神鏡の巫女 1
「恐れることはありません、この結界の内にいる限り、あなた方の安全は私が保障いたします。外では今、女王陛下よりお預かりした兵たちが奮戦しています。じきに忌々しい魔王らも退却するでしょう」
マイクもないのに、彼女の声はよく響いた。
「うおお! 女王陛下万歳! ヤマト万歳!」
群衆がどよめく。隣にいたナナセさんが手を合わせて拝んでいたので、僕もそれを真似る。
「戦っている彼らのために、どうか民よ、あなた方には祈っていただきたいのです。ヤマトを守るためには、私のような巫女の力だけではなく、民の、一人一人の祈りの力が必要なのだから。この神鏡ハチヨウを通して、天にまします我らの母に祈りが届きますように」
30センチくらいの鏡を「はちようさま」が掲げると、ある人は跪き、また、ある人は五体投地をした。僕がどうすればいいのかとオロオロ立ったままでいると、壇上の彼女と目が合った。まるで金縛りにあったように動けなくなる。それは一瞬のことだったと思う。
「ちょっと!」
ナナセさんが小声で呼びかけてくれているのは聞こえるけど、動けない。僕だけが突っ立っていた。膝をついて拝んでいた彼女に何度かシャツの裾を引かれる。はちようさまが瞬きをした。それでようやく僕は動けるようになった。なんとなく、関節がぎこちない感じがする。
「は、はい……」
僕も膝をついて頭を下げる。心臓がバクバクしていた。
「私はこれより魔王調伏の祈祷を執り行います。毎度のこととなりますが、安全が確認されるまで、みなさんはここから出ないように。では」
「はちようさま!」
背中を向けた彼女に誰かが呼びかけた。声の方を見ると、さっきの長老だった。おじいさんのくせによくそんな大きな声が出るな、と妙に感心してしまった。
「何か」
ゆったりとした仕草で彼女が振り返る。
「ついて来られよ」
長老は僕に近付いてくると、腕を掴んだ。僕はナナセさんへ助けを求めて見たが、立ち上がろうとする彼女を引っ張ってシオナさんが首を振るのが見えた。
僕らからはちようさまに向かって、人波が割れて道ができた。長老に合わせて足早に歩く。
「ここに、聖女さまの生まれ変わりの勇者殿がおわすこと、ご存知でありましたか!」
興奮気味に長老は言った。
「ヨシダさまの話は、民をいたずらに混乱させかねないからよしていただきたい、と以前にも申しましたでしょう」
「しかし……! まことにヨシダさまであるならば……!」
長老は必死に食い下がろうとする。さっきは眉唾ものなんて言い方をしていたけど、聖女の再来の可能性に縋りたい気持ちが勝ったんだろう。
僕だって、こんな大変な状況で、もし目の前に伝説の勇者かも知れない人が現れたら、疑う気持ちはもちろんあるだろうけど、それでも何とかしてくれるかもって、願ってしまうと思う。
「……分かりました、場所を移しましょう」
長老の様子に折れたのか、溜め息を吐きつつも話を聞いてくれることになった。
はちようさまとその侍女らしき人に伴われて、長老と僕は渡り廊下を渡り、畳が敷かれた部屋に通された。応接室的なものだろうか。中央には机が置かれている。
「これから祈祷が控えているのです、あまり時間は取れません。手短にどうぞ」
机の向こう側に座って、はちようさまが言った。
「あの、その、僕、たまたま吉田って名前だっただけで、本当にその聖女さまと何か関係あるのか、とか、全然分からないんですけど、ここには来たばっかりなんで、だけど」
侍女さんが敷いてくれた座布団に座りながら、僕はあたふたと答えた。よいこらせ、と声に出しながら長老が僕の隣に座る。
「……どこからいらっしゃったの。返答次第では、私は責任ある者としてあなたを拘束しなければなりません」
「ここじゃない伊勢から、来ました」
さっき動けなくなったことを思い出すと目を合わせられなくて、僕は机に彫られた模様を見て答えた。
「ここではないイセ、とはどういうことか。ヤマトにイセはここしかありません」
「ええと、だから、僕はヤマトの人間じゃなくて、波に流されて来たっていうか、現代の日本……違うな、ここでは今が現代なんだから……あの、そうだ、浦島の国、から来たんです」
「おん身は浦島の国、すなわち神々の国より遣わされた、と」
「え、それは違うような」
「いや、全くその通り、この者は海の彼方の常世からいらっしゃったのですよ、はちようさま。このあやしげないでたちからもお分かりいただけるでしょう」
ずいと机の上に身を乗り出し、長老が言った。
「あやしげってそんな、確かにボロボロだけど……って、そうじゃなくて、あの、はちようさま!」
声が裏返ってしまって恥ずかしいが、顔を上げて、はちようさまをまっすぐに見る。
「そのように声を張らずとも聴こえております」
彼女はくっと眉を寄せた。
「す、すいません、とにかく、あの、僕、本当の勇者だとか、違うとかじゃなくて、今、僕ができることをしたいんです」
美人が怒ると迫力がある。でも、ここで目を逸らしちゃダメだ。
「何ができるとおっしゃるの?」
「それはまだ分からないですけど……だって僕、普通だし……だけど、このイセのために何かさせてほしいって気持ちは本当なんです」
村や人々の様子を思い出す。そして、ナナセさんのような強さがほしいと願ったことを。
はちようさまはしばらく考えているようだった。
「……いいでしょう。あなたがまことに勇者であると証明できたなら、私はこのイセの地を任された者として、あなたを保護し、そして共に戦うことを、この神鏡ハチヨウに誓いましょう」
「はい、本当の勇者になります」
なれるか、じゃない、ならなくちゃいけないんだ。
強くなって、より多くの人と関われば、自ずと元の世界に戻る方法も分かるだろうし。
「巫女さま、たった今、魔王軍が退却したようです」
そのとき、音もなく、はちようさまの背後に幼い少女が現れた。まさか忍者か!
「おお、では私は村の者たちに伝えて参ります。失礼いたします」
長老は少女に驚く様子もなく、喜び勇んで立ち上がり、部屋から慌ただしく出て行った。ほんと、元気なおじいさんだな。
「……それと、今回は奴の姿は見えなかった、と報告がありました」
ボソボソと少女が続ける。
「そう、不幸中の幸い、と言えばいいのかしら。あれが来ていたら、ここはもう」
「民の前で何をおっしゃるおつもりか」
侍女さんが言葉を遮る。
「……失言でした。わたくしは神鏡八葉の巫女、いかなるときもこの身をヤマトに捧げ、民を守り抜くと決めたのだから」
壇上にいたはちようさまには年齢などを超越した神々しさすら感じたが、こうして目の前にして見ると僕と大して年も変わらない少女だ。どことなく儚い。
「そうでなくては、私が存在する理由がなくなってしまうもの」
彼女は静かに呟いた。