3 紅を盗む
窓の外で鳥が鳴いている。
どうして彼らは朝になるとぴーぴー騒ぎ出すのか。
それとも、せわしない一日が始まる前のこの時間だから、彼らが鳴いているのに気を留めていられるのだろうか。
とりとめのないことを考えながら、サヴィトリはゆっくりと目蓋を持ちあげた。
強烈な、それでいて見慣れた色彩が飛びこんできた。それを定義する言葉がとっさに出てこない。
緩慢なまばたきを繰り返すうちに、だんだんと意識のもやが晴れてきた。
絹糸よりも艶やかで美しい紫苑の髪。
石榴石をはめ込んだような深紅の瞳。
いつもと違い、化粧の施されていない顔は男性的で落ち着かない。
普段なら、ジェイかナーレンダがベッドから叩き落とすかサヴィトリ自身が拳を叩きこむかするのだが、今日は両性の合意のもとに同衾した結果だ。カイラシュは多少不服そうだったが。
「……どうして、そんなに笑っているんだ?」
昨夜最後に見た表情と百八十度違うカイラシュに、サヴィトリは疑問を禁じえない。
カイラシュの表情は、朝によく似合う清々しい笑顔。良い夢でも見たのだろうか。
「いえ、サヴィトリ様がお目覚めになられ、その瞳に最初に映るものがわたくしだなんて光栄の極みでございます」
「朝起きて一番に目にしたものがカイだった、なんていうのはそう珍しいことでもないと思うが」
今回の旅路だけでも、少なくとも二回、目を開けたら至近距離にカイラシュがいた。
「ですが、逆はありませんでしたよね」
「逆?」
「目を開けて、わたくしの腕の中にサヴィトリ様がいてくださるなど望外の幸せです」
あまりにも嬉しそうなカイラシュに、サヴィトリは少し恥ずかしくなった。
今に限ったことではないが、カイラシュの台詞はまともに取り合うと色々な意味で思考回路に支障をきたす。
「昨日の夜は、むごいだのなんだとゴネていたくせに」
サヴィトリはわざと難癖をつける。
早くいつものペースを取り戻さないと、けだるく甘い雰囲気を引きずってしまいそうだ。
「まさか本当に添い寝だけだなんて、誰であろうとゴネますよ。無理強いをしなかっただけでも、わたくしは紳士だったと思いますが」
「仕方がないだろう。慣れないことをすると、今日の戦いに支障があるかもしれないし」
「おや、支障があるほど、激しいことをご想像になられたのですか」
爽やかな笑顔が、一瞬にして含みのある微笑に変わる。
「そういうわけじゃ……!」
揚げ足を取られたサヴィトリは、続く否定の言葉を見つけられない。
とりあえず殴っておけばいい、という解法を導いた時にはカイラシュの指先が唇を撫でていた。
たったそれだけのことで、身体と心が封じられる。
「今からでもご期待に添うようにいたしましょうか、サヴィトリ様」
耳にかすめるような距離で、カイラシュはねっとりと囁く。
「っ、私は何も期待などしていない!」
ムキになって声を荒げるのは逆効果だ。
理性がしきりに警鐘を鳴らしているが自分自身を制御できない。
「顔を見ればわかりますよ」
カイラシュはサヴィトリを組み伏せ、顎先にそっと手を添えた。
サヴィトリの関知しない心の奥底まで見通すような瞳で見つめる。
視線の圧に耐えきれず、サヴィトリは固く目をつむった。
「……自覚なしで煽っているのだから、本当に性質の悪いこと」
これみよがしなため息が聞こえ、ベッドが大きく軋んだ。
肌寒さにそっと目蓋を開けると、カイラシュが身支度を始めるのが見えた。慣れた手つきで長い髪を結いあげる。
(私も、いつまでも寝ぼけている場合ではないな)
サヴィトリはぼやけた思考を飛ばすように頭を振り、両手を組んで真上に伸ばした。
寝返りが打てなかったせいか、身体が若干凝り固まっている気がする。
「サヴィトリ様」
ものの数分で化粧まで完璧に終わらせたカイラシュが唐突に名前を呼んだ。
なんだろう、と疑問が頭に浮かぶ前に、唇が軽く重なった。感覚としては、盗まれた、という表現がしっくりとくる。
「おはようございます、サヴィトリ様。わたくしとしたことが、言い忘れていたもので」
カイラシュははにかみ、親指の腹でサヴィトリの唇に移った薄紅をそっとぬぐった。
「ん、ああ。おはよう、カイ」
サヴィトリはカイラシュの首に腕をまわし、盗まれたものを取り返した。




