雨の傘
深夜、雨が降り始めていた。雨足はそれほどでもなかったが、古いハイツの屋根に当たる雨の音は、部屋の中に響いていた。
「ん……………」
203号室に住む、貧乏ライターの男は、ちゃぶ台に突っ伏したまま眠りに落ちていたが、響く雨音で目を覚ました。
「あれ… 寝ちゃったか……」
目をこすり、あくびをした男は、畳にあぐらをかいたまま手を伸ばし、窓を半分ほど開けた。雨に打てれて冷えた空気は、部屋の中へ静かに入ってきて、寝汗をかいていた男には、とても心地よかった。
「まぁまぁ降ってるなぁ」
雨の遠く向こうには、濡れたネオンの街が見え、眼下には、駅へと続く下り坂が見えた。朝には会社員や学生が行き交う坂道も、今は雨水がつたっていくばかりだった。
「さてと」
男が視線をちゃぶ台に戻そうとしたそのとき、坂を少し下ったところの十字路で、何かが動いているのが男には見えた。
夜に雨ということもあって、それが黒い傘を差した人だと気づくまでに少しの時間を要した。また、二階から見下ろしているため、傘が邪魔で人の姿が確認できなかったことも理由の一つだった。
「あぁ、傘か……」
正体を知ることができた男は、原稿の続きを書きはじめた。すると、雨音に交じって靴音が聞こえてきた。男は「さっきの傘の人か」と気にしなかった。だが、いやに鮮明な靴音は次第に大きくなってくる。
コツ……… コツ………
ゆっくり、ゆっくりと近づいてくる靴音。書く手を止めて、聞き入ってしまっていた男は、そのあまりに遅い足取りが気になり、窓から坂道を覗き込んでみた。すると、先ほどの黒い傘が坂道を上ってくるのが見えた。靴音と共に近づいてくる黒い傘は、ハイツの向かいにある街灯の下までくると、急に立ち止まった。
雨を吸い、街灯の光で濡羽色に光る傘だったが、男にはどうにも気味の悪い色にしか映らなかった。微動だせず、雨に打たれ続ける傘を、男が見続けるか否かと迷っていると、突然に傘は動き出し、来た道を戻り始めた
コツ……… コツ………
妙に感覚のあいた靴音をたてながら行く黒い傘は、十字路を右に曲がり消えていった。
結局、それだけのことだった。が、そのことに、もっともらしい理由付けが出来ず、傘と靴音に違和感を覚えた男にとっては、ただただ不気味な出来事だった。
それからの数日間は晴れの日が続き、夜には都会らしい申しわけ程度の星が見えて、男は黒い傘の事などすっかり忘れていた。また、書き上げた原稿の評価も上々で、出版社からの帰りに、ライターの仲間たちと一杯ひっかけ、男はほろ酔いでハイツへと帰ってきた。自分の部屋に続いている外の階段を、ご機嫌なままにリズムよく上がっていく男は、部屋に入ると酔いにまかせて寝てしまった。
男が寝入ってから数時間後の深夜、雨が降り始めていた。相変わらずの雨音は、男の部屋のなかで水琴窟のように響き、窓や金属製の手すりに当たる雨粒は、特にそう聞こえた。
「ん…………」
気持ちよく寝ていた男は目を覚ました。じとっと掻いた寝汗に、男はデジャブを感じながらも、冷えた心地よい空気を求めて窓を開けた。だが、窓から入ってきた空気は心地よいものではなかった。
「なっ……」
鋭く冷えた空気は重く、部屋に入ってくるなり男の足元にまとわりついた。皮膚にヒリヒリと痛みを感じさせるほどの冷気に、男の酔いと眠気は完全に覚めた。どうなっているんだと、自分の足元を見つめる男の耳に、また聞こえてきた。
コツ……… コツ………
まさかと思い、男が開けた窓から十字路の方を覗くと、あの黒い傘が坂を上ってきていた。妙な靴音をたてながら坂を上る傘は、またしても街灯の下で立ち止まった。そして、いくらかの時間が経ち、傘が来た道の方へ動き出した瞬間、男は自分の目を疑った。
傘は進行方向と逆向きに動き出したのにも関わらず、回転していなかった。つまり、振り返っていなかったのだ。さらに、坂道だというのに、一切の上下運動もみせず、なめらかに坂を下っていく傘。もちろん、あの靴音をたてながら。
「…………………」
十字路を右に曲がっていった傘に、言葉を失い立ち尽くす男。自分が見間違えたのか、酒が残っているせいでそう見えたのか。男は「それとも…」という考えを強引にしまい込むと、窓を閉め、部屋中の鍵を確認してから、薄手の肌掛け布団の中にくるまった。
朝早く、男は目が覚めた。というよりは、黒い傘のせいでろくに眠ることができなかった。寝不足でダルい体のまま、布団で横になっている男の目に、台所わきのゴミ袋が映った。
「ったく、面倒くせぇなぁ…」
今日は週最後のゴミの日。今日を逃すと二日間もゴミ袋と過ごさねばならなくなる。舌打ちをした男は立ち上がると、ゴミ袋を片手に部屋を出た。
サンダル姿で階段を下りていった男がゴミ捨て場に着くと、同じハイツの201号室に住むお婆さんの姿があった。たまにお手製の美味しい煮物を分けてくれる優しいお婆さんに、男の方から話しかけた。
「おはようございます」
「あら、おはよう」
「この間はご馳走様でした。美味しかったです」
「本当? それなら良かったわ。あ、ネット持っててあげるから…」
お婆さんはカラス除けのネットを、男の為に持ち上げた。
「あっ、どうも、ありがとうございます。それにしても…」
「なにかしら?」
「昨日の夜の雨はすごく冷えましたね、結構な量でしたし」
「昨日? 昨日の夜は雨は降ってないわよ?」
「えっ?」
「歳で夜中に目が覚めちゃうんだけどね、昨日は降ってなかったわよ。窓を開けてちょっとの間、外の景色を見てたから確かよ」
「……………」
驚いた表情を見せる男に、お婆さんは続けた。
「それに、昨日の夜に降ったなら、まだ地面が濡れてるはずでしょう?」
お婆さんの言う通り、道や家の外壁は濡れていなかった。
「そう…… ですよね… 昨日は酔った状態で寝ちゃったんで、もしかしたら寝ぼけてたのかもしれません」
「あら、酔ってたの。あれよ、若いからって飲みすぎちゃダメよ?」
「はい、気をつけます…」
「まぁ、私も若い頃は飲みすぎてたけどねぇ」
そう微笑んだお婆さんはゴミ捨て場を後にした。男はお婆さんの後ろ姿を見ながら、自分自身を納得させていた。夜に見たあの出来事は夢で、数日前にたまたま見た黒い傘が無意識のうちに残り、疲れと酒が思い出せさせたのだろうと。
その後、取材の予定がある男は、準備を済ませて出かけていった。夕方には戻って来られると思っていたが、取材は予定より長引き、駅に着いた時には夜になっていた。仕方なく立ち食いそばで夕食を簡単に済ませた男は、疲れた体を引きずるようにして歩き、自分の部屋にたどり着いた。
シャワーを浴びてサッパリした男は、冷蔵庫にあるビールに手を伸ばしたが、昨日のことを考えて、作り置きの麦茶を取り出した。少し濃く煮出してしまった麦茶を飲みながら、今日の取材で得た情報をまとめる男。そろそろ一服と、クシャっと潰れた煙草の箱を手に取ったが中は空。男は舌打ちをして箱を丸めると、ゴミ箱めがけて放り投げた。ゴミ箱のふちに当たり、畳に転がった箱を見ながら、男は立ち上がった。
「ったく、面倒くせぇことが続くな。つーか、なんで帰りに気づかなかったんだ俺は」
サンダルを履いて部屋を出た男は、またしても舌打ちをした。
「さっきまで降ってなかったろうが」
いつの間にか雨が降り出していた。男は玄関脇の傘立てから、使い古した深緑色の傘を取り出し、階段を下りていく。そして、階段を下りきったところで傘を広げた男は嫌になってしまった。傘の骨の一本が折れていたのである。
「もういい、なーんも気にしない」
何も気にしなかったおかげか、男はすぐにコンビニに着いた。が、その矢先、コンビニの店先で可笑しな光景を目の当たりにした。五・六人の不良たちが雨に打たれながら、たむろして地面に座っているのである。バカかコイツら、そんな目で不良たちを見ていると、不良たちはガンをつけてくるどころか、男から目をそらした。
「訳の分かんねぇ奴らだなぁ…」
男は傘を傘立てへ差し、店内に入っていった。そしてすぐにレジにいる店員に話しかけた。
「すみません、89番二つもらえますか?」
不思議そうに男と外の様子を見る店員は、ハッと我に返った。
「あ、はい、89番を二つ…」
店員は慌てて煙草を取ると、男に銘柄を確認させた。
「ありがとうございました。またのご利用お待ちしてます…」
どこか、たどたどしい店員に可笑しな不良たち。だが何も気にしないと決めた男は、傘を広げ家路を急いだ。
最近、訳の分からない事が多いなと、男が考え歩いていると、ハイツ近くの十字路が見えてきた。その十字路を左に曲がり、坂道を少し上ればハイツの入り口がある。
「ん? あれ、いつ十字路に出る道で… いや、気にしない気にしない…」
男が十字路を左に曲がり、坂を上って街灯の下を通ったその時、後ろから聞こえてきた。
コツ……… コツ………
気にしない訳にはいかなかった。急に聞こえ始めたあの靴音。すぐそこまで来ているあの黒い傘。振り返るか否かを考えながら歩く男は、街灯を少し過ぎたところで立ち止まり、思い切って振り返ってみた。
コツ……… コツ………
十字路の曲がり角から、黒い傘がちょうど姿を現した。男は黒い傘を差している人物を凝視したが、黒い靄のようなものがあり、姿は確認できなかった。しかし、足元が動いているのは何となく見えた。そして、その足元が街灯の明かりで照らしだされ、鮮明に映ったその瞬間、男は自分の部屋に向かって走り出した。
階段を駆け上がりながら乱暴に傘をたたんだ男は、玄関の鍵を開けると、傘を手にしたまま部屋の中に入った。そしてすぐに鍵とチェーンをかけると、靴も脱がずに部屋の奥へとあがっていった。
「な… 何なんだよアイツ!」
崩れるようにして座り込む男。だが、それも仕方のない事だった。黒い傘を差した人物の右足、その足首から先が無かったのだ。厳密にいえば、足首から先はもぎ取られたような状態で、肉がえぐれ、骨が剥き出しになっていた。つまり、あの妙な靴音は骨がアスファルトに当たる音で、足取りが遅いのではなく、骨の当たる音だけが聞こえていたのだ。
男は恐怖心に犯されながらも、傘を強く握り、前に突き出していた。得体の知れない物に、傘が効くとは思えなかったが、それでも男は傘を突き出していた。だが次の瞬間、男は傘を畳の上に落としてしまった。
「濡れてない… 傘が濡れてない…」
コンビニにいた不良たちは、雨の中で地面に座っているわけではなかった。雨は始めから降っておらず、そんなに日に傘を差して歩いていれば、店員も外の様子をうかがう。
「くそっ………」
訳の分からなくなっている男の耳に、あの音が聞こえてる。剥き出しの骨がアスファルトに当たるあの音が。
カツ……… カツ………
男は音の変化を聞き逃さなかった。一段飛ばしで上ってくるような甲高い音。黒い傘は今、外の階段を上って来ている。そして音が近づくにつれ、グッと部屋の温度が下がっていく。
「頼む! 頼む、どっか行ってくれ! 勘弁してくれ!」
男は敷布団にくるまり、寒さと恐怖に体を震わせた。
「頼む… 頼む… 勘弁してくれ… 頼むよ!」
男がそう一心に言い続けていると、
カツ………………
思いがけず、音は階段の途中で止まった。ほんの少しの好転に、男は声を出した。同じセリフを何度も何度も繰り返し、階段にいるであろう黒い傘に謝り続け、頼みこんだ。
気が付くと、男は敷布団の中で眠っていた。いや、気を失っていたのかもしれない。とにかく、男は窓から差し込む陽の光と、スズメの可愛らしい鳴き声で目を覚ました。朝を迎えられたのだった。
ゆっくりと布団から這い出た男は、夢か現実かと混乱していた。だが、玄関の鍵とチェーン、畳の上の深緑の傘、そして土足のまま部屋に上がり込んでいる自分の足を見て、身震いをした。
「さっさと出るぞこんなとこ…」
こんなところにいたら、何をされるか分からないと、男は靴のまま部屋の中を歩き回り、大きなバックに服などの荷物を押し込んでいった。
「よし……」
最後に深緑の自分の傘を拾い上げると、男は慎重に玄関へ近づいて行った。目を閉じ、聞き耳を立てる男。何も聞こえてこないことを確認すると、チェーンと鍵を外し、少しだけ玄関の戸を開けて、下に続く階段の様子をうかがった。
「いない… 大丈夫だ……」
自分にそう言い聞かせた男は、階段の方を見ながら、グッと力を入れて玄関の戸を押した。何の問題もなく玄関の戸は開いて行ったが、半分を少し過ぎたところで何かにつっかえて止まった。大きく目を見開いた男が、玄関の戸の方へ視線をやると、戸のふちから黒い傘の先が見えた。
男はその時ようやく気付いた。まだ外は暗く、雨が降っていることに。
数週間後、雑木林の中から、ある男の腐乱死体が見つかった。夏ということもあって、遺体の傷みがひどく、身元も死因も分からずじまいだったが、右足首から先がもげている事だけはハッキリとしていた。
ある深夜、雨が降り始めた。マンションの三階、サラリーマンの男がベランダで煙草を吸っていると、妙な音が聞こえてきた。
コツ……… コツ………
不思議に思った男が音のする方を見てみると、街灯の下で鈍く光る、骨の折れた深緑色の傘が、雨に打たれ、立ちつくしているのが見えた。