4-7 補佐官の煩悶
シャワーコックをひねると、思った以上に勢いよく水が噴き出した。
サヴィトリは両手を壁につき、頭だけを流水に突っこむ。
「冷たい……」
ごく当たり前の感想が口をついて出る。
ぼんやりと自分の身体を眺めると、色々な場所にあざやすり傷ができていた。まだ完全には傷がふさがっておらず、血のにじんでいる所もある。
(女でなければ、よかったのだろうか……)
サヴィトリは自分の肩をいだき、食いこむほどきつく爪を立てた。
何度も身体を洗ったが、あの不快な感触はぬぐいきれない。
叫ぶことしかできなかった自分の無力さが情けない。
(まぁ、女でなければ赤ん坊の時に死んでただろうけど)
「お前が男だったら助けてねーよ」とはクリシュナの弁だ。
サヴィトリが女の子だったからこそ、クベラの大師の座を捨ててまで「災厄の子」の命を救い、ここまで育ててくれた。
クリシュナにとって、目の前で困っている女は、老若問わず手を差し伸べるべき対象らしい。
サヴィトリは顔を仰向け、シャワーを顔面に受ける。
いつまでもうじうじ考えていても仕方ない。同じ轍を踏まぬようにすればいいだけのことだ。
それよりも、自分の眼前には巨大すぎる肉壁がある。
棘の魔女、リュミドラ。
呪いの件を筆頭に、大小さまざまな恨みを晴らす。
どういうつもりで自分に関わるのかをはっきりさせる。
この二点を完遂させなければ、心安らかに暮らせない。
「大丈夫ですか、サヴィトリ様?」
浴室の外から遠慮がちに声がかけられた。カイラシュだ。
自分が思っていた以上に長く入っていたのかもしれない。
サヴィトリは慌ててコックをひねって水を止めた。
「ごめん、大丈夫だ。待たせてすまない、すぐに出る」
サヴィトリが身支度を整えたあと、軽い食事を取りながら今後について話し合うということだった。あまり待たせるのは悪い。
「いえ、むしろ中に入れていただいて、身体を洗うお手伝いをさせてもらいたかったり――」
「四十秒で支度するからそれ以上喋るな!」
* * * * *
着替えをすませて自分にあてがわれた部屋に戻ると、窓際にカイラシュが立っていた。
どこか虚ろな顔をして外を眺めている。
どんな表情でどんな場所にいても、カイラシュは絵になった。ひとたび口を開くだけで全部台なしになるが。
「サヴィトリ様」
サヴィトリの姿に気付き、カイラシュは慌てて笑みを作る。
いつもとは少し様子が違うようだった。どこが、とは具体的に言えないが、確実に何かが違う。
「まだ御髪が濡れていますよ」
言われて自分の髪を見ると、毛先に水の珠ができていた。首にかけたタオルでこするようにふく。
「もっと優しくふかないと」
カイラシュは困ったように笑い、サヴィトリからタオルを取りあげた。タオルで髪をはさむようにして水分を吸いとらせる。
サヴィトリはされるがままにし、じっとカイラシュを見つめた。
端正な顔の上には一分の隙もなく化粧が施されている。口紅だけ、いつもより少し赤味が強かった。
「水にでもつかっておられたのですか? 髪も肌も、とても冷えております」
カイラシュの指がサヴィトリの髪と頬を撫でおろす。
親しげに話し、触れるのに、視線はいっさい合わせてこない。
「カイの手のほうが冷たい」
頬から離れる前に、サヴィトリは自分の手でカイラシュの手を押さえた。
血が通っていないのではと心配になるくらい冷たい手。
「濡れ髪のサヴィトリ様にそのようなことを言われますと、いつもよりハァハァしてしまいます」
カイラシュはやんわりと手を引き抜き、頬を赤く染めてみせた。
「もし、くだらない冗談を言いにきただけなら、カイとは一生、口をきかない」
サヴィトリはできるだけ不機嫌な顔と声音を作る。
カイラシュは眉根を寄せてしゅんとし、うかがうようにサヴィトリの顔色を見た。
サヴィトリの名誉のためなら殺人や破壊をも厭わない補佐官のカイラシュ。
思春期の女の子以上に、サヴィトリの一挙手一投足に喜憂するカイラシュ。
一体、どれが本当のカイラシュなのか。
「私に何か話があったから、わざわざ浴室まで来たのだろう。それに、いつもよりおとなしいし、どうかしたのか?」
カイラシュが元気がないと、こちらの調子まで狂ってしまう。最初は鬱陶しいだけだったはずなのに。
「ただただ、不甲斐ないと……」
カイラシュは目蓋を伏せ、うめくように答えた。
「サヴィトリ様がさらわれるのをみすみす見過ごしてしまったことも、強欲村長のことも、わたくしは、何もお役に立てず……それどころか、ラトリ様の生まれた地を一時の激情で壊そうとさえ……」
カイラシュは頭を抱え、その場にうずくまってしまった。
サヴィトリにはどうしていいかわからない。
「そんな、カイが気にすることじゃない」
村長に対してあのような行為に及んでしまったのはサヴィトリを思ってのことだろう。感謝こそすれ、不甲斐ないなどと思うはずがない。
「気にさせてください」
サヴィトリのフォローも虚しく、カイラシュは拗ねたように言い、膝を抱えこんでしまう。
(まったく、人を好き勝手崇めるくせに、手のかかる補佐官だ)
「ならば独りで気にしていろ」
サヴィトリはわざと突き放すことにした。
自分に対する依存度が、カイラシュは少し高すぎるように思える。
何かあるたび、このように思い詰められてはやっていられない。カイラシュにはもっと大雑把、タフになってもらわないと。
「そんな姿を私に見せるな」
サヴィトリは冷たくカイラシュを見下ろす。
「手厳しいですね」
カイラシュは恨めしそうな視線を投げてきた。慰めてほしかったのかもしれない。
「前にも言ったかもしれないが、カイは補佐官だろう。タイクーンを、私を支えるお前がそんなことでどうする。共倒れでもするつもりか」
「……それもいいかもしれません」
カイラシュの投げやりな呟きに、サヴィトリは頭の中で何かがぷつりと切れるのを感じた。
次の瞬間、サヴィトリはカイラシュの胸倉をつかみあげていた。
「そんな生半な態度、私は許さない。その程度の心持ちで、私をタイクーンにと望んだのか! 最終的にタイクーンになることを決めたのは私自身だし、カイに当たるのは筋違いかもしれない。けれど、足手まといならばいらない。自分の足で立て。倒れた時は、ちゃんと助けるから」
サヴィトリが手を離すと、カイラシュはたたらを踏んだが、しっかりと立ちあがった。
「申し訳ありません、サヴィトリ様。近頃、わたくしは醜態を晒してばかりですね」
カイラシュは恥ずかしそうに微笑むと、深く腰をかがめた。
「月並みな台詞だけど、全部が完璧な人間なんていないよ。私のほうこそ、きつい物言いをしてしまってすまない」
サヴィトリも頭を下げる。
もっと雄弁だったなら、他に適切な言い方ができたかもしれない。
「あと遅くなったけれど、心配をかけてしまってすまない。でも、心配をしてくれてありがとう」
サヴィトリはカイラシュの身体に腕をまわし、しっかりと抱きしめた。いつもの柑橘系の香りがする。
抱きしめられたことは何度もあれど、こうして自分からしたのは初めてかもしれない。
硬い胸板や意外と広い背中は、やはり男の人という感じがする。意識すると少し恥ずかしくなってきたが、悔しいのでカイラシュに悟らせたくない。
「何気に、飴と鞭の使い方がうまいですよね」
ため息混じりにカイラシュが呟いたのが聞こえる。
「?」
カイラシュの顔を見上げると、ただ困ったように見返された。
「……少し、頭を冷やしてまいります」
やんわりとサヴィトリの身体を押して離れると、カイラシュは何かに急かされるように部屋を出て行ってしまった。




