EX 王の抜け殻
糸が切れる。
頭頂部を吊っていた糸が、何の前触れもなくぷつりと切断されたようだった。
がくりと顎が下がり、膝が折れ、床にドレスの裾が丸く広がる。起き上がろうと手をつくがそのままの形で固まってしまう。身体のそこかしこが鬱陶しく痛み、サヴィトリの動きを阻害した。
タイクーン即位式とそれに伴うパレードやお披露目、諸侯からの形ばかりの祝辞と挨拶。それらをすべて終えたころにはすっかり夜が更けていた。
タイクーンの私室に戻り、安堵のため息を漏らした途端にこうなった。
パレードの時は馬車に座りっぱなし。即位式の時はお偉い神官の話長々立ったまま聞かされる。お披露目は城のバルコニーから、下に集まった民衆にむかって用意されたスピーチを読み上げるだけ。行列ができるほどいる諸侯からの祝辞を聞くときは玉座に釘付け。
サヴィトリ自身が何かを能動的におこなったわけではないのに、心身ともに疲労していた。
身体を動かすよりも長時間動かさないでいる方がつらい、ということをサヴィトリは初めて知った。
「お疲れのところ申し訳ありません。ですが、せめて着替えと化粧を落とさないと翌日に響きますよ」
一日中、新しいタイクーンのそばに控えていたカイラシュがいつも通りの笑顔で言う。
控えていただけでなく、カイラシュはサヴィトリの衣装替えから化粧、合間を見ての食事や休憩の補助、スケジュール調整に至るまでをすべて一人でこなしていた。緊張の度合いはわからないが忙しさで言えばサヴィトリ以上だ。それなのに髪の毛筋ほども疲れた様子がない。慣れているのか装っているだけなのか。
「……むり」
ようやくそれだけサヴィトリは言葉をしぼり出す。
「でしょうね」
腰に手を当ててため息をつくと、カイラシュはサヴィトリが身に着けていたティアラやイヤリングを外していく。
それだけでサヴィトリは頭が軽くなるのを感じた。指輪くらいしか装身具をつけたことのないサヴィトリにとってそれらは重すぎた。
指輪といえば、最近サヴィトリはターコイズの指輪をつけていることが少なくなった。携帯できる最小の武器なので持ち歩いてはいるが指にははめていない。カイラシュが露骨に嫌な顔をするのが原因だ。
また、ナーレンダのことを「ナーレ」と短く呼ぶだけでも眉間に皺を寄せる。親しい感じがして嫌らしい。前々から思っていたが細かいことを気にする性質だ。
カイラシュは両脇に手を入れ、軽々とサヴィトリを抱き上げる。カイラシュは細身のわりに力があった。以前、素手で太い木の幹を粉砕しているのをサヴィトリは見たことがある。
カイラシュはサヴィトリの身体を丁寧にベッドの上に下ろすと手早くドレスを脱がせた。補正というより拘束具そのもののコルセットも外し、代わりにサテンのスリップを着せる。あらかじめ終わった後について想定していたかのように動きに無駄がない。
「本当はもっときっちりとしたいところですが、致し方ありません。あとでぬるま湯でよくすすいで下さい」
化粧を落とすためのコールドクリームをサヴィトリの顔に塗り付けながらカイラシュは言った。
口も目も開けられないサヴィトリは小さく頷いて返事をする。
クリームを化粧になじませ終わると、サヴィトリは言われた通りに洗面台へと向かった。まだ足に上手く力が入らないため、壁を支えにしながら歩く。タイクーンの私室には洗面台だけでなく浴室まで完備されている。
クベラ人はよほど風呂が好きなのか、ここ以外にもタイクーンのみが使える大浴場や、サヴィトリが初めて城に来た時に強制的に入れられた賓客用の浴場もある。ジェイが住んでいる近衛兵の独身寮や、羅刹の宿舎にも立派な浴室があった。
サヴィトリは結わえていた髪をほどき、頭を二、三度振った。
洗面所の鏡に映る顔は、ショートケーキのように真っ白だ。頭を振ったせいで髪にも微妙にクリームがついてしまっている。
ぬるま湯が出るのを待たず、サヴィトリは冷水で顔をすすぐ。油分で指が微妙にぬめる。このままの顔で寝るのは気分が悪い。
サヴィトリは考えるより先に倒れ込むように浴室に入った。身に着けていたものすべてを文字通り脱ぎ捨てる。
「大丈夫ですか、サヴィトリ様」
シャワーの音を聞きつけてか、カイラシュがやって来た。
「……遠慮なく浴室の扉を開けてしまったわたくしもわたくしですが、少し隠したりしませんか」
「今更だ」
短く答え、サヴィトリは顔でシャワーを受ける。人肌よりもやや温かい湯は緩やかに眠りを誘った。
「跡が、残りましたね」
カイラシュの指が、サヴィトリの肌の上に刻まれた浅い線を撫でる。
サヴィトリは反射的に自分の身体をいだき、カイラシュの方を見た。眠気は一瞬で吹き飛んでしまった。
「そんな顔をなさらないで下さい。無理をさせたくなりますよ」
補佐官の顔で笑うと、カイラシュは静かに扉を閉めた。
サヴィトリはカイラシュに触れられた部分にそっと手をやる。長時間コルセットをつけていたせいでむくみ、縦に横にと線が入ってしまっていた。
次に、押し潰し覆い隠すように顔に手を当てる。触れられ、どんな顔をしてしまったのか。
カイラシュとの関係は、世間一般で言うところの恋人なのだろう。
だが、その先はない。
タイクーンと補佐官は結婚できない――クベラにはそういう法律があるらしい。国の頂点に君臨する者であっても法の拘束は受ける。
厳密にいうと、アースラ家の人間はタイクーンの血統の者と婚姻関係を結ぶことができないのだそうだ。仮にサヴィトリがタイクーンにならなかったとしても、カイラシュとは結ばれない。
もしも子ができたらどうするんだ、という話をカイラシュとしたことがあるが、「『処女懐胎』で通せばいいんじゃないですか。もちろんわたくしは全身全霊全力で可愛がりますよ」と言っていた。まったく気に留めていない風なのが逆に気になる。何か法の抜け穴でも知っているのだろうか。
そもそも、なぜそんな大事なことを今まで教えてくれなかったのだろう。
先の法律は結婚を制限することが本当の目的ではない。タイクーンの血脈と補佐官が必要以上に親密になることを禁じたものだ。過去に妻である補佐官に骨抜きにされ、悪政を敷いたタイクーンがいたらしい。そのせいで婚姻禁止の法が成立し、アースラ家の当主は男だけになった。
図書館で必死に読み漁った法律関係の本の内容を思い出し、サヴィトリは少し気分が悪くなった。
婚姻以前に、カイラシュとの関係自体を知られてはいけないのだ。もちろん言いふらしたいわけではないが、やましくないことを隠さなければいけないのは納得がいかない。
「カイ、明日の予定は?」
浴室を出て、手で髪を絞りながらサヴィトリは尋ねる。
「歴代のタイクーンがまつられている霊廟にて、即位奉告をして頂きます」
と答え、カイラシュはバスタオルでサヴィトリの身体を包む。
「一日中?」
「はい」
サヴィトリは露骨に顔をしかめた。明日は特に精神がすり減りそうだ。。
「ですがサヴィトリ様」
カイラシュはサヴィトリに耳元に唇を寄せ、声をひそめた。
「実は廟には緊急時の隠し通路がございます。城外へとつながっており、点検がてらそこを通って外出し、ぱーっと憂さを晴らしていただく、というのが明日の本当の予定です。昔の記述を見る限り、どの代のタイクーンも即位式を終えるとパンクしてしまうらしいですよ。そこで、即位式の翌日は奉告という名の休息日を設けるそうです。明日はデートですね、サヴィトリ様」
カイラシュが囁いた「デート」というなじみの薄い単語に、サヴィトリは目をしばたたく。
数秒後、ようやく理解が追いつき、サヴィトリは飛ぶようにしてカイラシュに抱きついた。
「明日休み! 休み! 休み!!」
「どうせならデートを喜んで下さい」
無邪気に騒ぐサヴィトリの頭を撫で、カイラシュはため息をつく。
「そういうことですので、多少、無理をしても構いませんよね、サヴィトリ様」
不意に、カイラシュの声音に粘りのある甘さが帯びる。
ほとんど催眠暗示のようだった。この声を聞くとサヴィトリの頭に「逃げる」という選択肢しか浮かばなくなる。
サヴィトリはカイラシュを突き飛ばすようにして離れたが、抱きかかえられるのにそう時間はかからなかった。
「わざわざベッドまで送り届けてくれなくて結構だ!」
サヴィトリは手足をばたつかせて抵抗する。前回も前々回も同じ抵抗をしてまったく意味がなかったのだが、この状況下に置かれてしまうと学習能力が働かなくなるらしい。
「ずいぶんとお元気になられたようですね。嬉しい限りです」
サヴィトリの偏見かもしれないが、ごく普通の言葉でもこういう時のカイラシュに言われると何か裏があるのではないかと勘ぐってしまう。
「あ、明日はデートだろう、デート。早く休もう、ね、ね、ね?」
「必死すぎます。わたくしはいつでも優しいつもりですが」
カイラシュは優しく微笑み、サヴィトリの額に自分のそれを寄せた。
「どの口がそれを言うんだ、どの口が!」
無性にいらっときたサヴィトリはカイラシュの唇を容赦なくわしづかみにする。
「……くっ! ……サヴィトリ様、お覚悟はよろしいようで」
カイラシュの瞳の奥が冷えた。その冷たさは氷術の比ではない。サヴィトリの思考から「逃げる」の選択肢すら消え去った。
だが、まばたきを一つした後のカイラシュの瞳からは冷たさが消えていた。代わりに浮かぶのは哀。
「貴女を欲しいと思うのは、罪なことですか?」
まるで別人のように弱く震えた声音だった。
「そういう次元の話じゃないだろう」
「罪だと仰るなら、やめます」
ひどくずるい提案だ、とサヴィトリは思う。
提案に見せかけた強制かもしれない。押して引くのはカイラシュの常套だ。
すべてわかっていても、サヴィトリに対抗手段はない。
「……明日、男の格好をするなら、いい」
途切れ途切れにサヴィトリは言う。小さなことでも、何か条件をつけなければ負けのような気がした。
「そのようなことでよければ。元より、そうするつもりでしたが」
カイラシュは本当に嬉しそうな顔で笑う。
たったこれだけで笑ってくれるのなら、無理をされるのも悪くない。ただし、時々なら、だ。
「明日、楽しみにしている」
サヴィトリはカイラシュの首にしがみ付き、軽くくちづける。
「ご期待に沿えるよう尽力致します」
〈了〉




