第10話
僕がプールに落ちている間に、老紳士がアリスを連れて返ってしまった、というのが、僕が考えに考えて考え抜いた末の結論であった。
完全に冷えてしまった頭と身体を引きずってプールを出たところまでは覚えている。
だがその後の記憶はおぼろげで、まるで自分ではない誰かが僕の身体を使って、僕を家まで運んでしまったかのようですらあった。
プールに来る際にはあんなにも躊躇した女子更衣室をなんてこともなく通過し、盛大にすっ転んだグランドを、今度は歩いていった。
裏門を乗り越えて道路に出た先、停めておいた自転車は月明かりに照らされていてすぐに見つかった。
自転車に乗り、家へと向かう。
身を切る夜風は酷く冷たく、僕の身体を芯まで凍えさせる。
ひたすらにペダルを漕ぎながら、まともに別れを言うことすら出来なかったアリスのことを思う。
別れの言葉を交わせなかったのは、残念だった。
だがそれも、仕方のないことだったのだ。あの老紳士の態度や行動や、挙げ句僕をプールに落とすなんてほんとうに何なのだと怒りたくもなるが、しかし。
そうしなければならない理由があったのかもしれない。
だって、あの老紳士はアリスのことを「お嬢様」と呼んでいた。
いかにも、それっぽい。だから、きっと中学生の僕ではわからない、理解できない何かがあったのだ。
そう思わなければ、やっていけない。
あの瞬間、駄々をこねる子供も同然の僕に対して、あの老紳士は子供を躾けるがごとく単純な力で持ち上げて、プールへと放り投げた。
たったそれだけのことである。
本当に、まだ子供でしかない僕では、今の僕では、全くこれっぽちも抗うことすら出来なかったのだ。
僕が大人であったのなら。もっと背が高くなって、力もあれば。
そうすれば、アリスにあんな暴力を振るうような真似はさせなかったというのに。
悔しいし、悲しい。
僕の目の前で、女の子が暴力を振るわれたこともそうだし。
全く敵わなかった、僕自信の無力さについても、そうだ。
それに、きっと手心を加えられていた。
もし、放り投げられた先が、プールサイドのコンクリートの上だったりしたなら。
水着姿の僕は、少なからず怪我をしていただろう。
だから、全くの無傷である今の僕は、なんだかんだ言いながらも幸運だったのだろうと、
「いや、ちょっと待て。何だろ、左腕が痛む、ような、」
田舎のこの町には街灯がまばらにしかない。丁度通過しようとしていた街灯の下で自転車を停めて、僕は痛みを感じているその箇所を見る。
――ッ!?
僕は、声にならない悲鳴をなんとか飲み込んだ。
こんな遅い時間に大声を出すなんて非常識もいいところだからだ。
そんなことを考えるくらいの余裕が、まだ僕にはあった。
時刻を知る方法がないから正確な時刻はわからなかったが。
月の位置からしておばけの時間に突入していることは確実で。
アリスが左腕に掛けてくれた不思議な魔法の効果が消えていて。
アリスが実は七不思議のあの女の子だったのではないか、だとか。
握った手の細さや柔らかさ、抱きとめた時に事故で触ってしまった胸の感触は確かに僕の脳に刻み込まれていて。
アリスが、僕を呼ぶ声も脳裏に焼き付いていて。
僕はもう一度、身震いをする。
今夜は、本当に夜風が冷たい。
だから、早く家に帰って、寝てしまおう。
難しいことを考えるのは、明日の僕の仕事にしてしまおう。
考えることがあるのかどうかすら、わからないけれども。
そんな益体もないことを考えながら、僕は自転車を再度漕ぎ始める。
皆が寝静まった家へと帰り、自室に戻って水着からパジャマ代わりのジャージに着替えて、布団に入ってすぐ、僕は眠りに落ちた。
案の定、僕は風邪を引いて。夏休みの残りをほぼ潰してしまった。




