6-2 抱擁と包容
(本当に、心が――心も身体も弱くて嫌になるな)
サヴィトリは自嘲気味に笑い、勢いよくシーツに顔を突っ伏した。そのまま両膝を立て、両腕で抱えこむ。
タイクーンの面会の時間まで、どう過ごしていいかわからない。皆は気を遣ってくれたが、独りでいるとかえって余計なことばかり考えてしまいそうだ。
サヴィトリはなんとはなしに自分の手のひらを眺めた。
見慣れた手だ。傷ひとつない。
服はゆったりとした簡素なワンピースに着替えさせられている。おそらく世話をしていたのはカイラシュだろう。
三日間も寝込んでいたにもかかわらず、体臭や血の匂いがまったくなく、なぜかほのかに甘い花のような香りがする。
手と同様に、身体のどこにも傷は見当たらなかった。
(戒めも、残してはくれないのか)
カイラシュか、あるいはナーレンダの指示かもしれない。回復術で綺麗に傷跡を消してくれたのだろう。他人の気遣いを責めるのは筋違いだが、未熟さの証を残しておいてほしかった。
「サヴィトリ!」
大声で名前を呼ばれるのと同時に、ものすごい勢いで部屋のドアが開かれた。けたたましい二つの音に、サヴィトリは思わず身体をびくりとさせ、目を強くつむってしまう。
ドアの方にサヴィトリが意識をむけるより先に、誰かに強く抱きしめられた。ほとんど体当たりといっていい。
抱きつかれた衝撃で、サヴィトリは押し倒される形になった。したたかに背中をベッドに打ちつける。痛みで息が詰まり、視界には白い星がちかちかと舞う。
いきなり抱きついてくる心当たりの筆頭はカイラシュだが、「サヴィトリ」と呼び捨てにすることは絶対にない。第一、声が違った。まわされている腕も細い。
サヴィトリは頭を数回ゆすり、視界が正常に戻るまでまばたきを繰り返す。白っぽくぼやけていたものが次第にはっきりとした輪郭を持つ。
左右でお団子にしたニラ色の髪と、フリルたっぷりの少女趣味なワンピース。
緑蜂に囲まれ、死を覚悟した時に見た希望。
「よかった、目が覚めて……!」
サヴィトリにまわした手に力が込められた。
冗談抜きで苦しい。並みの男くらいの腕力がある。
「ごめん、ニルニラ。腕の力をちょっと緩めてもらっていいかな。そろそろ肋骨逝きそう」
サヴィトリは咳払いをし、ニルニラの背中を軽く叩く。
弾かれたようにニルニラは飛びのいた。
床に放り捨ててあった日傘を拾い、くるくると落ち着きなくまわす。
「えと、その、あ、意外と元気そうなのでございますね! 心配して損したのでございます!」
「心配してくれたのか、ありがとう。それと色々迷惑をかけてしまってすまなかった」
サヴィトリは素直に頭を下げた。
リュミドラの件はニルニラは部外者だ。戦いでの頭数に入れるとか冗談で言ってみたこともあったが、本当に巻きこむ気などなかった。
「ニルニラこそ怪我はない?」
ぱっと見は普段と変わりない。力も無駄に強かった。
「あたしは、たいしたことないのでございます。それより――」
ニルニラは急に言葉に詰まり、両手で顔を覆い隠した。
ニルニラの姿を隠すように日傘が床に落ちる。
顔を隠す直前、サヴィトリは、ニルニラの瞳に光るものが見えた気がした。
「あ、あんたさん、サヴィトリが、死んだら、どうしよう、って……」
ニルニラは肩を震わせ、しゃくりあげながら言葉を紡いだ。
誰かを抱きしめたいと心から自然に発したのは、これが初めてかもしれない。
サヴィトリは空気を包むようにニルニラの身体に腕をまわした。何を扱うよりも繊細に緑色の長い髪を撫でる。
「ニルニラが助けに来てくれたおかげで、かばってくれたおかげで、私は生きているよ。いや、私だけじゃない。援軍が来るまで時間を稼いでくれたから、みんな生き延びることができた。だから泣かないで、ニルニラ。こういう時は、笑ってお互いの無事を喜ぶべきじゃない?」
ニルニラの手を顔からそっとはがし、サヴィトリは全力の笑顔を見せつけた。
目を赤くしたニルニラは数回のまばたきの後、とびきりの笑顔を返してくれた。
「絶対に、ショートケーキとストロベリータルトと苺大福を食べに行くのでございます!」
「ああ。あと、海も見に行こう」
サヴィトリとニルニラはうなずき合い、誓いを交わすように互いを強く抱きしめた。
「うふふふふ、女の子同士の友情っていいですわね。こんなむさ苦しい野郎の集まりで、こんなにも美しい目の保養ができるなんて僥倖ですわ」
何か妖しい気配がし、サヴィトリとニルニラは弾かれたように離れた。
「このくらいの年頃のお嬢ちゃんらの友情は清くてええのう。しばらくするとマウンティングやら男を巡ってやらで、一瞬でどろどろのぐっちゃぐちゃになるからの」
「ぐっさん、お見舞いの席でそういうシビアな話はちょっと……」
気付いた時には、三人?の人物に取り囲まれていた。
「騒がしくしてごめんなさいね。おひさしぶりです、サヴィトリさん。それとも殿下とお呼びしたほうがいいかしら?」
一人は、術法院の准術士長ル・フェイ。以前ナーレンダの消息を探していた時にお世話になった女性だ。
「いえ、堅苦しくされるのはあまり……それより、この丸っこいのはなんですか?」
サヴィトリはたまらず指を差した。
ル・フェイの他に、ベッドを取り囲んでいるのは、羅刹総隊長のドゥルグと、片眼鏡をかけた二.五頭身のまるっこい不思議生物。頬の丸さやつぶらな瞳といい、どことなくリスっぽい。
「キリーク導師、こんな時くらい省エネモードはやめてくださいって言ったじゃありませんか」
ル・フェイは髪をかきむしるように頭を抱える。
「このほうが楽なんだもん。サヴィトリちゃん、この姿でははじめまして、ペダ・キリークです。体調はどう?」
どういう理屈かはわからないがこの不思議生物が導師ペダらしい。深く考えたら負けな気がする。助けてもらった時は普通の人に見えたが、やはり術法院の人間だけあってどこかずれているようだ。
「お二人とも、助けていただいてありがとうございます。お礼を言うのが遅くなってすみません。本来なら私が伺わなければならなかったのに」
サヴィトリはペダとドゥルグにむかって頭を下げた。
感謝と謝罪はきちんとしなければ。礼儀知らずに見られることが多いし、その自覚もあるが、まったく分別がつかないわけではない。
「あんまりかしこまらなくていいよー。ね、ぐっさん」
ペダは喋るとき、なぜか短い腕をぱたぱたと上下に揺らす。本当に省エネになっているかどうか疑問だ。
というか、わざわざ自分の頭身を縮めることがどうして省エネにつながるのか。いったいどんな術や技を使っているのか。謎は尽きない。
「そうじゃよお嬢ちゃん。しかし、到着が遅れたワシが言うのもなんじゃが、どいつもこいつも情けないのう。鳴り物入りでお嬢ちゃんの護衛に就いたというに」
ドゥルグは不満げに顎髭を撫でつけた。
「ごめんねー、ぐっさん、サヴィトリちゃん。ナーくんはちょっと頭に血がのぼりやすいところがあるし、ラムちゃんはちょっと頭弱いから」
陽気な見た目のわりにペダは辛辣だ。
「四人は悪くありません。すべては、リュミドラの挑発に乗り、制止を振り切って無計画にむかってしまった私の責です」
サヴィトリは首を横に振り、服の襟元をきつく握りしめる。
更につけ加えるなら、自分の力を過信し、リュミドラの力を甘く見ていた。最初から判断を誤っていたのだから勝てる道理などあるわけがない。何よりも自分が一番足手まといだった。
「いいや、何があろうとお嬢ちゃんは大正義じゃ。サポートしきれんかったあやつらが悪い」
ドゥルグは腕組みをし、口をとがらせた。
「そうそう。あんまり思いつめないでねサヴィトリちゃん。無計画につっ走るのはタイクーンのお家芸なんだから。みんな、そこんとこをよーく理解しておいてくれないとねー」
ペダは小首をかしげ、邪気のない笑顔をみせる。
「ペダよ。あまりフォローになっておらんような気がするが……」
「そう? だったらごめんねー。でもさ、ガンさんの暴走には手を焼いたよねえ。独断専行、スタンドプレーが好物で、厄介事に巻きこまれるのも自分から首を突っこむのも大好き。その上、自分のことなんか二の次三の次なんだもん。カーくんなんか胃に穴があいたとか円形脱毛症になったとか嘆いてたし」
自分にも思い当たる節があり、サヴィトリは非常に耳が痛くなった。
直接育てられなくとも似るものなのか。よりによって悪いところが。
「あの、カーくんっていうのは?」
初めて聞く登場人物だった。
ペダの呼び方はなかなかに個性的だ。タイクーン・ジャガンナータはガンさん。ドゥルグはぐっさん。サヴィトリの師匠クリシュナはクリリン。
「ああ、前の補佐官――カイラシュくんのお父さんだよ」
補佐官は世襲制だと以前カイラシュから聞いたことがある。
血は争えないのであれば、カイラシュの胃にも穴があいたり円形脱毛症になったりするのだろう。少しだけ労わってあげたほうがいいのかもしれない。
「こら、昔話はそれくらいにせんか。ジジイの悪い癖じゃ。苔むした話なんぞお嬢ちゃんには退屈じゃろうて」
ドゥルグは眉間に皺を寄せ、まだ話そうとするペダの首根っこをつかんだ。
「ん……そっか。そうだね。私もぐっさんにお小言食らうくらいジジイになっちゃったんだなぁ」
ペダは感慨深く遠い目をした。
しかし見れば見るほど、ヴィクラムとは似ていない。短時間しか接していないから断言はできないが、性格もかなり違う。
それ以上考えると不敬になりそうなので、サヴィトリは心の奥にしまい込んだ。
「さて、あまり長居をしてもあいつらが妬くじゃろうしお暇するか。休んでいるところを騒がしくして悪かったのう」
「またね、サヴィトリちゃん。お大事に」
ドゥルグとペダは優しく微笑みかけ、部屋から出て行った。
(昔はどんな感じだったんだろう)
サヴィトリにとって興味深い話だったが、ドゥルグはあまり語りたくはなさそうだった。楽しい話と同じくらい、あるいはそれ以上につらい思い出もあるのだろう。
(師匠はきっと全然変わっていないんだろうな)
ハリの森に引きこもっているクリシュナの顔を思い浮かべる。
よくよく考えればクリシュナについて知らないことは多い。ドゥルグ達と親交があったということはさほど彼らと年齢が変わらないはずだが、どう見積もっても三十代にしか見えない。俺様は超絶美形で不老不死の完璧究極現人神だとか冗談っぽく言っていたが。
(師匠ともっと話しておけばよかった……ってこれじゃあまるで師匠が死んだみたいな言い方だな。師匠とは色々ちゃんと話さないと、な)
サヴィトリは視線を少しさげ、小さくため息をついた。




