常世の浪 2
彼女に案内されて、村に着いた。そこは村というよりはキャンプ場といった様子だった。かなり慌ただしい。
「ナナセ! 何してる! 早く逃げるぞ!」
彼女を見た村人の一人が駆け寄ってきた。そうか、この人、ナナセって名前なんだ。
「ど、どうしたの!?」
「魔王だよ、また奴が来たんだ!」
「嘘……」
途端にナナセさんの顔が青ざめる。
「嘘なもんか! ほら、お社へ行くぞ!」
「分かった……ごめんね、とにかくお社へ向かおう」
僕が頷くと、ナナセさんは僕の手を取って走り出した。遠くないところから、ドオンと大きな音が聞こえた。
「なに、何の音!?」
「いいから走って! お社まで行けば、はちようさまがいらっしゃるから、大丈夫だから!」
脚が竦み、立ち止まろうとした僕を強く引っ張って、周囲の喧騒に負けないように彼女が叫ぶ。子どもをおぶって走る人、お年寄りを抱えて走る人、いろいろな人がいたが、みんな同じように恐怖を感じているようだった。あちこちで火の手と悲鳴があがる。魔王、という言葉に実感が伴う。ここはまるで地獄だ。
「お父さあん」
小さな子どもが泣いて、立ち尽くしている。
「こっち!」
僕は咄嗟にその子どもの手を引いた。ナナセさんが振り返る。
「あなた、その子おんぶして走れる!?」
「だ、大丈夫! 乗って!」
「う……お父さん、どこ……お父さんに会いに来ただけなのに……お母さんに言われた通り、お社から出ちゃダメだったんだ……お父さん、お母さん……」
背中に乗ってはくれたものの、子どもはキョロキョロとして気を抜けば落としそうになる。一人っ子の僕にとっては、小さな子をおんぶするなんて初めての経験で、しかもこの混乱の中。何も考えられない。僕はとにかく走ることで精一杯だった。
「大丈夫、きっとお社にいるよ!」
隣で走っていた彼女が笑顔で言った。
「だから、ね、しっかりその兄ちゃんに掴まってな!」
子どもが鼻を啜り、頷いた気配がした。肩に掴まる力が強くなって、ひとまずこの子を落っことしてしまうという心配はなくなった。よかった。ナナセさん、すごいな。慣れがそうさせるのかな。それとも、もともとヒーロー気質なんだろうか。この状況で大丈夫だと笑える彼女の強さに、僕は憧れを感じた。強くなりたい、そう思った。
途中、何度かつまずきそうになりながらも、ようやく「お社」へ着く。距離自体は大したことなかったようだけど、なんだかもうヘトヘトだった。身体が、というより、心が追いつかない。
緑の宝石でできた鳥居や社殿は場違いなほどきれいで、思わず息を飲んだ。日光を返してキラキラ光っている。
「ここまで来たら大丈夫、はちようさまがいらっしゃる限り、魔王はお社には入って来れないの。ほら、入ろ」
鳥居をくぐった瞬間、ふわりと涼しい森の香りがした。よく分からないけど、なんだか安心できる匂いだ。
社殿の中に入ると、体育館のようになっている。でも、僕の通ってる高校の体育館よりもずいぶん広い。外から見たときも大きいとは思ったが、まさかここまでとは思わなかった。野球場くらいの広さはあるんじゃないだろうか。
「あっお父さん! お母さん! お兄ちゃん、ありがと!」
僕の背中から飛び降りて、子どもが人混みの方へ走っていく。両親らしき二人が、こちらに向かって頭を下げるのが見えた。
「小さな子どもとその母親やお年寄り、ざっくり言うと漁に出ない人たちのほとんどはね、普段からここで暮らしてるの。いつ魔王が来るか分かんないから」
「さっきの村は?」
「あれは、なんていうか、仮の住まい。漁に出るために必要なものだけ置いてるって感じ。漁って言っても、船は全部魔王に壊されちゃったから、素潜りとか地引き網とかばっかりだけどね、でもやらないと生活できないから。生まれたところで暮らしたいってお年寄りもいたりするけど、大半はここで暮らしてるの、逃げ遅れて死んじゃった人、結構いたし……」
「ナナセ、さんは?」
「あたしは魔王が来る前から家族っていなくて、村のみんなが家族みたいなものだったの、だから、みんなが食べていけるように今も漁に出てる」
そう言って胸を張り、彼女は笑った。
「ナナセさんは、強いですね」
「あたしが〜? そんなことないって! 普通だよ、普通!」
「よかった、ナナセ〜! こっちこっち! 何してんの〜?」
人混みの中で飛び上がって手を振りながら、女の子がナナセさんを呼んだ。
「シオナ! 今行く! ……こうやってね、村ごとで集まってんの。あなたは、どうする?」
「僕は……」
このままナナセさんに着いていっていいんだろうか。
「ナナセ、誰それ?」
シオナと呼ばれていた女の子がこちらへ歩いて来た。
「えっと、って、そうだ、名前! 名前訊いてなかったね!」
「吉田悟、です」
「ヨシダサトル? 長い名前だね」
「吉田が苗字で、悟が名前、っす」
「……どういうこと?」
ナナセさんは驚いて目を丸くし、シオナさんは眉を顰めた。何かおかしなことでも言っただろうか。
「名前が二つに分けられるのは、高貴な方だけでしょ、ナナセ、こいつ怪しいよ、何なの? 服も変だし。どこ村出身よ?」
そう言って、シオナさんは一歩下がった。
「でも、悪い人じゃない、よ」
ナナセさんの語尾が震えている。
「よそもの連れてきちゃってさあ、どうすんの」
シオナさんが彼女を責めるように腕を掴んだ。
「なに、ナナセがよそもの連れてきたってか」
「見るからに怪しい奴だな」
「どういうつもりだよ……」
「まさか魔王の手の者?」
ひそひそと、確実な悪意がナナセさんと僕を取り囲んでいく。
「待て待て、どうした」
人混みをかき分けて、いかにも長老といった雰囲気の老人が前に出てきた。
「こいつ、ヨシダサトルとか名乗ってる奴、怪しくないですか? 高貴な方にも見えないし。ナナセが連れてきちゃったんですけど」
「なに、ヨシダ、とな」
「長老さま、何かお心あたりがあるんですか?」
あ、やっぱり長老なんだ。
「いや、古い言い伝えでな、村の年寄りでもごくわずかしか知らんだろうが……ヨシダさまという聖女さまが出てくるものがあってな……しかし、聖女さまには見えんなあ」
「まあ、自分、男なんで……」
じろじろ顔を覗き込まれて、つい言ってしまったが、ここはその伝説の聖女のふりをした方がよかったのか? なんにせよ、一度口にした言葉は戻ってはくれない。
「どんな言い伝えなんです?」
「うむ……まだこの世が造られたばかりのこと、悪竜が暴れ回っておったが、太陽の女神さまの加護を受けた聖女ヨシダさまがこのイセに降りたもうて、悪竜を懲らしめたという話じゃ……そして、ヨシダさまは誓われた、再び世に悪竜が現れたとき、生まれ変わって、必ず戻ってくる、と」
「つまり、悪竜が魔王で、この人がそのヨシダさまの生まれ変わりだ、と?」
「まあ、眉唾ものじゃがな、歴史書には悪竜が暴れたことは書いてあっても、朝廷軍が鎮圧したと書かれておるだけで、ヨシダさまのことは書かれておらん。これはイセに伝わっておるだけの話じゃ」
「しかし、本当にそのヨシダさまの生まれ変わりなら……!」
「ああ! 魔王を倒してくれるかも!」
「勇者、勇者だ!」
「ナナセ、よくやったな! さっきは責めて悪かった!」
「何なの……」
ナナセさんもシオナさんも困惑していた。もちろん僕もだ。ついさっきまでの態度とはえらい違いだ。でも、聖女の生まれ変わりかも知れないなんて、まるでおとぎ話みたいな、そんなわずかな希望にすらすがりたくなるほど、この人たちは追い詰められていたのかも知れない。
隣村の人たちまで集まってきて、周囲は一気に騒然とした。
そのときだった。シンバルのようなものが叩かれて、一人の少女が舞台の上、体育館で例えると校長先生が挨拶をするあれに立った。
「はちようさまだ……」
「はちようさま!」
「お美しい……」
「聴きなさい、イセの民よ」
凛としたよく通る声だった。つい背筋を伸ばしてしまうような。ざわついていた人々が、少女のたった一声で、水を打ったように静まる。
清冽、という言葉がぴったり当てはまる。なんというか、まとう空気が研ぎ澄まされているのだ。
圧倒的な存在感だった。