で聞けばいい。
今は、ただ。
僕のお礼の言葉を聞いた少女が、これまで以上に可愛らしい笑顔を見せてくれているのだから、今はこれでいい。
これ以上を、望むべきではないと思うから。
話は聞きたいびだけれども、でも。
そもそも言葉が通じなくて何を言ってるかわからないから、話の聞きようがなかった。
***
どうやら少女は、僕が話している言葉を理解できているらしい。
そのことに気付いたのは、僕がほとんど独り言状態で喋ったことに対して少女が頷いたり、あるいは首を横に振っての否定の意志を見せたからである。
「じゃあさ、どうして僕をプールに落としたの?」
「――――、――――(首を横に振る」
「落とすつもりじゃなかった、ってことかな?」
「――――!(首を縦に振る)」
「そっか。じゃあなんで落とされたのかな……。もしかして嫌がらせ?」
「――――!!(首を横に勢いよく振る)」
「わぁごめん、怒らないで! 冗談、冗談だから!」
こんな意思疎通が繰り広げられ、何度もの問答の後、どうやら少女は僕と遊びたかったらしい、ということがわかった。
もっと色々と詳しい話が聞きたくもあったが、YesNoしか答えられないこの状況ではいささか無理があるというものだ。
細かいことを知るのは諦めて、僕は少女と遊ぶことに全力を尽くす。
水を掛け合ったり、泳いで競争してみたり、――そう、少女は泳ぐことが出来たのだ。
忘れかけていたが、あの小説では、プールで出会った少女に泳ぎを教える、なんて素敵イベントが発生していたのだ。
女の子にカッコいいところを見せる的なイベントが僕に発生しないのは少し残念ではあったが、仕方ない。
こうやって女の子と二人きりで夜のプールで遊ぶなんていうイベントだけで十分だ。
それ以上を望むなんて、罰が当たるに違いない。
いつの間にやら、僕は思考の海に沈んでしまっていたらしい。
少女の姿が目の前から消えていた。
「え、あれ?」
何か薄ら寒いものを感じて、けれども、少女の姿を探して周りを見渡せば、
「――――、――――」
少女は、仰向けになって水面に浮いていた。その青色の瞳は、じっと空に浮かぶ月を眺めていた。
僕も真似しようと思い、水面に背中から身を投げ出して、
「ぐえぇぇぶくぶくぶく……」
水には沈むばかりで、どうしても浮くことが出来なかった。
呆れたような表情を見せる少女の手前、これ以上かっこ悪いところを見せたくないと何度も試してみたが、駄目だった。
プールサイドの片隅に山積みにされていたビート板を何枚も持ってきてその上に寝そべる作戦を決行するも、失敗。
落水してあげく足がつって溺れかかっているところを少女に救出される始末だった。
何事も、本当に上手くいかないものだと、僕は溜息を吐くばかりだった。