5-1 緑の羽音 無音の殺意
空を見るかぎり、その日はただの平凡な昼下がりだった。
風に吹かれるまま雲はやる気なく泳ぎ、頂点からほんの少しはずれた場所にいる太陽は出力をやや落として大地の隅々を照らしている。大地とその地に住むものの事情など関係なしに。
無残という一言で片付けるには、あまりにもそこは壊されすぎていた。
石畳で舗装された大路は、地面から生えた無数の棘によって砕かれめくり上げられ、褐色の土を露出させていた。横倒しにされた街路樹や、避難する際に誰かが忘れていった靴や荷物が悲壮感に拍車をかける。
建物には棘が幾重も複雑に絡みつき、有機的なオブジェへと変貌させていた。何かを吸いあげるように規則的に脈打つ棘は、見る者に生理的嫌悪感を催させる。
町の中心部に近付くにつれ、負傷した者や大量の血にまみれた者、棘に刺し抜かれ絶命した者の姿が増えていく。
* * * * *
耳障りな音を立て、瓦礫の影から何かが飛び出してきた。
捕捉できないほど動きが速い。かろうじて、黒い影が六つだということはわかった。
こちらにむかってくる影に対して、ヴィクラムは抜刀と同時に斬りつける。
しかし、空を斬っただけだった。
刃をかいくぐるようにしてかわし、影はヴィクラムの頬の肉を浅くえぐって飛び抜けた。
肉をえぐられた瞬間、ヴィクラムは影の正体を見定めた。
体長数十センチ。
ガラス玉を埋め込んだような無機質な複眼。
二対四枚の翅。
濃緑と薄緑の縞模様の体色。
色は違うが、見たことのある生き物だ。だが名前が出てこない。
羽音とともに、かちっかちっという何かを打ち鳴らす音が聞こえる。
(ぶんぶん……ああ、蜂か)
羽音のおかげで、ヴィクラムはようやく思い出すことができた。自分の知っているのとあまりに大きさが違うためわからなかった。
棘の魔女の魔物特有の、緑の体色をした蜂は、ヴィクラムの近くで停止飛行している。
かちかちという音は、牙のような鋭い顎を噛み合わせる威嚇音だった。
(害虫駆除なら煙玉でも持ってくるんだったな)
ヴィクラムは刀を下段に構え、相手の出方を待つ。
飛行生物相手に無闇に斬りつけても無駄だろう。もっとも、実際の蜂のように毒液を噴射されるとその時点で終わり、だが。
数秒の膠着のあと、緑蜂が一斉にヴィクラムに襲いかかった。
ヴィクラムは柄を握り直し、ぎりぎりまで敵を引きつける。
相手が攻撃態勢に入った瞬間こそ唯一の隙だ。
「本当に愚鈍でございますね、貴様は」
声が聞こえ、ヴィクラムは反射的に身体をその場で反転させた。自分にむかってくる黒い針を刀で打ち落とす。数本打ちもらしたが、さいわい服にかすっただけだった。
地面では、黒い針で翅を破られた緑蜂がうごめいている。踏み潰すとぱきりと硬質な音がして、枝と葉に戻った。
頭部を直接貫かれたものもいる。方向感覚を失ったように不安定に飛んでいたが、不意に翅の動きが止まり、落下しながら葉をまき散らした。
(一、二、三……あと一匹仕留められていない)
ヴィクラムは素早く死骸を数え、周囲をうかがう。
右斜め上から羽音が聞こえる。
胸部に針が深々と刺さっていながら、最後の一匹がヴィクラムにむかってきた。動きは遅い。
ヴィクラムは祈るように目蓋を伏せ、緑蜂を斬り払った。
羽音がやみ、緑が飛散する。
「……補佐官殿の飛針は空を舞う虫の翅を縫う、という噂は真だったのですね」
ヴィクラムは刀を納め、地面に落ちていた針の一つを拾いあげた。
黒色なのは特殊な毒を染みこませてあるからだと聞いたことがある。受けて確かめる気は毛頭ない。
「ああ、誰が言い触れまわったか存じませんが『空を舞う虫の翅を縫い、人の瞳をも射抜く』などという安い宣伝文句のことですか。お恥ずかしいかぎりで。愚鈍な熊に打ち落とされる程度のものです」
カイラシュは服の袖で口元を押さえ、しなを作った。
もう片方の手には、黒針がしっかりと握られている。
「危ないところを助けていただき、ありがとうございます」
ヴィクラムは頭を下げると、緑蜂が飛び出てきたあたりにむかった。
作られた魔物が巣を形成するかはわからないが、確かめておくに越したことはない。
行く手を阻む魔物は極力排除しなくては。
うしろの魔物は放っておくにかぎる。
「本当に頭の血のめぐりが悪い男です」
カイラシュは息を吐き、ヴィクラムのあとを追った。




