2-11 時の空白、心の空虚
(……眠れない)
サヴィトリは負けを認め、無理に閉じていた目蓋を開いた。
どちらかといえば寝付きは良いほうだ。だが今夜は、毛布を頭までかぶってごろごろしても眠りに落ちることができない。単純に寝るのにはまだいくらか早い時間だというものあるが。
(明日は魔物討伐だし、ちゃんと寝ておかないと響くしなぁ)
サヴィトリは小さくため息をつき、打開策を考える。
まっ先に思い浮かんだのは、羊。あまりに古典的な方法だった。
(古式ゆかしく羊なんか数えても余計に目が冴える気がするけど、他に良い方法も思いつかないし……)
サヴィトリは目蓋を閉じ、羊を思い浮かべる。
もこもこの毛に、ぐるぐる螺旋の角。めえめえ間延びした鳴き声。
(羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹、羊が四匹――)
***中略***
(――羊が七三一匹、羊が七三二匹、羊が七三三匹……あー、ようやく眠くなってきたかも。なんだか、身体が重く……)
不意に、サヴィトリの頭の中に疑問符が浮かぶ。
重いは重いでも、今感じているのは押しつぶされるような重さ。眠りに落ちる寸前特有の、身体から力が抜け、自分の手足自体が重く感じるのとは違う。
(重い……なんで……?)
サヴィトリは原因を探ろうと、ベッドサイドのランプに右手を伸ばす。
とりあえず明かりをつけないことには何も見えない。
手探りでランプを探していると、自分のものよりも大きな手に絡みつかれた。そのまま強い力をかけられ、ベッドに手を押さえつけられる。
ここでようやくサヴィトリは理解した。
自分は今、誰かに組み伏せられている。こいつを排除しなければ、ゆっくり眠れない。
サヴィトリは臨戦態勢に入る。
非常に不利な状態だが、これくらい切り抜けられないでどうするか。
押さえつけられた手にサヴィトリが力をこめるのとほぼ同時に、ランプに明かりが灯った。
決して強い光ではなかったが、突然のことにサヴィトリの目がくらむ。幾本もの柔らかい針を刺されたように目が痛み、サヴィトリはたまらず顔をしかめた。
夜陰に乗じて襲撃してきたのなら、相手の目は夜の闇に慣れているはず。わざわざあかりをつける必要などない。
(何がしたいんだこいつは?)
その疑問に答えるように、ふわりとサヴィトリの鼻先を香りがかすめた。
サヴィトリは思わず顔を引きつらせる。
柑橘系ベースの、爽やかで微かな甘さを孕んだこの香りには、嫌というほど心当たりがあった。
「夜這いに参りました、サヴィトリ様」
真夜中の襲撃者は吐息たっぷりに囁き、長い指でサヴィトリの頬を撫でおろした。
サヴィトリの中で、極めて重要な何かがぷちっと切れる。
「……このド阿呆がああああああっ!!!!」
サヴィトリは全力で相手の顔面を殴り抜いた。
相手が怯み、右手の拘束が緩む。
サヴィトリはすかさず絡められた手を振り払い、ラッシュをかける。
「ちょ、あの、サヴィトリ様、わたくしですって……」
「お前だとわかっているから殺す気で殴っているんだ、カイラシュ!」
サヴィトリはとどめとばかりに、組んだ両手をハンマーのようにカイラシュの脳天に振りおろす。いっそ気持ちいいくらいにきまり、カイラシュは床に倒れたきり動かなくなった。
サヴィトリは肩で息をし、額にふき出した汗をぬぐう。
とりあえずカイラシュはこのまま放っておいても問題ないだろう。下手に近付いて足をすくわれてもことだ。
「はぁはぁ……夜も激しいんですね、サヴィトリ様」
しばらくして、カイラシュがゆらりと起きあがった。
外傷はまったくない。いつものことながら凄まじい回復力だ。いや、そもそもダメージを与えられていないのかもしれない。
「前歯をへし折るつもりで殴ったんだけどな」
「容赦ありませんね」
「正当防衛だ」
「いいえ過剰防衛です」
「死んでいないのだから問題はないだろう。それより、カイは何をしに来たんだ?」
「あぁん、サヴィトリ様。ですからぁ、『夜這いに参りました』って言ったじゃありませんか」
もじもじと恥ずかしそうに答える姿に腹が立ち、サヴィトリはカイラシュの鳩尾にすりつけるような蹴りを入れた。
「警察に突き出されたいのか?」
「サヴィトリ様になら喜んで手錠をかけられたいです。縄でぐるぐる巻きにしてくださってもいいですよ」
「……そろそろちゃんと答えないと、一生カイのことを無視する」
「!!!!!!!!!!!! 放置プレイはともかく無視はやめてくださいしんでしまいます!」
(殴る蹴るの暴行はいいのに無視はダメなのか)
サヴィトリはこっそりと今の情報をカイラシュ対策メモに刻んだ。
「実はですね、わたくしずっとこの部屋の天井に潜んでおりました」
「はいアウト」
「最後まで話を聞いてください!」
「これ以上何を聞けと……」
「サヴィトリ様がなかなか寝付けないご様子だったので、運動でもすればぐっすりすこやかに眠れるのではないかと思い、わたくし、微力ながらそのお手伝いをしようと、当初の予定どおり夜這うことにした次第です」
「最初から押し倒す気満々じゃないかお前は!」
「はいそうです」
「開き直るな!」
サヴィトリは拳を振りあげたくなるのを懸命にこらえた。
無視が最も有効な手段だとわかっていても、ぶん殴ってやりたい衝動がこみ上げてくる。
「……共にいられるはずだった十数年を取り戻したい、そう思うのは、わたくしのわがままでしょうか」
急にカイラシュの声のトーンが変わった。
「どういう、こと?」
一応、サヴィトリは尋ねてみた。
サヴィトリの気を引くためのフェイク、という可能性も捨てきれない。
「もしもあの時、高官どもの蛮行を止められていたのならば、ずっとおそばにいられたはずでした。サヴィトリ様を失ってからの時は、わたくしにとって空白です。色のない時間の中、わたくしはただ、サヴィトリ様に再びまみえることだけを願っておりました。この空白を埋められるのは、サヴィトリ様だけ……」
カイラシュはすがるような瞳でサヴィトリを見つめ、自然な動作で抱きしめる。
それがあまりに当然の行為に思え、サヴィトリには抵抗する気が起きなかった。
もしも自分が災厄の子でなく、タイクーンの娘としてクベラで育っていたなら――今まで考えてもみなかったことだ。
すでに起こってしまったことに対する「もしも」は、意味のないことだとサヴィトリは思う。それに、クリシュナやナーレンダと出会っていない自分など考えられない。
「――ま、ようするにですね、手っ取り早く空白を埋めるにはねっとりと肌を重ね、男女の情愛を深めるのが一番ってことです、はい」
サヴィトリがぼんやり物思いにふけっているうちに、カイラシュはサヴィトリの服を脱がしにかかっていた。
「さ、サヴィトリ様。不肖このカイラシュ、全身を使って誠心誠意ご奉仕いたしますので――」
「あの世で性根を入れ替えてこい!」
サヴィトリはカイラシュの胸倉をつかみ、ひと思いに投げ飛ばした。
ほんの一時でも、ぐらついてしまった自分が情けない。
「つれないですね、サヴィトリ様。ですがそういう素直じゃないところもお慕いしておりますよ」
受け身を取ったカイラシュは微笑み、片目をつむってみせた。
「では、そろそろ失礼いたしますね。体調と美容のためにも、あまり夜更かしはされませぬよう。ですがどうしても寝付けない場合はお呼びください。責任と下心とをもって添い寝させていただきます」
「結構だ!」
サヴィトリは渾身のオーバースローで枕を投げるが、カイラシュがドアに滑りこむほうが早かった。
「おやすみなさい、サヴィトリ様」
完全にドアが閉まるのと、サヴィトリが大きく息を吐いたのはほぼ同時だった。
カイラシュのおかげで完全に目が冴えてしまった。もちろん、カイラシュに添い寝を頼むつもりは微塵もない。
(……とりあえずトイレ行こ)
サヴィトリは乱れた髪を手ぐしで整え、部屋を出た。




