第5話
その時の僕は完全に動転していて、何を考え、どういう行動をしていて、何を口走っていたのかさえ、ほとんど記憶にはない。
だがとにもかくにも、夜のこの中学校のプールには先客が居て、その時に思い出したのが今このシチュエーションにほぼ合致する、この学校に伝わる七不思議の内の一つであったが為に、この先客である少女が幽霊ではないかと思い込み、けれどもそれは本当に良くないことであるので、この少女が肉体のある人間であれと、おばけなんていないのさと、何度も何度も繰り返し繰り返し強く願っていたのだろうとは思う。
その願いが通じたのか、いやそもそも通じるとか通じないとかいう以前に、祈らなければ幽霊、祈れば人間にチェンジするなんていうことがある訳がなく。
現実問題として、実在する肉のある存在として、少女は確かにそこに居た。
プールサイドで思考停止して固まっていた僕をどう思ったのか、少女はプールからあがって、僕の隣にやってきた。
そして、何事かは全く聞き取れなかったのだが、ともかく僕に話しかけていた。
そこでようやく、僕はその少女が幽霊などではないと気付くことが出来た。
安堵にも似た何かとともに息を吐いて、改めて僕は少女を見る。
僕よりも頭一つ分くらい背が低い。紺色のスクール水着を着ていて、そこから覗くというか、突き出ている少女の手足はすらりと長く、その肌の色は月光に照らされている影響からか、病的なまでに白く見える。まつ毛がびっくりするくらい長く、ぱっちりした二重のまぶたが目を惹くが、それ以上に吸い込まれそうなほどに大きな瞳のその色は、青。その瞳が、僕をじっと見上げている。端正で整っていて、まるで人形を思わせる少女。白色メッシュの水泳帽から覗く髪色はどうやら金色のようだった。
年齢はたぶん僕と同じくらいだとは思うけれども、外国人の女の子の年なんてちっともさっぱりわからないので、そのあたりは適当だ。
ただ、控えめとはいえそれなりに膨らみのある胸から判断するに、あんまりにも幼すぎるということはないだろう。
と、僕が胸ばかり見ていたことに気付いたのか、少女が僕の視界に割り込むように、上目遣い、見上げるように僕と視線を合わせて、
「――――?」
少女が、口を開いた。
その表情、その仕草に、僕の胸の鼓動が早くなる。
思わず見惚れてしまって、慌てて目を逸らす。
よくよく考えれば、夜の学校でこんな美少女と二人っきりだなんて、恥ずかしいにもほどがあるじゃないか。
「――――? ――――?」
僕が視線を逸らしたのその先に、少女が回り込んできて、また視線を合わせて何かを言った。
何かを尋ねられているような雰囲気は察するが、しかし、
「えっと、あの、ごめん。もう一度言って貰える?」
だが、僕にはその言葉が全く聞き取れなかった。
英語、だろうか。こんなことならもっときちんと授業を真面目に受けて勉強しておけば良かった、ごめんね英ちゃん先生、と英語教師に心の中で謝罪する。
余談ではあるが、英ちゃん先生とは、本名志藤英子、四十過ぎのおばちゃん先生である。優しい雰囲気で、生徒からは比較的人気の先生である。
「――――? ――――?」
僕は、少女の言葉を聞き取ろうと必死になって耳を傾けて、けれども。
なんだか、英語とも違う言語ではないだろうか、という気になってくる。
これだけ集中して聞いていれば、聞き取れる単語の一つや二つくらいはあっても良さそうなものだが、しかしどうやら複雑怪奇な謎言語で意思疎通を図ろうとしているようにしか感じられないのだ。
ふと、英ちゃんが授業中に言っていたことを思い出す。
異なる言語を使う人との意思疎通において大事なのは、正確な単語や文法なんかよりも、相手の仕草や伝えようとする意志の方がずっとずっと大事だと言う。相手の目を見て、仕草をしっかりと見ていれば、大抵なんとかなる。それが、例えこの世界に存在していなかった言葉だとしても、とかなんとか。
その話を思い出し、だから僕は少女の目をしっかりと見つめ返して、
「君が、何を、言っているのか、全ッ然、わからない!」
精一杯の意志と仕草とで、伝えてみた。
少しでも伝わったのだろうか。少女はしばし、キョトンとした表情で沈黙して、それから考え込むような素振りを見せた後、
「――――? ―――ー!」
いきなり、僕の右手が少女に掴まれた。
少女の手は白く細く、ひんやりとしていて柔らかかった。
その突然の行動に、僕の心拍数はいやがおうにも高まる。頬どころか耳まで紅潮していくのを感じる。
「え、えっと、あの、ちょっと」
少女が、僕の手を引いて、歩き出す。予想以上に力強いその行動に、僕はなすがまま、引っ張られて、
「あの、どこに行くのかな? そっちはプール、だけれども、って、うわぁ!?」
思い切り引っ張られ、油断していた僕はバランスを崩し、少女と共に水面に落ちていく。
着水の直前、僕の視界に映る少女の顔は、満面の笑みであった。
直後、派手な音と共に、二人して頭からプールに突っ込んだ。