4-1 気がつけば洞窟
左の頬に触れるやや湿った冷たさと、鼻の奥につんとくるすえたような臭い。
決して気分が良いとは言えない目覚めに、サヴィトリは仕方なく目蓋を持ちあげた。
まず目に入ったのは壁から生えるいくつもの透明の原石だった。形状は水晶に似ており、それ自体が青白く発光している。そのおかげで、サヴィトリが転がされている洞窟と思しき場所は、昼間に相当するほど明るい。
サヴィトリは頬についた土をぬぐい、ゆっくりと立ちあがる。
通路は比較的広い。三、四人なら並んで歩ける。高さはサヴィトリがジャンプをして手を伸ばせば届きそうなくらいだった。前後どちらを見ても、延々と分岐のない通路が続いている。
(蛇神の生贄がどうのってニラが言っていたな。それにしては私《生贄》の扱いが雑じゃないか? 色々ひっくるめて、あとで村長とニルニラをボコボコにしよう)
サヴィトリは腹を据え、意識せずむいた方向に歩き始めた。
意味なく腿を高くあげて歩いてみたり、スキップしてみたり、思いつくままに鼻歌を歌ってみたりと、単調な一本道をどうにかこうにか進んでいくと、突然視界がひらけた。
洞窟特有の閉塞感が消え失せ、サヴィトリは思わずほうと息をつく。
綺麗な半円にくり抜かれた空間だった。続く通路のない行き止まりだったが奥に立札と泉が見えた。泳げるほど広くはないが三、四人が同時につかれるくらいだ。
怪しげなオブジェクトに目がないサヴィトリは、一も二もなくそれに近寄る。
『はじまりの泉はこちら→
ご用の方は泉の前でしばしお待ちください』
と立札には書いてあった。
(はじまりの泉……ヴァルナでは解呪の泉のことをそう呼んでいるらしかったな。これといって誰にもご用はないから、さっさと呪いを解いて戻ろう)
解呪の泉の使い方を知らないサヴィトリは、考えなしに左手を泉にひたしてみる。
すると正解だったらしく、腕に絡みついていた棘が急速に萎れていき、ものの数秒で跡形もなく消え去った。
(神々しく光り輝いたり、盛大な効果音が鳴り響いたりするわけじゃないんだな)
あまりにあっさりとした解呪に、サヴィトリは一抹の寂しさを覚える。
が、用事がすんだ場所に長居をしている必要もない。
泉から手を引き抜き、手を振って軽く雫を落とした。
その時、サヴィトリはようやく気付く。
自分の指からターコイズの指輪が抜け落ち、緩やかに泉に沈みつつあることを。
慌てて泉に手を突っこむが、指輪にかすりもしない。
泉は想像以上に深く、指輪はあっという間に見えなくなった。
せっかく棘の呪いが解けたのにターコイズの指輪を失っては、プラスマイナスゼロどころかマイナスのほうにかたむく。
サヴィトリが飛びこむ決意を固めていると、水面がぶくぶくと泡立った。
次の瞬間、泉から何かが現れる。
それを見た時、サヴィトリの脳裏に羽化したばかりの蝉が浮かんだ。
見る角度によって微妙に色味が変わる、青みがかったような緑がかったような、何色とも限定しがたい透きとおった髪と瞳。
人の形こそしているが、人とは異質な何かであるとサヴィトリは本能的に察する。
「――あなたが落としたのはこの銀の指輪ですか? それともこちらの金の指輪ですか? あるいはこんなプラチナの指輪ですか?」
泉から出てきたものはフレンドリーな笑顔を浮かべ、サヴィトリに手のひらを見せるように両手を差し出した。
右手に銀と金の指輪、左手にはプラチナの指輪が乗せられている。
手を差し出されたのとほぼ同時に、サヴィトリは全部の指輪をかすめ取った。
間髪を入れずに、足元に転がっていた原石の塊を相手の顔面にむかって投げつける。
人ならざる雰囲気から、こいつが蛇神なのだとサヴィトリは断じた。もし通りすがりの人の良い泉の精だったら、全力で土下座しよう。
原石の塊は吸い寄せられるように顔面にめり込み、蛇神?はそのまま仰向けに倒れこんだ。派手に飛沫が上がり、ぷかぷかと水面に浮かぶ無残な姿を晒す。
相手に攻撃が当たったのを確認すると、サヴィトリはすぐに奪った指輪を確かめた。どれも貴石のはまっていないシンプルな指輪だった。
「私の指輪を返せ!」
胸倉をつかんで蛇神?を泉から引きずり出し、サヴィトリは鼓膜に突き刺さるような怒鳴り声をあげる。
「……ああ、痛い……」
うめくようなか細い声を発し、蛇神?はゆらりと立ちあがった。不思議な色合いの瞳でサヴィトリをじっと見つめる。
「陽光の髪に新緑の瞳――僕の花嫁であるあなたに、こんな指輪は必要ありません」
蛇神?が手のひらを上にして腕を軽く持ちあげると、人の頭ほどの大きさの水球が現れた。その中心に、ターコイズの指輪が閉じこめられている。
サヴィトリはほとんど反射的に水球に取りついたが、突き飛ばされたような強さで弾かれた。
蛇神?が動いた様子はない。
「危ないので不用意に触らないほうがいいですよ。あと、よかったら名前を教えてもらえませんか、花嫁。ちなみに僕はアイゼンといいます。約四十年ほど、ヴァルナの守り神として生活している蛇の化生です」
蛇神――アイゼンは礼儀正しく頭を下げ、サヴィトリに微笑みかけた。
(土下座はしなくてもよさそうだな)
くだらないことを考えつつ、サヴィトリはアイゼンと水球とに視線をむける。
間違いなくあの水球はアイゼンが作り出したものだろう。だとすれば、アイゼンを倒すか、アイゼン自身に解除してもらわなければならない。
交渉だけで事がすむならいいが、すでにがっつり相手に危害を加えてしまっている。もっとも、アイゼンはそれほど気にしていないようだが。
サヴィトリのことを見るなり「花嫁」呼ばわりしたのも気にかかる。頭がいかれているに違いない。
「……私はサヴィトリという。取り乱して見知らぬ人に原石を全力で投げつけてしまうほど、私にとってその指輪は大切なものなんだ。無礼を承知で言うが、お願いだからそれを返してほしい」
サヴィトリはできる限り低姿勢で頼んでみた。あくまで、サヴィトリができる最大限の、だ。
「いいですよ」
想像していたよりも遥かにあっさりと、アイゼンは首を縦に振った。
サヴィトリの顔が綻びかけたが、次に続いた言葉のせいで、目と眉とがつり上がる。
「その代わり、僕の子供を生んでください」
返事の代わりにサヴィトリは上段まわし蹴りを放った。
死神の大鎌を思わせる蹴りは正確に首をとらえ、女の力ではありえないほどアイゼンを吹き飛ばす。
「すみません、間違えました。僕の卵を生んでください」
首がありえない方向にかたむいたアイゼンは慌てて訂正する。
更に、かたむきを修正するように逆側に蹴りを叩きこんだ。
「どうしてそんなに怒るんですか!? 妊娠期間は人間よりも短いし逆子の心配もないんですよ!」
「卵の利点などどうでもいい! なぜお前の卵を生まなければならないんだ! 私は忙しい。他を当たれ!」
「他じゃダメなんです! 色々ヴァルナ族の女性にお手伝いいただいたのですが、金髪緑眼を備えたヴァルナ族との、両者の同意の上での交尾じゃなきゃちゃんと受精しないんです! 本当なら二十年でお役御免のはずが、戦争のせいで花嫁候補がほとんどいなくなっちゃって、通常の倍近くもこんな陰気な所でヴァルナの土壌を守ってたんですよ! 僕は早く世代交代して外界に遊びに行きたいんです!」
「お前の都合など知るか! それに私はヴァルナ族ではない! さっさと指輪を返せ! もう帰る!」
「交尾してくれるまで帰しません!」
アイゼンはサヴィトリの腰にしがみついた。蹴っても叩いても殴っても離れようとしない。
「……ああ、そう」
サヴィトリはこれみよがしにため息をつき、アイゼンの顔に両手を添えた。
「ならばお前の屍を越えて行くまでだ!」




