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第3話

 盛大にすっ転んだ以外の何事もなく、僕はプールの男子更衣室の前に到着する。

 夜空に浮かぶ月が、僕を優しく照らしている。

 目立つという程ではないとは思うけれども、遮蔽物が何もないここで立ち止まるのは、目撃されるリスクを考えると憚られる。

 この中に入ってしまえば、プールの周りには高い壁があるし、もうゴールしたも同然である。

 全力疾走で上がってしまった息を整え、逸る気持ちを落ち着かせるように深呼吸を繰り返しながら、男子更衣室に続くドアノブに手をかけ、思い切り回し、

「あれ?」

 思わず声が出てしまい、慌てて口を閉じる。

 ガチャガチャと何度かドアノブを回してみるも、結果は変わらない。

 少しだけ落ち着いてきた心臓の鼓動が、また早鐘を打ち出す。


――なんで、鍵が。


 嘘だろ、とか、何で、とか、そういう言葉が、僕の脳内を駆け巡る。

 よくよく考えてみれば、学校の施設ではあるし、鍵が掛かっていて当然の話ではある。

 現実は無情ではあったけれども、ここで諦めてしまえるほど、僕は大人ではない。せっかくここまで来たのだから、という思いがあった。

 だから、もう一度深呼吸して心を落ち着かせて、それからなんとかプールに入る手立てはないかと考えと視界とを巡らせる。

 まず目についたのは、プールを囲う壁だ。垂直に立っている三メートル近いコンクリート製の壁だ。

 小学校のプールは、こんな視界を遮るような壁はなく、ただの金網だった。だから、乗り越えようと思えば乗り越えられるんだけれども。

 でも、この中学校では違う。登ることは難しいし、何より金網と違って視界が遮られる。だから、クラスの男子にはすこぶる評判が悪い。

「この壁がなければ、隣のクラスに居る学年一の美少女と噂のあの娘の水着姿が拝めるのに、ちくしょう」と、クラスメイトの一人が言っていた。

それに対して、「いや、クラスの女子の水着姿で十分だし」との僕の意見を、間の悪いことに幼馴染の長野友香が聞いてドン引きしていたところまでがワンセットの思い出だ。

 友香は、幼馴染の女の子とは言いつつも、この田舎の街では年が近い子供ってのは大体幼馴染みたいなものだし、どこぞの恋愛小説なり漫画なりにあるような、甘酸っぱい関係だとかそういうのでは断じてない、ということだけは言っておきたい。という話はさておき。

 この壁は、少なくとも僕のような一般的な中学生が軽々と乗り越えられるようなものではない。

 もしハシゴでもあればいけそうだ、体育倉庫あたりを探してみようか、と周囲を見渡したところで、僕はそれに気付いた。


――女子更衣室のドアが、開いている?


 最初から、開いていたのだろうか。開いていたような気もするし、そうではなかったような気もする。

 女子更衣室なんていう、男子中学生からしてみれば近づくどころか見ているだけでも、女子からは変態扱いされ、男子からは勇者扱いされるその聖域にも等しいその場所に、僕は初めから意識を向けてすらいなかったのだから、当然と言えば当然の話ではある。

 これは、思いもかけない幸運であり、同時に試練でもあった。

 だがこの試練を乗り越えることが出来れば、目的のプールに行くことが出来る。

 そう、行けるのだ。

 女子更衣室を通りさえすれば。

 だが、健全な男子中学生である僕には、その勇気を振り絞るのが少しばかり、いやいや、かなり難しかった。

 今は夜で目撃者は誰もいないのだから大丈夫だと、心の何処かで悪魔が囁いた。

 そうすると今度は天使が現れて、もし女子更衣室に入ったり出てくるところを学校の先生に見つかりでもしたらどうなるか、お前のこれからの学校生活は終わりだぞあだ名はプール野郎で間違いなく犯罪者扱いで男子からは英雄扱いだが女子からは変態扱いだがどうするのかと騒いでいる。

 一秒だけ、目を閉じて考える。

 他の手はないか。小学校のプールなら余裕で金網を乗り越えて入ることが出来るが、周囲から丸見えなので気ままに泳ぐことが出来なさそうである。

 そもそも、ここからだと家を挟んで反対側で、大幅な時間のロスでおばけの時間に突入する可能性もあるから却下。いや、おばけが怖い訳じゃないけれども。

 職員室にあるであろう、男子更衣室の鍵を持ってくるのはどうか。いや、校舎に入れないように鍵が掛けられてるだろうから、まず現実的じゃない。

 ハシゴ作戦は、そもそもハシゴがあるかどうかもわからないし、体育倉庫だって鍵が掛かっているよね、きっと。

 目を開ける。

 答えは決まった。


――女子更衣室に、入ろう。


 それが、最善の選択である。

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