6-9 奇跡の水
肌の上を滑る、少しごわついた感触が懐かしい。
服の袖に腕を通しながら、サヴィトリはふと郷愁を感じた。
クベラに来てからというもの、物の値段にうといサヴィトリでもわかるほど質の良い服ばかり着ていた。カイラシュの用意してくれる服はどれも触り心地が良すぎる。けちを付けるのはお門違いだとわかっているが。
髪を乾かし、濡れた服を着替え、サヴィトリはようやく人心地ついた。自然とほっとため息が出る。
「カイラシュさんが物凄い剣幕でうちに来た時は本当にびっくりしちゃった」
濡れたタオルを片付けながら、ユーリスはころころと笑う。
着替えを用意してくれたのはユーリスだ。わざわざ店で新しい物を買ってきてくれた。
着替える前に泉の水を兵士にと思ったのだが、「いつまでもそんな格好で風邪でも引いたらどうするの!」とユーリスに押し切られた。
そういうことを一番に気にするのは大抵カイラシュなのだが、色々あって余裕がなかったのだろう。
「でも、水を汲もうとして落ちちゃうなんてサヴィトリちゃんって意外とドジっこ?」
余計な心配をかける必要もないと思い、ユーリスには泉に落ちたことだけを話している。
はじまりの泉のせいで記憶を失ったのは一時的なものだったらしい。洞窟からユーリスの家まで戻る道中、カイラシュと記憶のすり合わせをしたが特に問題はなかった。サヴィトリに対するカイラシュの態度自体にはいつでもどこでも問題があるが。
アイゼンの様子から考えるに、はったりではなく本当にはじまりの泉は「まっさらな状態」に戻してしまうものだったはずだ。カイラシュのイカレ具合がそれを凌駕するほどだったということだろうか?
「何から何まで本当に迷惑をかけてすまない。服は後日あらためて、ちゃんと洗って返すから」
サヴィトリはユーリスに頭を下げた。
「あ、気にしないで! 安物だから返さなくてもいいよ。その代わりって言ったらなんだけど、この服もらっても大丈夫?」
と言ってユーリスが指差したのは、サヴィトリがさっきまで着ていた濡れた服。
「それは構わないけれど」
サヴィトリは首をかしげる。
仕立ては良いがサヴィトリの行動が荒っぽいせいで、あちこちほつれたりすり切れたりしてしまっている。
「本当? ありがとう! サヴィトリちゃんがタイクーンになった暁には家宝として崇め奉るね!」
ユーリスは嬉しそうに濡れた服を抱き、その場でくるりとまわった。
親切だが、やはりちょっと変わった子のようだ。
負傷した兵士のいる部屋に行くと、カイラシュが兵士の様子を見守っていた。
「タイクーンとまったく同じ症状ですね」
カイラシュは険しい表情をし、忌々しそうに下唇を噛んだ。
「これで治ればいいけれど」
サヴィトリはバルブアトマイザーに入れた泉の水を見た。
原液を使って記憶に障害が出るといけないので、念のために希釈してある。
サヴィトリは意識して息を吐いた。
あれこれ考えても仕方ない。
実験台にすることに気が引けるが、このまま何もしないでいれば彼を覆う棘は進行するばかりだ。
サヴィトリはバルブ部分を押し、霧状の水を棘に吹きかける。
効果はてきめんだった。
サヴィトリが直接泉に手をひたした時ほどではないが、水がかかると棘は茶色く変色し、どんどん萎れていった。数十秒で完全に消えてなくなる。どうやら二倍希釈でも問題はないようだ。
「わぁ、本当にあそこの水にそんなすごい力があったんですね!」
ユーリスが歓声をあげる。彼女としては半信半疑だったのだろう。
閉ざされていた兵士の目蓋がぴくりと動いた。ゆっくりとまぶしそうに目を開ける。
「……ここ、は……俺……」
兵士はかすれた声を発した。
サヴィトリは身振りで、ユーリスに水を持ってきてもらうように頼む。
「よかった、気が付いたか」
サヴィトリは微笑み、兵士に声をかけた。
兵士が助かったことももちろん嬉しい。これでタイクーンを救うことができる。
「あなたは、あのときの、確かヴィクラム様の婚約者の……! もしやあなたが助けてくれたのですか? ありがとうございます!」
サヴィトリの顔を認識し、兵士は慌てて上体を起こした。
強くサヴィトリの手を握りしめる。
「……呪いが解けて良かったですねぇ」
まずい、とサヴィトリが思うときにはすでに事態は起きてしまっている。
カイラシュは電光石火で兵士の手を引きはがし、粉砕する勢いで握った。
「あと何かきわめて致命的で重大な勘違いをしているようですね。こちらにおわす高貴で典雅なサヴィトリ様が、あんな脳味噌腐れスライムの婚約者のわけがありません!」
殺気てんこ盛りの笑顔で、カイラシュは兵士に詰め寄る。
そろそろ止めないと、せっかく一命を取り留めたのが無駄になる。
「カイ、何をそんなに怒っているんだ。あとのことはユーリスにお願いして、私達は一刻も早く戻ろう」
今ヴァルナ村を出ると野宿は免れない。だが、少しでも早く泉の水をタイクーンに届けるべきだろう。
「サヴィトリ様」
カイラシュは不機嫌そうに眉をつり上げ、サヴィトリの両手をつかんだ。そのまま自分の口元へと運ぶ。
「ぅわっ!? なんの真似だ、カイ!」
指先に歯を立てられ、サヴィトリは反射的に手を引いた。しかしカイラシュの力は強く、びくともしない。
「わたくしは、サヴィトリ様のものです」
理由はわからないがカイラシュは拗ねていた。唇をとがらせ、じとっとした視線をサヴィトリに向ける。
ちょっとだけ可愛い、と血迷った感情がサヴィトリの中に芽生えた。しかし即座に頭を振ってそんな感情を彼方に押しやる。
「だったらなんなんだ!」
サヴィトリは無駄に大声をはりあげた。
呆然としている兵士と、水を持ってきてくれたユーリスの視線のせいでいたたまれない。
「……なんでもありません」
カイラシュは目蓋を伏せ、サヴィトリの手を放した。何も言わず部屋を出ていく。
「興味津々ゴシップ大好き」とでかでかと顔に書いてある二人から追及される前に、サヴィトリも部屋から逃げ出した。




