1-4 続・健忘症対策?
「ったく、本当に馬鹿ばっかりで頭が痛くなるよ」
意味のない争いを興味なさげに一瞥し、衝立の上に乗っている金色のカエルは丸い吸盤のついた手で頭を押さえる。
ナーレンダ・イェルといえば、術法院の最高責任者である導師ペダ・キリークの秘蔵っ子として突如現れた鬼才の術士だ。
術の中でもっとも破壊・殺傷能力が高いとされる火を自在に操り、腕の一振りだけで数多の敵を灰塵と化す。
また術具開発においても、膨大な知識と類まれなセンスを持っている。
関所や重要施設の入場チェックや防護・迎撃システム、術を使えない者でも超自然の恩恵を受けられる術具など、実に全体の三割がナーレンダの独力によって作られた物だった。
異例と呼ぶにふさわしいスピードで術士長へと昇進し、すでに次期導師と目され、将来を嘱望されている男――それがクベラ国内でのナーレンダに対する評価だ。
しかしサヴィトリにとって、そんな字面だけの情報などどうでもよかった。ナーレンダは、十年ほど前に自分を置いて異国へと行ってしまった薄情で大事な家族でしかない。サヴィトリが養父の反対を押し切り、クベラへとやって来たのも、彼の存在が一因だった。
今も、ナーレンダはサヴィトリの頭を悩ませる種の一つだ。ある意味ナーレンダのために、サヴィトリ達はとある場所へとむかっている。
「……あの馬鹿どもも、どうしてこんな寸胴がいいんだか」
ナーレンダは着替え中のサヴィトリをまじまじと見つめ、ため息と一緒にぽつりと漏らした。
衝立の上にいるのはカエルであってカエルでない。
そのことを天啓のごとく思い出したサヴィトリは額に青筋を浮かべ、叩き潰す勢いで金色のカエルをはたき落した。
* * * * *
記憶喪失というわけではないが、折に触れて確認をしておかないと森で養父と暮らしていた頃に戻ってしまいそうだった。それほど、サヴィトリにとって今の立場は現実味がない。
一ヵ月。
たったそれだけの期間で、サヴィトリを取り巻く環境は激変してしまった。
まだ着慣れないクベラ様式の服に腕を通しながら、サヴィトリは記憶の衣をまとっていく。
大陸北部に位置し、列強三国の一つに挙げられる大国クベラ。そのタイクーン――クベラでは王のことをそう称する――の娘、それがサヴィトリだった。
だが生まれて間もなく、何某という占術師の予言により「災厄の子」として処刑されかけてしまう。それを救ったのが当時クベラの高官であったクリシュナだった。
以降、クベラとは縁遠い、滅多に人の立ち入らないハリの森で、サヴィトリはクリシュナの娘として育てられた。
最初はクリシュナの弟子として住みこんでいたナーレンダも一緒に生活をしていた。だがサヴィトリが七、八歳の頃、ナーレンダは詳しい理由も告げずにクベラへと旅立ってしまった。幼い少女に詳細を説明したところで得心してくれるわけがないと思ったからだろうが。
細い針で刺し抜かれたように腕が痛み、サヴィトリの手が止まる。
痛んだ左腕に目をやると、左手中指にはめたターコイズの指輪から鋭いトゲをもった棘が伸びていた。
サヴィトリはこっそりと左手を隠す。余計な心配をかけるわけにはいかない。
意識して深い呼吸をし、ざわめいてしまった心を落ち着かせる。
指輪に宿った呪は、狡猾な獣のようにサヴィトリの心の隙をうかがっているらしい。これ以上、無闇に過去にひたるのは危険だろう。
その後、様々な人間の思惑が重なり合い、「災厄の子」として事実上亡き者とされていたサヴィトリは、唯一のタイクーンの血族として迎えられ、次期タイクーンの座を手に入れた。
(あの時の行動は短慮だった、としか言いようがないけれど)
サヴィトリは小さくため息をつき、ちらりとジェイの方を見る。
サヴィトリが森を出たのも、タイクーンの後継者になることを確約してしまったのも、この地味な青年によるところが大きかった。
ジェイがいなくとも、サヴィトリは森から巣立ち、クベラという国に絡めとられていたであろうが、彼によってその時が大幅に早められたのは間違いない。
(そんなことより、早くこいつをどうにかしないと)
サヴィトリは指輪を見つめる。
空色のターコイズを戴き、特殊な紋様が彫られた銀のリング。
幼い頃からずっと身に着けてきた大切な思い出の品が、棘の魔女による呪の媒介とされてしまった。特定条件下でのみ、指輪から幻視の棘が生じ、サヴィトリの全身に絡みつく。
その時の絶望に等しい痛みを思い出しかけ、サヴィトリは打ち払うように強く頭を揺すった。
(必ずこの借りは返してやる、リュミドラ……!)
サヴィトリはぎゅっと左手を握りしめ、拳を額に押し当てた。