1 タイクーンとは
※「7-10 蒼か紫か」から続くカイラシュルートです。
自室に戻り、枕を抱いてベッドの上でごろごろしているうちにすっかり夜になっていた。
サヴィトリの心は決まっていた。部屋に戻って一番最初に彼のことが頭に浮かび、思うだけで胸のあたりが熱くなる。
しかしうまく言葉にならない。音にするとそのままかき消えてしまいそうで、怖い。
サヴィトリは上体を起こし、手ぐしで髪の毛を整えた。
「サヴィトリ様、カイラシュです。まだ、起きていらっしゃいますか」
ともすれば聞き逃してしまいそうなほど小さな声とノックの音。
サヴィトリはベッドから飛びおり、慌てて扉を開けた。
不安げなカイラシュの顔がある。
「カイ……ああ、見てのとおり起きている。どうかしたのか?」
「その、夜這いに――」
サヴィトリはなかったことにした。
「ああああああああああああああああああああああああっ! 嘘ですサヴィトリ様ごめんなさい本当はちゃんと真面目な話をしにきたんです信じてくださいお願いしますううううううっ!」
「他の者に迷惑だろう! 騒ぐな!」
サヴィトリはカイラシュの顔に枕を押しつけて黙らせ、仕方なく部屋の中に入れた。
「はぁはぁ……本当に窒息させる勢いでの圧迫……思わず性的な意味で昇天するかと思いました」
サヴィトリはもう一度なかったことにしたかったがまた大声をあげられても困る。諦めてため息をついた。
「それで、真面目な話というのはなんだ?」
「あ、嘘です」
サヴィトリはやっぱりなかったことにした。
「ああああああああああああああああああああっ! サヴィトリ様ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ! ちょっとした出来心じゃないですかあああああああああああっ!!」
「……次は絶対に許さないからな」
サヴィトリは念を押し、しぶしぶカイラシュを部屋の中に入れた。眠っていた者達には本当に申し訳ない。
「ご迷惑かとは思いましたが、どうしても気になって来てしまいました」
さすがに三度目の悪ふざけはせず、カイラシュは気弱な笑みを浮かべた。
「自分の都合で訪れるなんて補佐官失格じゃないのか?」
サヴィトリはにやりとし、わざと意地悪な言い方を選んだ。
「ジャガンナータ様のご息女とはいえ、サヴィトリ様はまだ正式にはタイクーンではありませんので」
カイラシュは更に意地の悪い顔で微笑む。
今までとはまるで逆のことを言う。散々タイクーンであることを強いてきたのに。
「確かにそうだな。もっとも、私が継いだとして、タイクーンの役目自体を果たせるかどうかも怪しい」
サヴィトリは自分の手のひらを見つめた。
たかだか十数年しか生きていない、森しか知らなかった小娘にいったい何ができるだろう。何ができるかを考えること自体がおこがましいかもしれない。
「棘の魔女との決戦を明日に控えているというのに、そのあとのお話ですか。頼もしいことです」
カイラシュの声には小馬鹿にするような響きがあった。
今夜のカイラシュには棘がある。
「明日勝てなければ、事実上、今のクベラの体制は崩れるだろう。タイクーンは重傷、次期タイクーンは討ち死に。そもそも、病気療養中のはずであるタイクーンが戦線に出ばってきている時点でおかしい」
「物騒なことを仰らないでください。サヴィトリ様の御身はこのわたくしが身命を賭してお守りいたします」
「補佐官が第一に守るべきは現タイクーンだろう、カイラシュ」
サヴィトリはもう一度意地悪く言った。
カイラシュは眉根を寄せたが、すぐに諦めたようにため息をついた。
「わたくしが補佐官としてふさわしくないのは、わたくし自身がよく心得ております」
「殴る蹴るの暴行で喜ぶ、言葉の暴力でも喜ぶ、自らセクハラ等をしかけて暴力を誘発させる――人間としても失格だな」
「サヴィトリ様、本気すぎるトーンで仰られるとさすがに泣きそうになります」
本当にカイラシュは涙目になっている。
それほど深刻に言ったつもりはないがいつの間にかカイラシュに対して加減ができなくなってきているのかもしれない。
「ごめん。言いすぎた」
「ではサヴィトリ様わたくしに――」
「が、つけあがるような言動が見られたら躊躇なくとどめを刺す」
「……なんでもありません」
カイラシュは今にも舌打ちしそうな顔を慌てて微笑で隠した。
「カイラシュ、タイクーンとはなんだ?」
サヴィトリは窓辺に立ち、カイラシュに背をむけて尋ねた。
今まで、避けてきた質問だった。人の数だけ答えがあり、どれが正解か断言できない難題。
窓からは星空が見える。無数の星が輝いていて、どんな星座でも描けそうだ。位置の問題か、月の姿はない。
「タイクーンはクベラが王」
歌劇役者のように朗々とした声でカイラシュは答える。
「クベラの天も地もそこに住む人々も、鳥獣や生い茂る草木や花、路傍の石にいたるまで、すべてを擁します」
耳障りの良すぎる声は、サヴィトリになんの感慨ももたらさず、右から左へと抜けていく。
「それらを生かすも殺すも、タイクーンの御心ひとつ」
カイラシュはサヴィトリの手を取り、自分の首に当てさせた。サヴィトリの手のひらに、カイラシュの鼓動が伝わる。
「それと同時に、タイクーンはクベラの万物のものでもあります。万物がなければ王たりえず、王なくしてはクベラはありえません」
カイラシュは、跡をつけるようにサヴィトリの手首を強く握った。
「カイの言うことは概念的すぎてよくわからないな」
サヴィトリはつかまれていた手を自分の方に引き戻し、皺の寄ってしまった眉間を押し伸ばした。
カイラシュの言葉の意味自体はそれほど難しくないが、自分の近い未来とはまったく結びつかない。
「頭だけで理解されても、それはそれで不安ですからね。理論だけではうまくいかないのが人の世の常。サヴィトリ様はそれくらいでいいのだと思います」
カイラシュは安心させるように柔らかく微笑んだ。
「カイは私に学がないと思っているだろう。年相応の教育は受けたぞ、一応」
識字については、幼い頃にナーレンダにみっちりと叩きこまれた。ナーレンダがクベラに行ってしまってからは、意外とマメにクリシュナが勉強を見てくれた。フィールドワークが多く、戦術・戦略系に偏ったりしていたが。
「まさか、滅相もありません。タイクーンの役目というのは、実際のところ誰にも定義できないことなのです。たとえば、クベラを影から操りたい者にとってはタイクーンは意志薄弱な傀儡であることが望ましい。民からすれば自分達が幸せに暮らせることを望むでしょう。しかし、幸せの形というのは人それぞれ。それをすべて叶えるなど、人の身では成しえぬことです」
「それでも、すべての民を幸せにするのが理想、だろう」
「理想はあくまでも理想。掲げることによって人心を鼓舞掌握するためだけに存在するものでしょう。実際には最大多数の最大幸福が関の山。ですが多数のために少数を犠牲にすると最初から明言するのは心証も気分も悪い」
「……今の私では一殺多生すらできないだろうな。見知らぬ多数の者よりも、見知った者の命のほうが遥かに重い」
施政者として愚かな発言だとわかった上で、サヴィトリは言った。タイクーンの座に就く覚悟はあるが継ぐ覚悟はまだ持ちえていない。
「それがタイクーンのご意思であるなら。タイクーンを縛れるのはタイクーンの御心のみにございます」
カイラシュはゆったりと頭を垂れた。
サヴィトリは顔をしかめ、髪をかきむしる。
「では、なぜ私なんだ。私はタイクーンの血を引いているというだけだろう。私よりも優れた者は世に数多いる。どうして彼らがタイクーンではいけない?」
「わかりません」
「は?」
「おそらくは、初代タイクーンから数代まで賢君・名君ぞろいだったからでしょう。それで、その血筋の者を王として据えておけば安泰だという共通認識が生まれた。事実、現タイクーン・ジャガンナータ様にいたるまで大きくクベラがかたむいたことはありませんし。もっと端的に言ってしまえば、ただの慣習なのでしょう」
「補佐官ともあろう者が、ずいぶんと簡単に言ってくれるな……」
「わたくしが血の尊さをせつせつと説いたとして、サヴィトリ様はご納得していただけますか?」
「しない」
「詭弁を弄する意味がないので至極簡単に申しあげたまでです」
「どうもありがとう」
「それに、血統というものの理不尽さは誰よりもわたくしが身に染みて感じていることです」
カイラシュの口の端に、自嘲めいた笑みが浮かぶ。
補佐官も世襲制だ。カイラシュは望んで補佐官職に就いたのだと思っていたが、そうではないのだろう。
色々な意味で、カイラシュに対してわがままばかりを口にしていたかもしれない。
「カイは、補佐官になりたくなかった?」
サヴィトリは感傷のままに、カイラシュが答えづらい質問を投げかけてしまった。
「物心つく前から、アースラ家の末子として生まれ落ちた時点でわたくしには補佐官となる道しかありませんでした」
抑揚なくカイラシュは言う。
サヴィトリは自分の無神経さを呪った。
だが、カイラシュはそのあとすぐに微笑み、「ですが」と前置きをして言を継いだ。
「わたくしの道を照らしてくださったのがラトリ様とサヴィトリ様です。あの時お二人に出会わなければ、今もひとり、先の見えぬ暗い道を歩き続けていたでしょう」
「母はともかく、私はその時赤子だろう? カイに会った記憶もないし……」
「他人にどんな影響をおよぼすかなど、往々にして当人は自覚していないものです」
カイラシュの台詞に、サヴィトリはほとんど無意識のうちに指輪に触れていた。
カイラシュの目元がにわかに険しくなり、サヴィトリの手を握りしめた。
「己の心の矮小さに、自分でも嫌気が差します」
「カイ?」
「お聞かせください、どちらをお選びになったのか」
カイラシュは威圧感のある笑顔で詰め寄ってきた。
サヴィトリはただ後ずさることしかできない。
「さっき、ナーレンダ殿のことをお考えになったでしょう?」
カイラシュの指がターコイズの指輪の上で遊ぶ。
確かにサヴィトリの脳裏に一瞬よぎりはした。それだけだ。誓ってそれ以上の意味はない。
「その程度で心乱されるほど、わたくしは愚かなのです。補佐官として、人として。サヴィトリ様がタイクーンとなれば、国のこと、民のこと、あらゆることに思いを馳せなければならない。わたくしはきっと、それに耐えられない。野に咲く花の一つにすら嫉妬を覚えてしまう」
「……薄々感じていたが、本当に面倒くさい奴だな」
サヴィトリは大きくため息をつき、包むようにカイラシュを抱きしめた。
「私は、カイのそういう、うだうだ深く落ちこむところが嫌い。少し冷たくするとすぐ発狂するところもイヤ。人目をはばからずべたべたくっついてくるのも好きじゃない」
「……もしかして、とどめを刺そうとしていらっしゃいますか?」
「かもしれない。それ以外は、全部好きだよ」
サヴィトリは、隠すように顔をカイラシュの身体に押しつけた。
カイラシュがどんな顔をしているか見られないし、自分の顔も見せたくない。
「サヴィトリ様」
カイラシュの手が遠慮がちにサヴィトリの背にまわされる。
「わたくしでよろしいのですか?」
「いまさら何を言っている」
「補佐官としても人間としても失格。情緒不安定で嫉妬深くストーカー気質な色々面倒くさい変態ドSMですが」
「やっぱり前言撤回していい?」
「ならば既成事実を作るまでです」
「馬鹿かお前は! 結局私に選択権などないじゃないか!」
「やっと、顔を上げてくださいましたね」
言われてからサヴィトリは気付いた。
嬉しそうに笑うカイラシュの顔が近くにある。
サヴィトリはわけもなく恥ずかしくなり、両手で顔を覆い隠した。
だがすぐにカイラシュによってはがされ、互いの息が感じられるほどの距離で見つめられる。
「……苦手なんだ。こういう時、どうすればいいのかわからない」
サヴィトリは逃げるように顔を横にむけ、視線を下げる。時間がたつほど恥ずかしさが募り、顔の熱さが増していく。
「困った顔も愛らしいこと」
カイラシュは整えられた爪の先で、つ、とサヴィトリの頬に触れた。
そのまま顔のラインを撫でおろし、顎に手を添えて自分の方に顔をむけさせる。
数日前にもこんなことがあった。あのときはナーレンダが来たためにうやむやになったが。
今回は目を閉ざす間もなく、唇が重なった。軽く触れるだけのくちづけが幾度となく繰り返される。
「……んっ……カイ……」
「今だけ、わたくしだけを感じてください」
カイラシュは切なげなため息を漏らし、二人の隙間をなくすようにサヴィトリの身体を抱き寄せた。再びくちづけ、サヴィトリの下唇を自分の唇ではさみ込む。
感触の柔らかさにサヴィトリはうっとりとする。カイラシュのつけている口紅のせいなのか、ほんのりと蜂蜜に似た香りと甘さがあった。
サヴィトリの髪に両手を差し入れるようにして首筋を押さえ、カイラシュは薄く開いた唇に舌を忍ばせた。互いの舌先がこすれあい、水音と吐息とが混じる。
酸欠と恥ずかしさでサヴィトリは頭が朦朧とする。動悸は治まらないし、背中から臀部にかけて妙な感覚が走っている。初めてだからこうなのか、カイラシュ相手だからなのか、まわらない頭に疑問符ばかりが飛び交う。
「……ふっ……可愛い可愛いサヴィトリ様。キスだけでこんなにもしおらしくなるのなら、もっと早く、多少無理にでもするべきだったでしょうか」
濡れた唇が綺麗な笑みを形作る。くちづける前よりも赤さが際立って見えた。
「こ、こんなこと、軽々しくしないで、ほしい……」
サヴィトリは狼狽を隠す余裕もない。口元を両手で覆い隠し、弱々しく首を横に振る。
自分でも信じられないほど、自分の何もかもが思いどおりに動かない。
「そのような薄紅色をした花のかんばせで仰られても、かえってそそられるというもの。ですがご命令であれば従います。意に沿わぬのであれば、やめろとご命令ください」




