2-12 交わるのは眼差しと
(他人様の家のトイレはどうも落ち着かないな。宿屋なら気にならないんだけど)
夜気に当たったせいか、出すものを出してすっきりしたせいか、かえって目が冴えてしまう。
部屋に戻っても、また寝返りを打ち続けるだけのような気がし、サヴィトリは足がむくままに任せた。
室内はしんと静まり返っており、床板のきしむ微かな音だけがいやに響く。自分以外誰もいないのではないかという錯覚に陥りそうになる。
それからしばらくたってからだったのか、ほんの数十秒後のことだったのか。
サヴィトリには正確にはわからないが、ふと誰かの部屋のドアの隙間から明かりが漏れているのが目に留まった。
サヴィトリはなんとはなしにそのドアに近付き、そっと中の様子をうかがう。
次の瞬間、強く冷たい光がサヴィトリの眼前を横切った。理解するよりも先に、身体の中心が冷えるような感覚に襲われ、サヴィトリはその場にぺたんと座りこんでしまう。
ドアの隙間から光のような速さで出てきたのは、一点の曇りもなく磨きあげられた刀身だった。
「……やはりお前か」
落ち着き払った低音と共に刀が鞘に納められる音が聞こえる。
「何が『やはり』だ、いきなり刀を突きつけておいて! わかっていたなら普通はそんなことしないだろう!」
まだ立つことのできないサヴィトリは怒鳴り声をあげ、刀の持ち主をきつくにらみつけた。
「いや、お前でなければ扉ごと突き刺していた」
「アホなのかお前は! しかもしれっと真顔で言うな! 冗談か本気かわからないだろう、ヴィクラム!」
「俺はいつでも本気だ」
真顔を崩さぬままヴィクラムは答え、腕を引っぱってサヴィトリを立ちあがらせた。
なぜかそのまま引き寄せ、サヴィトリは部屋の中に連れこまれる。
「ヴィクラム?」
「補佐官殿に見られると面倒だ」
ヴィクラムの端的な応えに、サヴィトリの脳はすぐさま地獄絵図を想像した。
うっかりこの場面を見られでもしたら、間違いなくカイラシュは発狂し、静寂の夜は微塵に破壊しつくされる。
「カイはどうしてああなんだろうな」
サヴィトリはため息混じりに呟く。
出会った時から過剰に好意的だとは思ったが、今では常軌を逸するレベルだ。
「よほどお前のことを好いているのだろう」
部屋に備え付けの丸テーブルの上の酒瓶を片付けながら、ヴィクラムは薄く笑った。村長の家にはいくつもの客室があり、サヴィトリが使わせてもらっている部屋とほぼ大差ない。
どうやらヴィクラムは寝酒を飲んでいたらしい。寝酒とは思えないほどの数の酒瓶があるが。
「たかだか好き嫌いで、あそこまでの爆発力を出せるものなのか?」
サヴィトリは椅子に座り、頬杖をついた。
たとえばサヴィトリ自身が誰かを好きになった時、その好きになった人物が自分以外の女性と親しくしていたら、あまり気分の良いものではないかもしれない。だからといって、相手の女性を排除しようとは思わない。
カイラシュは排除を全力かつ躊躇いなしにおこなう。誰もが踏みとどまる断崖絶壁の縁で、全力疾走した上に大きく飛びあがるような感じだ。まねできないし、まねしたくもない。
「人それぞれ、としか言いようがない。俺には、無理だろうな」
ヴィクラムはテーブルの上に新たな酒瓶を何本か置いた。
サヴィトリとむかい合うように椅子に座り、ろくにラベルも見ずに蓋を開けて酒をグラスに注いだ。
水のように透明な液体だ。ほのかに甘く、鼻の奥につんとくる匂いがする。
「ああ、飲むか?」
サヴィトリがじっと見ているのを勘違いしたのか、ヴィクラムはグラスを差し出した。
「ちなみにつまみもある」
干し肉やするめ、木の実の詰め合わせ、一口サイズのチーズなど、ヴィクラムの荷物から色々な塩辛い食べ物が出てくる。
「……遠足じゃないんだけれど」
「魔物討伐に行く時はいつも酒とつまみを持参している。今回は少ないほうだ」
ヴィクラムは干し肉をかじりながら真面目な表情で答える。
サヴィトリは喉から出かかったツッコミを息を吐いてまぎらわせ、テーブルの上の酒瓶に目をむけた。多少飲めば寝付きがよくなるかもしれない。だが種類による違いがよくわからなかった。
「どれが飲みやすい?」
サヴィトリは尋ね、一口チーズを口の中に放りこむ。
「お前の好みはわからんが、飲みやすいのは果実酒だろう。……いまさらだが、お前は十六歳以上か?」
偽りを許さない瞳で、ヴィクラムはサヴィトリを見据えた。
ヴィクラムの口ぶりから察するに、クベラで飲酒が認められるのは十六歳以上のようだ。国によって多少の差異があるらしい。トゥーリの町では十五歳から酒が飲めた。
「もちろんそうだ。というか、ヴィクラムは私のことをいくつだと思っているんだ?」
「身体は未就学児」
「くたばれ」
サヴィトリは大量のするめをヴィクラムの口に突っこんだ。
「あにおふる(何をする)」
「私が言うのもなんだが、するめを咥えたまま喋るな」
「もっふぁいらい(もったいない)」
「ひょっとして私を馬鹿にしているのか?」
「おえあぅぇうれふぉおんくぉりゃ(俺はいつでも本気だ)」
「……ごめん、この件に関しては私が悪かった。食べ終わってから喋ってくれ」
サヴィトリは頭を抱えた。
真面目なアホほど扱いづらいものはない。
(黙ってる時と戦ってる時は、まぁ格好良いんだけどな)
サヴィトリは他にすることもないので、真摯にするめを咀嚼するヴィクラムを観察する。
一行の中で、ヴィクラムは一番「男の人」という感じがする。
カイラシュは女装をしているし頭もおかしいので論外。ジェイはどこか胡散くさくて頼り甲斐がない。ナーレンダにいたっては現状ただのカエルだ。元の姿に戻れば違うのかもしれないが。
「他人の顔をながめるのは面白いか?」
いつの間にかに大量のするめを食べきったヴィクラムが見つめ返してきた。
「え、ああ、ごめん。じろじろ見られていては、あまり良い気分はしないよな」
サヴィトリは慌てて視線をはずす。
「いや」
ヴィクラムはほんの少し口角を上げ、グラスに口をつけた。
「お前になら、悪くない」
ヴィクラムは勢いをつけるようにグラスの酒を一気に飲みほし、サヴィトリの顔に手を伸ばした。頬に手を添え、自分の方をむかせる。
「……ご、ごめんちょっと意味がわからない」
頬に触れる慣れない感触と真正面にある射抜くような藍色の瞳に、サヴィトリはたじろがずにいられない。
「俺にも、どうしてこんなことをしているのかわからない」
言いながら、ヴィクラムはサヴィトリの顔を両手ではさみ込んだ。
「っ、おい! 慣れない冗談はやめないか!」
これがカイラシュであったなら問答無用で吹っ飛ばしているが、ヴィクラムだとなんとなく気おくれしてしまう。
「俺はいつでも本気だ」
ヴィクラムが動いた際に、テーブルの上の酒瓶がいくつか倒れる。その心臓に悪い音が余計にサヴィトリを追いこむ。
「サヴィトリ」
普段からは想像もつかないほど甘い声音で名前を呼ぶ。
ただ名前を呼ばれただけなのに、サヴィトリは身体中にむずがゆさが走るのを感じた。思わず、熱っぽい吐息が漏れる。
(あああああっ、ちょっとトイレに行こうと思っただけなのにどうしてこうなった!? ぼんやりしてないで顔面を殴り抜け右手!)
サヴィトリの思考回路がついにショートし始めた。そのせいなのか脳の命令がうまく身体に伝わらない。壊れてしまったように心臓がうるさく鳴り、頬が熱く赤くなっていっているのが自分でもわかる。
「……ヴィクラムは、好きでもない相手にこんなことするのか?」
(何を言っているんだ私! 殴れどつけ今すぐ鉄拳!!)
ヴィクラムは答えの代わりにふわりと優しく微笑んでみせ、ゆっくりと顔を近付けた――わけではなく、支えを失ったようにヴィクラムの頭が垂直に落下した。
「は?」
額と額とがぶつかり、サヴィトリは硬い石でも当たったのかと思うほどの痛みと衝撃に襲われる。
「~~~~~~っ!!」
痛みで涙目になったサヴィトリは声にならない悲鳴をあげ、ヴィクラムをにらみつけた。
ヴィクラムの頭はぶつかった後もそのままずるずると下降し、サヴィトリの膝の上で止まった。はたから見れば膝枕をしているような形になる。
「俺は……いつ、でも……ほ、ん……」
ヴィクラムは何かうわごとを言っている。
そういえば、さっきから無闇に「俺はいつでも本気だ」と繰り返し言っていた。
(これは、もしかすると、いわゆるアレなのか? ……ただの、酔っ払い)
サヴィトリは重い頭を抱え、もう片方の手でヴィクラムの額を軽くはたく。
何度やってもヴィクラムの反応はない。
しばらくすると、規則的な寝息が聞こえてきた。
(ヴィクラムは酔うとああなるのか。顔色は全然変わらないし、一見言動もまともだが……今度から近付かないようにしよう)
サヴィトリはどっと疲れに襲われ、深く大きなため息をついた。
「……ほんの少しだけ、どきっとしたじゃないか、馬鹿ラム」
サヴィトリは恨みがましく呟き、安らかな顔で眠るヴィクラムの額を爪で弾いた。




