エピローグ 並び立つ光と影
城の外ではすでに大きな歓声が上がっている。
クベラ国民の誰もが、これからおこなわれる華やかで盛大な行事が待ちきれないようだった。
あと一時間もすると、新たなタイクーンを乗せた四頭立ての儀装馬車が王城を出発し、即位式が執りおこなわれる神殿へとむかう。
ここ数年、クベラ国では不幸が続いていた。二人の皇太子が立て続けに逝去し、そのショックから国の長たるタイクーンも病床に伏していた。
跡継ぎもおらず、タイクーンの病状も悪くなるばかり――そんな暗い雰囲気を打ち消すように、とある一報がもたらされた。
大陸全土に魔物を放ち混乱をもたらす神出鬼没の生ける天災「棘の魔女」を打倒し、ヴァルナ砦を奪還した若き女傑。彼女こそが亡くなったとされていたタイクーンの息女である、と。
暗殺者から命を守るため、生まれて間もなく密かに賢人に預けられ、身分を隠し異国の地で研鑽を積んでいた。
クベラと父王の危機を知り、唯一の世継ぎとしての責を果たすため国へと舞い戻った儚い美貌に果敢な心を秘めた姫。
サヴィトリのあずかり知らぬところでそんなシナリオが出来あがっていた。
よくもまぁそんなデタラメを考えつくな、とサヴィトリは感心するばかりだ。
香油をたらし、色とりどりの花びらを浮かべた水に櫛の歯先をくぐらせる。したたる水滴を軽く布に吸い取らせてから、カイラシュはサヴィトリの髪をすいた。うっすらと濡れた金の髪は穏やかな春の日差しのような輝きを宿している。
鏡台の前に釘付けにされているサヴィトリは、カイラシュの手で変わっていく自分を黙って見つめていた。
本来なら女官総出で身支度をするところを「サヴィトリ様を誰にも触らせたくない」とカイラシュが意地を押し通したため、化粧部屋にはサヴィトリとカイラシュしかいない。
「……いつまでやるんだ。髪の毛がすり切れる」
耐えきれなくなったサヴィトリは不満を漏らした。すでに化粧だけで一時間以上かかっている。
コルセットでぎゅうぎゅうに締めつけられた腹部も悲鳴を上げていた。おかげでありえないほど腰がくびれ、寸胴体型が矯正されているが。
「どうかご容赦下さい。髪の毛一本でも不備があってはいけませんから」
カイラシュは鏡越しに微笑んでみせ、主の意に適うよう精確さはそのままに髪を結う速度を上げた。
「即位式というのは国民総出でお祭り騒ぎをするようなことなのか?」
サヴィトリは窓の外を見やり尋ねた。
王城から神殿までの道は前日から人であふれかえっているとジェイが言っていた。今日は近衛兵らしく沿道の警備に当たるらしい。
「あまり良くないことばかり続いていましたからね。それに、なんといっても国祖クベラこと『陽光王』の再来として喧伝されていますから」
「『陽光王』?」
「はい。王にはそれぞれ二つ名があるのです。初代タイクーンなら『陽光王』、武勇で名を馳せた三代目タイクーンは『烈風王』、もちろんジャガンナータ様にもありますよ」
「誰が決めるのそういうの」
「自称であったり他称であったり様々ですね」
「私にもそういうの付くの?」
「初代と同じく『陽光王』の名を冠していただきます。すでに手はまわしております」
「被ってるけどいいの?」
「被っているのが大事なんですよ」
カイラシュは意味深に微笑んだ。
サヴィトリは嘆息し、指先でイヤリングをいじる。耳から何かがぶら下がっているというのは違和感があった。今日一日つけっぱなしにして耳たぶが千切れないか心配だ。
コルセットといいヘアメイクといいイヤリングといい、すべてが慣れないことだらけだ。もうすぐ執り行われる即位式のために必要なことだと頭ではわかっているが、感情と身体がついていかない。
身を包む黒のドレスの良すぎる肌触りも、かえって気持ちを落ち着かなくさせた。
髪を結い終えたカイラシュがサヴィトリの前にまわり込んで一礼をし、そっと髪にティアラを差し入れた。二、三度位置を調節し、一歩下がって全体を見る。
「終わった?」
耐え切れず、サヴィトリは思わず聞いてしまう。
「はい、サヴィトリ様」
カイラシュは頷き、サヴィトリの斜め後方に立った。
鏡にサヴィトリの姿が映る。
「とても良くお似合いです」
カイラシュが耳元に唇を寄せた。吐息を多く含んだ囁きは、内包する意図がありありと見て取れる。
「でも本当は、今すぐにでも脱がしたいところですが」
優美だが女性の物とは違うカイラシュの指が、大きくあいたドレスの胸元を這う。服と肌との隙間を押し広げ、軽く爪を立てる。
顔を赤くしたサヴィトリはカイラシュの顎の下に拳をねじり込むように叩き込んだ。カイラシュの身体が大袈裟に吹っ飛ぶ。
「もう。ごくごく一般的な男の欲望がぽろっと漏れただけじゃないですか」
カイラシュはそっと顎をさすりながらぶちぶちと呟く。
「漏れただけじゃなく実行に移しかけていただろう!」
サヴィトリは胸元を隠すように手で押さえた。立てられた爪の微かな痛みがまだくすぶっている。
「即位式直前にどうこうするほど非常識ではありませんよ。もっとも、サヴィトリ様がどうしてもとお望みであらば、やぶさかではありませんが」
カイラシュはしなを作り、熱っぽい視線を送る。
即位式まであと一時間もないというのに、またコルセットを締めなおしたり髪を結いなおすなど冗談ではない。
「終わったのならもう行こう」
サヴィトリは一度、鏡の中の自分を見つめ直してから立ち上がった。
「お待ち下さい」
カイラシュが呼び止め、サヴィトリの手を取る。
そのままごく自然にサヴィトリは引き寄せられ、唇が重なった。目蓋を閉ざす間もなく離れる。
「少し、濃かったので」
わずかに濡れたサヴィトリの唇を指先で軽く押し、カイラシュはやや目を伏せて言った。
カイラシュの唇にうっすらと移った薄紅を見つけると、サヴィトリの胸が大きく鳴った。
「あ……ありがとう」
不意を打たれ、どういう反応をすべきかわからなくなったサヴィトリの口から出てきたのは礼の言葉だった。
そのすぐ後、なんて間の抜けたことを言ってしまったのかと後悔に襲われる。
「では参りましょう、サヴィトリ様」
カイラシュはサヴィトリの手を持ち上げ、その甲にくちづけた。
「少し遠まわりをして行かなければなりませんね、お互いに」
やや頬を赤くしたカイラシュが困ったように笑いながら付け加え、扉を押し開いた。
〈了〉




