9 ディフェンスに定評のない補佐官
矢がリュミドラに触れた瞬間、世界が白く弾けた。冷気を伴う風圧によってサヴィトリの身体が吹き飛ばされる。
ガラスが砕けるような音がし、モノクロームの世界がぽろぽろとはがれていく。その下から色鮮やかな世界が現れる。
南中から十分が経過し、結界が崩れてしまったようだ。
リュミドラがどうなったのかはわからない。白く濃い霧が立ちこめている。
「本当に無茶がお好きですねサヴィトリ様は」
サヴィトリの身体の下からカイラシュの声が聞こえた。とっさにクッションになってくれたようだ。
「痛いのもきついのも嫌いなんだけどね」
サヴィトリは左腕を撫でた。巻き付いていた二本の棘は完全に消えている。
(嫌な予感しかしないな。もう一度矢を打ち込むか、ナーレに燃やすかしてもらったほうがいいかな)
サヴィトリは氷弓を携えたまま立ち上がった。白い霧の方へと近寄る。
リュミドラはあの巨体だ。うっすらとシルエットくらい見えてもよさそうなものだが。
「――うふっ、くたばれだなんてひどいわぁ」
いくらか薄まった霧からにゅっと二本の白く細い腕が生えた。サヴィトリの首に絡みつく。
まずいと思った時にはサヴィトリの顔は柔らかく弾性に富んだものに押しつけられていた。
「やっぱり女の子は可愛いわぁ。でも、サヴィトリちゃんはもう少しお肉をつけたほうがいいわねぇ」
リュミドラ――先ほどまでの凹凸のはっきりしすぎた肉の塊ではなく、胸に薔薇の刺青を持つ、どこか儚げな印象の美女だ。どちらが本当の姿なのかサヴィトリは知らない。
「っ、余計な世話だ! 放せ!」
サヴィトリはもがくが、リュミドラの力は意外に強く逃げられない。氷弓は手から落ち、指輪へと戻ってしまっている。
「そんなに嫌がらなくてもしばらく引いたげるわよぉ。リュミリュミも長丁場で疲れてこぉんなにやつれちゃったもん。ずっとお外だったから紫外線いっぱい浴びちゃったし~」
リュミドラは気だるげなため息を漏らす。やつれたレベルの体重の減り方ではない。
「……で・も、お土産はもらわないとね」
声音に妙な色が帯びる。
リュミドラはサヴィトリのおとがいに手をかけ、微かに持ちあげた。何かの花の香り――おそらく薔薇だろう――が鼻先をかすめ、柔らかく濡れたものが唇にあてがわれる。
これは。
「……サヴィトリ様あああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
絶叫し、石畳を踏み砕きながらカイラシュが駆けてくる。もっと早くに助けに来いと切実に思う。
「またね、サヴィトリちゃん」
ぼんやりとしているサヴィトリをカイラシュの方に軽く突き飛ばし、リュミドラはウインクをしてみせた。
リュミドラの全身が棘に包まれる。そのまま棘の塊が地面へと沈む。
それと同時に、周囲にはびこっていた棘が幻のように消え去った。
どうやら本当にリュミドラは去っていったようだ。
「サヴィトリ様! サヴィトリ様!! サヴィトリ様!!!!」
この世の終わりのような表情をしたカイラシュがサヴィトリの肩をつかんで前後に激しく揺さぶる。
「うるさいな、カイ。脳味噌が揺れて気持ち悪い」
「サヴィトリ様、今すぐ消毒をしましょう!」
「は?」
サヴィトリが端的に聞き返した時にはすでに、カイラシュの顔が近付いてきていた。
サヴィトリは無表情で、カイラシュの顎に掌底を叩きこむ。その衝撃でカイラシュは大きく仰け反り、バランスを崩してうしろに倒れこんだ。
「それのどこが消毒だ!」
「わたくしだけにしてください」
「ん?」
「他の者に、軽々しくキスなんてさせないでください」
「したくてリュミドラとしたわけじゃない」
「意思が介在しようとしなかろうと関係ありません!」
カイラシュはばつが悪そうな顔をし、視線を逸らした。拗ねる姿が妙にいじらしい。
サヴィトリはカイラシュに手を差し伸べた。
「じゃあ、そういう時は消毒云々じゃなくてはっきり言えばいい。真面目な言葉にはちゃんと答えるよ」
カイラシュはサヴィトリの手を取り、そのまま引き寄せた。閉じこめるように抱きしめる。
「今は言葉にする時間すら惜しいです」
意識せず二人の視線がかち合い、距離がゆっくりと消えていく。
「まわりが見えないって、本当に幸せなのでございます」
高めの可愛らしい声がサヴィトリの鼓膜に突き刺さる。
サヴィトリはカイラシュの額に頭突きを食らわせてキスをキャンセルし、慌てて立ちあがった。
いつの間にか、サヴィトリとカイラシュの周囲には人垣ができていた。みんな一様ににやつき、生温かい目をしている。
「サヴィトリ様、衆人環視の中でのプレイもまた一興です! ささ、早く先ほどの続きとその先を――」
衆人環視の中で傷害事件が発生した。
被害者カイラシュ・アースラは血だまりの中で気持ち悪く喘いでいる。
サヴィトリは凶器の石畳の破片を投げ捨て、観客達をにらみつけた。誰も視線を合わせようとしない。
恥ずかしまぎれと八つ当たりとで、氷の矢を乱射しようかという考えがサヴィトリの頭によぎる。
「ま、いちゃつく余裕があるってことは、無事に棘の魔女を倒したのでございますね?」
不穏な空気を察したのか、皆を代表してニルニラが尋ねてきた。
「いや、正確には逃げられてしまった。消耗していたようだから、すぐには襲ってこないと思うけれど。ちゃんと仕留められなくてごめん」
サヴィトリは深く頭を下げた。ここまでお膳立てをしてもらったのに、満足いく結果を出せなかった。
「ふん、そんなの君が謝ることじゃないだろう」
サヴィトリの頭にぽんと手が置かれる。ナーレンダだ。
「あの場にいたのに僕はほとんど何もできなかったしね。僕にも責任はあるさ」
「サヴィトリ様の責任はすべてわたくしが背負いますのでナーレンダ殿はどうぞお気になさらずに」
ナーレンダから引き離すように、サヴィトリはカイラシュに背後から抱きつかれた。
「わたくしのサヴィトリ様に気安く触りやがらないでください」
カイラシュが宣戦布告すると、どこからか口笛と歓声があがった。おそらく羅刹の隊士達だろう。ドゥルグが扇動しているのが視界の端に見えた。
「お前のじゃあないだろう」
ナーレンダの瞳がすっと細くなる。
波が引くように人垣が離れていく。
これから広場が更に破壊されてしまうであろうことにサヴィトリは頭を抱えた。




