7-11 蒼か紫か
「ふん、まったく馬鹿じゃない」
サヴィトリとヴィクラムは二人揃って正座させられ、ナーレンダの説教を受けることになった。
本人はあまり意識をしていないのかもしれないがヴィクラムはとにかく目立つ。単純に身長が高いことも理由のひとつだが、生来のオーラのようなものが人目を惹く。
瘴気の練成のために急造した幕舎に行くと、ものの数秒でナーレンダとジェイに出くわした。
ただならぬ雰囲気を察したジェイは、ドーナツの入ったバスケットをナーレンダに押し付けると姿をくらましてしまった。
「すまない、その、うまく手加減が……」
「手加減するしない以前の問題だろう。そんな簡単なこともわからない頭でよく部隊長が務まるね。さぞ他の人間が優秀かとてつもない苦労を背負わされていることだろう」
ヴィクラムがほんの少し発言しただけでナーレンダに徹底的にやり込められた。心なしかヴィクラムの姿がひと回り小さく見える。
「こんな所で油売ってないで早く鍛錬に戻ったら、三番隊隊長」
やっと解放されることに顔を輝かせ、ヴィクラムは挨拶もそこそこに幕舎から出て行った。
「君は怪我の治療だろ」
ヴィクラムに続いて流れで出ていこうとしたサヴィトリは襟首をつかまれた。有無を言わさずドーナツを口に突っこまれる。
素朴なプレーンドーナツでまだほんのり温かい。外側はクッキーのようなさくさくと軽い触感、中はしっとりとしていてはちみつの甘さとミルクの風味ががつっと感じられる。一つでも充分な食べ応えがある満足感たっぷりのドーナツだ。あとはコーヒーや牛乳があればどんなに最高だろう。
「しっかり味わってるんじゃあない」
ナーレンダはサヴィトリの頭を軽く小突いた。
ドーナツを咥えさせたのはナーレンダの方だ。理不尽な暴力にサヴィトリは納得がいかない。サヴィトリはナーレンダが持つバスケットからドーナツを一つかすめ取った。
「あーもう! それも食べてていいからおとなしくついてきなさい。また誰かに見られると面倒だから」
ナーレンダはサヴィトリの襟首を持って引きずり、幕舎から離れた。隠れ家の方まで連れていかれる。
(「おとなしくついてこい」、は「おとなしく引きずられていろ」ということなのか?)
つっこみを入れるとまた面倒なことになりそうなので、サヴィトリは黙ってドーナツを食べた。
「こんなこと言っても君は聞き入れやしないんだろうけど、無茶しないでよ」
ナーレンダはサヴィトリの手を取り、腕にできた大きな青あざを見下ろす。
結局、ナーレンダが個人で使用している部屋まで引っぱられた。
サヴィトリをベッドに座らせ、ナーレンダは向かいに置いた丸椅子に腰かけている。
飲み物なしにドーナツを二個も食べたせいでサヴィトリはうまく声が出ない。
「棘の魔女を倒し城に戻ったらこんな君がタイクーンだなんてね。世も末だよ」
ナーレンダの声にはわずかに非難するような色があった。
あざにむかってかざしたナーレンダの手から淡い光があふれる。じんじんとした痛みと熱っぽさが抜けていき、あざの色も次第に薄くなっていく。
「……ナーレは、私がタイクーンになるのに反対?」
唾を飲みこみ、サヴィトリはようやく声を発した。
「諸手を挙げて喜んでるのはカイラシュくらいのものだろう。僕は不安で仕方ないよ」
ナーレンダはサヴィトリの左手をつかんだ。そのまま引き寄せ、ターコイズの指輪を自分の唇にあてがう。
「誰も最初から君の政治能力には期待していない。けれどタイクーンとして表舞台に立つ以上、クベラの内外で生じるあらゆる責任が君にのしかかる。君のことだからどうせ楽観視してるだろうけど生半な気持ちではすぐに潰されるよ」
そんなことない、と言い切りたかったがそうするだけの根拠がサヴィトリにはなかった。サヴィトリ自身、自分がタイクーンとしての役目を果たせるとは思っていない。
ジャガンナータは、タイクーンに納まれば、自然と周囲にタイクーンとして躾けられていくから資質など関係ないとも言っていたが。
「大事なこと一言も相談しないで決めて、ごめん」
サヴィトリがタイクーンになることはもはや個人の意思では取り消せない。サヴィトリがナーレンダにできるのは謝ることくらいだ。
「だから、君にそんな殊勝な言葉は期待してない」
ナーレンダは怒ったように眉間に皺を寄せた。
「そもそも独断専行は君の十八番だろう。今回のことで骨身に染みてわかったよ。でもまぁ、少しでも僕に悪いと思う気持ちがあるならあんまり心配させないでよ。僕の寿命が縮むだろ」
ナーレンダの声のトーンが和らぐ。
「ただでさえ僕のほうが年上なんだから。そんなことで命をすり減らしてたら君と一緒にいられる時間が減るじゃないか。少しでも長く、一緒にいさせてよ」
サヴィトリの左手とナーレンダの右手が重なり、互いの指輪がこすれる。
それとほとんど同時にサヴィトリの心臓が大きく鳴った。胸が締めつけられるように苦しいのにそれが奇妙に心地よくてもどかしい。
「……ナーレ、もしかして本当は昨日のこと覚えてる? さっきも『また誰かに見られると』って――」
「ドーナツのかけら、ついてるよ」
ナーレンダは柔らかく微笑み、サヴィトリの顔に顔に手を添えた。親指の腹で口元をぬぐう。
「情けないだろう。面倒な性格だって自覚はあるよ。いつも君に口うるさく言うくせに、肝心なことは真正面から言えたためしがない。普通に考えたら気持ちが悪いだろう、歳だって十以上違うし」
「見た目だけなら今はむしろナーレの方が下」
「……君は話の腰を折る天才だね」
ナーレンダの指がサヴィトリの頬をつねった。
わかってはいたが今は脊髄反射で返事をしてはいけない時間のようだ。
「一緒に暮らしてた時も、離れた後も、今も、ずっと心の中心に君がいるんだよ。君が僕のことをどう思っているか、誰を思っているかは正直わからない。それでも、僕は……」
「限界です」
サヴィトリとナーレンダの間を裂くように天井から何かが降ってきた。
ナーレンダは冷えた目で降ってきたもの――カイラシュを見据える。
サヴィトリはさほど驚かなかった。何かが降ってきたこと自体には驚いたが、そんなことをする奴はカイラシュをおいて他に居ない。
「こんなの、黙って見ていられるわけがないじゃないですか」
カイラシュは感情的な声を上げ、唇を嚙みしめた。
「申し訳ありませんサヴィトリ様。昨日の夜からずっと、天井に貼りつき壁や茂みに擬態し跡をつけておりました」
サヴィトリはとりあえず手短にあった枕をカイラシュに投げつけた。現タイクーン・ジャガンナータの言葉を頭から無視するとは補佐官としてどうなのか。
「もっと早く出てくると思ってたよ」
ナーレンダは落ち着いた様子でドーナツを手に取った。
「サヴィトリ様を誰よりもお慕いしているのは、わたくしです」
カイラシュは胸に手を当て、苦しそうに言った。
「想いの強さなんて関係ないだろう。選ぶのも選ばないのも彼女次第なんだから」
ナーレンダはちらりとサヴィトリに視線をむけた。
(リュミドラとの決戦を控えてるのになんてことに……)
サヴィトリは心の中で頭を抱えた。
もっとも優先すべきは棘の魔女リュミドラの打倒であり、それ以外は二の次三の次。今すぐに決断する必要のないことだ。
リュミドラとの戦いに、今目の前でにらみ合っている二人を伴おうと考えていたことも悩みの種のひとつだ。
カイラシュは冗談めかして言っていたが、いざとなったら本当に要石を割りかねない。それならば最初から一緒に行った方が良い。もちろん戦力としても期待している。
ナーレンダは単純に火力要員として優秀だ。サヴィトリが足を引っ張りさえしなければ、前回で片が付いていたかもしれない。
いや、違う。
一番いけないのは移り気な自分だ。どちらに対しても曖昧な態度で濁し、自分の感情にも向き合わず、ずるずるとここまで先延ばしにしてきてしまった。自分の気持ちさえちゃんと定まっていればこんなことにはなっていない。
「リュミドラとの戦いには、二人について来てほしいと思ってる」
サヴィトリは顔をあげてナーレンダとカイラシュの二人を見た。どちらの瞳にも軽い驚きがあった。
「少し、時間が欲しい。夜までには、ちゃんと、するから」
どうしても言葉が揺らいでしまう。
「よりによってこんなときに悪かったよ。でも、横からさらわれるのは見過ごせなかったから」
ナーレンダは額を押さえ眉をひそめた。
「人聞きの悪いことを仰りやがらないでいただきたいものですね。最初からあなたのものだったわけではないでしょう」
カイラシュが青筋を浮かべて突っかかる。
「ふん、余裕ないねカイラシュ。普段はあんなにやりたい放題しているくせに、まさか自信がないのかい?」
「その言葉、そっくりそのままお返ししますナーレンダ殿。いまさら慌てだしたのは自信のない証左でしょう」
サヴィトリはたまらず頭を抱えた。
この二人は自分達で火種を作って応酬するから質が悪い。
「またあとで、ね」
サヴィトリは一言だけ告げて部屋を出た。




