23. ムックかもしれない
早朝から騒がしくなった。俺は目をこすり、玉を起こさないようにそっとベッドを出た。
カンタンに身じまいをして部屋を出ると、男たちが整列を始めている。
「なに?」
「おやじが戻ったんです」
ブラウのことか、クロウか。どっちにしろ以前より尊敬されている感じだ。
和を乱さないように、ちゃっかり列に並んで待っていると、みな左手を胸の中央にあてた。双十字教の誓いのポーズだ。俺は誓うべき何かを持っているわけじゃないから、ただそのまま立っていた。
かつかつと靴音が響き、ガードに守られた男が現れる。普通都市から取り寄せたらしい上質な生地のスーツと、よく光る本物の革の靴だ。首には長い白麻のストールが結ばずにそのまま垂らしてある。一部の隙もない伊達男だ。彼は俺の目の前に立った。
「…………」
「久しぶりだな、シロウ」
俺は目を見開いて彼を見つめ、わずかにうなずいた。
ハートレイはにやりと笑うと、部下の方を向いて多少の指示を出した。そこへ、部下の一人が駆け込んできた。
「おやじ! ブラウの兄貴が急変して、たった今息を引き取りました」
「……そうか」
彼は表情を変えなかった。だが、ガードの一人をちらと見ると、その男は細巻きの葉巻を取り出し、シガーカッターで吸い口を切って彼に渡した。
火がつくと、彼は煙を深く吸い込んだ。こちらにも少し漂ってきたが、品のいい香りが少し懐かしい。
「それじゃあクロウを生かしちゃおけないな」
「は、すぐに誰か手配します!」
「いや」
ハートレイはまた煙をくゆらせた。沈黙は長かったが部下は誰も急がせようとはしない。彼は、運ばれたクリスタルの灰皿に細巻きを置くと、低い声でつぶやいた。
「俺がひよっこだった時からの長えつきあいだ。引導は渡してやる」
「いつにしますか」
「今殺ればいっしょに葬ってやれるだろ。すぐに行く」
そういって彼は視線を俺に戻した。尋ねもしなかったが俺は言い切った。
「行きます」
「そうか」
人の死ぬところなど見たくない。これがよその区のボスだったら絶対に行かない。だが俺は、この人に対しては責任がある。清らかな神父さんを罪人に堕としたのは俺だ。
彼は背を向けて歩いていく。かつかつかつと音が響く。その後ろをついていく。石造りの地下牢にクロウがいた。
「……死んだぜ」
「だろうな」
クロウは薄く笑った。少しやつれている。
「ならわかってるな」
「ああ」
北区の幹部だった男だ。悪あがきはしなかった。特に何かを求めたりはしなかったが、ハートレイは「みんな出ろ。こいつの話を聞く」と告げた。ぞろぞろと出て行く組員についていこうとしたら、クロウが「あんたは残っとけよ」と声をかけてきた。俺は黙って見返した。
「この区の人間じゃないから見栄張らなくていいしな。よお、久しぶりだな」
一つうなずく。たぶんこわばった顔をしている。クロウはわずかに微笑んだ。ハートレイは固い表情のままだ。
「なぜ殺した」
「……飽きちまったからかな」
彼は両手両足を鎖で拘束され、牢の中に置かれた椅子に座っている。目隠しはしていない。
「何にだ。俺にか」
「まさか。今のあんたは最高だ。あのキョどってたヒョロっこい神父がここまで育つとは、夢にも思わなかったぜ」
「なら誇れ。そして見届けろ」
「生かそうってんのか。冗談じゃねえ」
「もっとあがけ。おまえほどの男がさっさと逃げ出すな」
「逃げちゃいねえよ」
彼は苦笑した。ちょっと足を動かしたので、鎖が鈍い音を立てる。
「会いに行くだけさ。姉御に」
ハートレイは少し息を呑んだ。そして急に怒気をあらわに詰め寄った。
「おい、少しずうずうしいぜ。俺より先に会おうってんのか」
「じゃなきゃ、あのバカに独占されるじゃないか。許せねえぞ、そんなん」
ハートレイが自分の唇の端をわずかにかんだ。
「……どいつもこいつもかってなヤツらだ」
「ちがいねえ。……葉巻を一本くれねえか」
ハートレイは懐から取り出すと自分で吸い口を切り、いったんくわえて火をつけて彼に与えた。普段部下につけさせてるらしいのに、ちゃんとライター持ってるんだなと、妙なところに感心した。
ゆっくりと紫煙をくゆらせたクロウは、最後にそれを石畳に吐き出した。
「うめえな」
「もう一本いるか?」
「いやいい。充分だ」
「告解はどうだ。神父として聞いてやるぜ」
「特にねえよ。あいつはもういねえし、そのことに後悔はしていねえ」
ハートレイはまた、唇の端を噛んでいる。引き止める言葉でこいつを失望させたくないのだろう。
「…………頃合だ」
クロウがうながした。ハートレイはていねいに祈りの言葉を唱えた。
「求めよ、さらば開かれん」
長い言葉の最後を、ハートレイは締めくくった。そしてオートマグを取り出して構えた。
「…………おまえの罪をすべて許す」
「ありがてえな」
クロウはほんの少し笑った。
乾いた銃声。硝煙のにおい。
額に空いた風穴。なのに顔はつぶれちゃいない。火薬の量を調整してあるんだろう。
ハートレイは双十字を切り、祈りの言葉を短く唱えた。
「……ひでえ所を見せちまったな」
「いいえ」
悲愴にならないように気を配りながら、まじめな声で続けた。
「むしろ恩寵です」
不思議そうな彼に宣言した。
「あなたの罪は、すべて俺のものです。一人で立ち合わせずにすんだことを、神に感謝します」
ハートレイは虚をつかれたように沈黙した。まぶたがわずかに動いたが、すぐに自分を取り戻した。
銃声を聞いた部下たちが駆けつけてくる。彼らはすぐに事情を察した。
「仏さんだ。ていねいに扱え」
二つの遺体は棺に詰められて教会に運ばれるらしい。大幹部だから、破格の扱いだ。
「午後、葬儀をする」
そういうと彼は私室に去った。俺も、すぐについて行くのはためらわれた。だから玉のところに戻って話をしていると、ジムが朝食を運んできてくれた。礼を言って受け取ると、少しだけまじめな顔になった。
「後でおやじのとこへ行ってくれねえか」
「言われなくともそのつもりだ」
「そうか。助かる……昔のあの方じゃねえから、よけいなことだろうがな」
葬儀の前後はいろいろあるだろうから、夕食後に行くことにした。
「昔から死ぬほど仲は悪かったが、ほんとに死ぬこともなかろうに」
「二人とも死んだら、抑えがきかないんじゃないか」
ジムは鼻で笑った。
「うちのおやじを誰だと思ってるんだ。偉大なる崇貴卿兼北区最大最強のボス、ハートレイ猊下だ。泣く子も黙って祈りだすぜ」
「そうか。じゃあ逆らうヤツはいないんだ」
「十七区全体で言えば西区のボスのほうが強いんだろうがな、それよりいいとこは替えがきかないとこだ。ボブ・サンはたびたび命を狙われるが、うちのおやじは断然少ない。なんせ唯一よそに行けるボスで、金持っててイケてて、最高にかっけえ。今じゃ女より男が憧れる男だ。裏切り者には容赦しねえし、銃の腕も確かだ」
金持ってるって、いつの間にか北区は稼げるようになってるのか。尋ねてみるとジムは「以前よりかは農作物売れてっけど、大したこたねえ」と答えた。
「え、じゃあなぜ?」
「そら崇貴卿さまだから使える金も豊富だわな」
汚職か。あのハートレイが。なんか信じられない。だがあの洒落た格好。金の出どころは知らないが、普通都市で作らせた最高級の品であるのは確かだ。データを送信すればわざわざ訪れる必要はないが、普通都市は地獄都市からの注文は恐ろしいぐらいにボッタくる。あんな高級品をいくつか揃えたら、ちょっとした家ぐらいかかるはずだ。
それと銃の腕。彼はあまり資質のある方ではなかった。だがこれは納得できる。たぶん練習に練習を重ねたんだろう。銃の才能はなくとも、努力する才能はある人だと思う。
「まあいろいろあるんじゃろうの。それより早くおむすびをよこせ」
玉が、ものともせずに朝食を要求したので慌てて渡した。
「おおっ、のりが巻いてあるではないか。でかしたぞ、ジム」
「いいってことよ……なあ、この子以前の玉ちゃんだよな?」
「そうじゃが」
「何で成長してないんだよ」
彼女はかっかっかっと笑い「メンタル面に問題がある場合成長を拒否することもあるのじゃ」と適当なことを言った。ジムはしげしげと彼女を見た。
「問題があるようにゃ見えねえぜ」
「人は見た目ではわからぬものよ。われは繊細だから人知れぬ悩みがあるのじゃ」
「へえ。昼ごはんはうどんかソバかとか」
「東区ではヤキソバが多かったからうどんがよい。そば粉のソバならそれでもよいし、そうめんでもかまわぬ」
「あーはい、キッチンに伝えとくわ」
彼は部屋を出て行きかけたが、いったん立ち止まって「そういや女崇貴卿と茶髪が戻ってきたぜ」と教えてくれた。俺は飛び上がりそうになって「どこにいる? すぐ行く!」と勢い込んだが、ジムに「落ち着け。あっちだって飯食ってるだろ。おまえも食べてゆっくりしてから行け。女は何かと準備がいるだろ」と言われた。
「すぐ会いたいんだけど」
「伝えといてやるからしばらく待ってろ。飯食っとけ」
震えるようにがくがくうなずいたのを見届けて、ジムは部屋を出た。玉が「あやつの言うたとおりじゃ。朝食ぐらいちゃんと取れ」と言うのでどうにか口に運んだが味がしなかった。
一時間ほどして、都市法係の兄ちゃんがジムの代わりに呼びに来てくれた。前と同じヤツだった。別の階の部屋で待っているそうだ。
「彼女たちの部屋?」
「双十字教関係者が使う部屋で、待っているのは続き部屋の面会室です」
「へえ、そんなのがあったんだ」
「いえ、今のボスになってから作られたんです。それまでは教会の方に行ってましたから」
状況に合わせて微妙にカスタマイズしているらしい。玉を部屋に残して、彼を急かしてそっちへ向かう。はやる心を抑えられない。
扉を開けると、栗色の髪が視界に飛び込む。続いて夜空を思わせる瞳。それでもうだめだった。気がついたときには抱きしめていた。希薄な匂い。彼女の膚の、彼女の髪の匂い。
そんな権利はもうない。なのに俺はケイトを離せず、声も出さずに抱きしめていた。
こほん、と咳払いの声がして我に返った。俺は首だけ動かしてそっちを見た。
「グレイス、久しぶり。元気だった?」
「ええ、元気よ。それよりケイトを離してあげて」
離そうとして手が震えた。離したくなかった。だが俺は力を振り絞って彼女を解放した。
ベールなしの修道服を着ている。生地は地獄のものより上等だ。
「…………」
なかなか声が出ない。懐かしさと安心と不安がごちゃごちゃにミックスされて、胸がいっぱいだ。ケイトも瞳を潤ませて、一言も発さない。だが彼女はもともと理性的な性格だ。ようやく自分を制御して「……久しぶりだね」と、かすれた声を出した。
「ああ。会いたかった」
「私もだ」
口元が優しくほころぶ。宝石より価値ある微笑み。また抱きしめたくなったが何とか耐えて「無事? 何か困ったことは?」と尋ねた。
「ない訳じゃないけど、それ以上に楽しい」
だが一刻も早く天国都市に帰ってくれ。そう言いたくて、でも彼女を知っているからこそ言いづらくて黙った。彼女の瞳が深い光を宿す。いつだって彼女は俺より賢い。
「……ご両親が心配している」
「連絡はとった。私の意思を尊重してくれた」
俺は子どものように身をよじって「やだやだ帰って」と叫びたかった。さすがにそんなみっともないとこを見せたくなくて、必死に彼女を見つめた。彼女はいたずらっぽく笑う。グレイスが口を挟んだ。
「大丈夫よ。彼女は双十字教の特別ゲストなの。危険な目にはあわせないわ」
「ここでもくどかれただろう?」
「ちゃんとお断りしたよ。しつこい人はグレイスが警告を与えてくれる」
ソファーに座って話を続けた。都市法係の兄ちゃんは、マテ茶のポットとカップを届けてくれてから部屋を出た。茶はあまりうまくはなかった。
ケイトは回った区のことや、出会った人たちについて語ってくれた。中でも、必死に生きる地獄都市の子どもたちに強い関心を持っていた。グレイスが間に入って少しやわらげた印象を与えていたが、それでもかつあげにあったり盗難にあったりしていた。けれど彼女は子どもたちを嫌ってはいなかった。
「うかつに恵んじゃいけないこともわかるけれど、できれば出会った子だけでもおなかいっぱいにしてやりたいし教育も与えたい。何かいい手段はないかと毎日考えてるよ」
「わかるよ」
「双十字教の宗教家の立場は私たちにけっこう似ている。彼らも、個としての子どもたちに施すことはほとんど許されてない。不公平だから。だがみんな必死に考えてはいるんだと思う。最大多数の最大幸福を」
「…………難しいことね」
珍しくグレイスが、儚いような微笑を浮かべた。
感情を優先すれば、自分の金の自由になる分をすべて使って出会った子に食べさせてやればいい。だが、それは欺瞞だ。独裁者がメディアの前で、選ばれた少数の貧民にだけ過剰に資金を与えるアレだ。ケイトはもちろんそのことに気づいて葛藤している。
「自分の無力さに泣きたくなるよ。でも、それはきっと双十字教みんなの想いだ。感情の揺れに陶酔するな、うぬぼれるなと自分に言い聞かせる毎日だ」
「それでも楽しい?」
「楽しい」
ケイトはきっぱりと言い切った。
「辛い以上に楽しい」
俺はこの人が初カノであったことを誇るべきだ。いつだって彼女はまっすぐで、よどんだ所がない。俺は敬意を込めて彼女の手を握り、その温もりを心に刻んだ。
「17区は全部回ったの?」
「たぶん」
「南区も?」
あそこの№3は、俺の兄と同じ顔をしている。出会ったら驚愕するはずだ。
「行ったよ。君の働いてた店も見た」
「イエヤス?」
「そこだ」
ちょっと噴き出しそうになってる。すでにカミングアウトしてるから今さらなんだが恥ずかしい。
「君がいる時見たかったな」
「大したもんじゃないよ。えー、彼女はあちらの幹部に会いましたか?」
グレイスに尋ねると彼女は首を横に振った。
「いいえ。会ってないわ」
ちょっとほっとする。だがいつ顔を合わせるかわからない。あらかじめ言っておいた方がいいかもしれない。だけどそれは、二人きりの時の方がいい。
「ケイトはモバイルは持ってないの?」
「あれだとこっちじゃかえって扱いに困るから、ケータイを持ってきたんだけど盗まれちゃって」
「え、じゃあ今は?」
「必要なときは店舗のを使うか、グレイスに借りるかしている」
個人的接触が難しい。双十字教の名で購入できないか尋ねたが、他都市出身者は地獄に来て十年を越えないとそうできないようだ。じゃないと一瞬のうちに盗まれるからだそうだ。
「あまり困らないよ。そもそも彼女とはめったに離れないし、そんな時は付き添ってくれるシスターが呼ばれる」
最初に依頼したので、渉外係のグレイスが迎えに来たらしい。彼女は遊撃隊のようにイレギュラーな行動を取る。動向がまるで読めなくて不安を感じる。天国都市に対する叛意を持っているんじゃないかと疑っている。だけどケイトを危険な目にあわせるとは思っていない。そんな単純な人じゃないと信じている。
「さて、午後には西区に行くので、そろそろ彼女を休ませてあげて」
「ええっ、今会ったばかりなのに」
「害がないと判断されたから、やっと教皇さまにちゃんと会えるのよ」
それなら仕方がない。本物シロウの件があるから、すぐには会えなかったのかもしれない。
離し忘れた俺の手を、ケイトは強く握ってそれから離した。
「またすぐ会おう。楽しみにしている」
「もちろん。あ、うちの兄に連絡だけでもしてもらえないかな? こっちからもかけるけど」
ケイトは苦笑いをした。
「署名つきメッセージだけ送るよ。私のロジックじゃ歯が立たないから、言い負かされてしまう」
「へえ、君でもそうなんだ」
しばらく見つめあって、それから別れた。彼女の髪の残像が、閉められた扉に重なった。
ブラウとクロウの葬式は無事に進んだ。
司会は、今まで見たことのない神父さんだった。もうお年寄りと言っていい外観だが、人柄のよさそうな人だ。ハートレイはほとんど貴賓席に座ったままだったが、代表して弔辞を読んだ。渋い声で、語りかけるように。
「……まったく、バカじゃねえのか。おまえらの席は俺の両横だろうに。天国だろうが地獄だろうが、姐御の隣は空けておけよ。先に座ったら許さねえ。変わりに必ずそこへ行く。ひざまずいて俺を待て」
そう言うと二つの黒い棺に歩み寄り、それぞれに片手を乗せて目を閉じた。。
赤い衣装が目にしみる。飾られた白い花の中で、そこだけが浮き出るように見える。
目を開くとハートレイは聖句を唱えた。それから会場のみんなを睨みつけた。
「いいか、こんなバカなことはこれで最後にしとけ。てめえらにはみな役割がある。身内同士で喰いあったりつぶしあったりは二度と許さねえ。俺がこんな葬儀に出るのも最後だ。顔見せにも来ねえぞ」
ざわざわ、と人が騒ぐ。ハートレイはたたみかけた。
「おまえらは全員俺の息子であり娘だ。それは変わらねえ。だが、親に不義理をかますガキにはそれ相応のしきりがある。祝福も受けずに賽の河原で石でも積んどけ。地獄の鬼は甘かないぞ。長男も次男も関係ねえ」
そういうと彼は、周りを睨みながら見まわしておびえさせた。だが終いには視線をゆるめて、パチン、と指を鳴らした。組員の一人が酒瓶を抱えて来た。ハートレイはそれを取り上げて蓋をはずす。
「ジャック・ダニエルじゃねえか」「しかも本物だ」「普通都市製だろ、死ぬほど高価いねんぞ」
みんながめっちゃ見てる。ハートレイは棺の顔の部分の窓から酒を注いだ。まずブラウにかけ、残りをクロウにかけた。
「…………まったく、ざけんじゃねえ」
吐き捨てるように言い、双十字を切った。苦々しい声だったのに、人々は自然と涙ぐんだ。
必要ないといわれたが、やはりケイトの見送りに邸の庭園に出た。今度は玉を連れて行った。
「握手してもかまわないかな?」
ケイトは俺じゃなく玉自身に聞き、小さなその手を握った。
「君ともいろいろ話したいよ」
「さもあろう。余裕のある時はつきあってやらんでもない」
えらそうに玉は許容し、ケイトの口元を緩めさせた。
「……シロウのこと頼むね」
逆だろ、逆、と言いたかったのに、余りに切なそうなので沈黙を守った。そんな顔をするのなら、俺の傍にいてくれればいいのに。だけど彼女はりりしく立ち上がり、別れを告げた。
俺は握手をしようと手を差し伸べたが、今度は彼女はそれを取らなかった。
「……じゃあ行くよ」
「次会うまで元気で。会う前にあっちに帰ってもかまわないからね」
「それはないな」
いたずらっぽく彼女は微笑み、グレイスと共に歩き始めた。シーメール像の向こうに彼女の姿が消える。俺はなぜか痛いぐらいこぶしを握り締め、人のいなくなった庭園を見つめていた。
「元カノか?」
玉が尋ねる。わずかにうなずく。
「なかなかいい。だが、おまえが心配するのもわかるな」
視線を向けると目の色がいつもより静かな感じだ。
「頭もいいし人を許すこともできる。けれど自分に厳しすぎるしまともでありすぎる」
「だからこそ安全な所にいてほしい」
「おまえがそう思っていることをあやつはわかっておる。それでも強要しないからこそ、あの娘は……いや、よそう。無粋じゃ」
玉は途中で言葉を切った。俺も尋ねなかった。恐かったのかもしれない。
俺は、彼女と握手した玉の手を引いて部屋に戻った。
電話でだいぶ兄に叱られた。当然だと思う。うなだれて彼の声を聞いた。
「薬でも使って眠らせておいてくれれば、どうにかして迎えをやったのに」
思いつきもしなかった。でも、知った今でもできない。
「……彼女は望まないと思う」
「意思よりも命を優先すべきだと思わないかい」
それでも彼の声は冷静で、理を諭すことにたけていた。だけど俺は自分の感情を捨て切れなくて、次にあったらもっと説得する、と言うに留めた。
兄は少しため息をつき「そちらに行くとおまえの感覚もおかしくなるのだろう。今日は早めにお休み」と許してくれた。俺は謝って電話を切った。
彼が正しい。正しいんだ。
ケイトは天国に帰るべきだし、地獄への援助は双十字教を通してやるべきだ。
こちらに来るより、向こうで寄付でも集めたほうが絶対いいはずだ。
でもそれは、俺にも言えるはずじゃないか。
俺が地獄に来たのは成り行きで、自分の意思じゃなかった。
今度だってケイトのことが心配だから来たはずだ。
なのに。
シャットダウン。俺は考えたくなくなって、玉に「夕食なんだろ?」と尋ねた。
「刺身じゃ。東区は海に接しておらぬゆえ新鮮な刺身なぞめったに食えなかった。だからおねだりしたのじゃ」
「冷凍車はあるんじゃなかったっけ」
「他都市に輸出するには使うが、地獄の消費にはほぼ使わぬ。干物やフライはよく出たのじゃが、やっぱりたまには刺身が食いたい」
そういって楽しみにしていた彼女は、厨房が余計な気を回して鯛のカルパッチョを届けてきたので、しばらくベッドの上でぐずった。
夕食後時間を見計らって、ハートレイの執務室に行った。
許可を得て扉を開くとえらく豪勢な部屋だ。以前とはだいぶ違う。ふかふかのカーペットの上に虎の毛皮が敷いてある。これは今では動物園にだけにいる猛獣で、その毛皮はひどく高価だ。ただし他都市では生物学的な意味合いの剥製以外は白い目で見られるので、もっぱら好事家か地獄都市のボスが買う。
机や本棚はマホガニーだ。漆塗りの書類入れには、チェンソーと人が合体したような不思議な絵が描いてある。きっと高級な品だ。
ハートレイは椅子に座って足を投げ出していた。俺を見ると奥の部屋に向けて顎をしゃくった。ガードが立ち上がったが、彼自身が「いい。ダチ公だ」と言って俺だけを私室に入れた。
こちらはあまり変わっていない。簡素なテーブルの前に座ると、ハートレイが冷蔵庫から飲み物を出した。ただのミルクだ。だが彼はそれに画家のような名前の麦芽粉末を添えた。俺は黙ってスプーンに山盛り三杯入れてかき混ぜた。
「せっかく訪ねてくださったのにすみません」
以前と少しも変わらない態度だ。俺はちょっと笑って「少しびっくりしました」と答えた。
「でも、なじんだんならその方がいいです」
「いえ、全然。私なんかが慣れる仕事じゃないですよ」
昔より体つきがたくましい。けれど穏やかな声も澄んだブルーの目も変わらない。
俺たちは多少しんみりと語り合った。俺にとってはブラウもクロウもただすれ違っただけの人に過ぎないが、それでも彼らの人生を左右したのは俺だ。
「……よく仕えてくれました。ようやく落ち着いた今になってこんなことになるとは」
「申し訳ない気分です」
「あなたがそう思う必要はない。そうじゃなかったら、シェリーが命を落とした時に争って死んでましたよ」
そういうことにしておく。
俺たちは旧交を温め、差し障りのなさそうな情報を交換し合った。その後ハートレイは、組員には見せない弱さをまた滲ませた。
「司祭は生命ある道具である、と言ってくれた過去の人に感謝します」
大昔、たくさんの宗教家が堕落したが、それを是正しようとする動きも盛んになった。その時の論争の一つに、堕落した神父さんとかがあげた結婚式とか洗礼とかいいんだろうかって話がある。
結論としては「違法であるが有効」。神父さんは生きてる道具だからまあOKだろうってことになった。
だから、人を殺したハートレイの与える秘蹟(洗礼とかゆるしとか結婚式とか七つ項目)も、取り消しにはならない。
当然だ。彼は押し付けられた役割の最善を尽くしたに過ぎない。だけどまじめなこの人は悩みぬいて、わずかにそのことに救いを見出しているのだろう。
「俺がどういってもあなたは悩むんでしょうね。でも、あの野郎のせいだって俺に押し付けてほしいです」
彼はちょっと笑った。その隙を突いて「全然かまわないですけど、ゴージャスな買い物がかえって負担になってたりしませんか」と尋ねてみた。
ハートレイは首を横に振った。そして唐突に「古代の遺跡写真は好きですか」と尋ねた。俺はうなずいた。
「子どもの頃モヘンジョ・ダロとか、アンコール・ワットとか飽きずに眺めました」
「私もです。中でも好きだったのはタージ・マハルでした」
古代の帝国の国王シャー・ジャハーンが、亡き愛妃のために建てた華麗な白大理石の廟。国を傾けるほどの財が必要だったと言われている。そのせいか息子に背かれ、晩年は幽閉されたそうだ。
「当時の民は相当苦しんだと思います。ただし、その後はその建物を観光資源として、数多くの人々が食べていけたようですね」
建築費をみんなで分け合ったら、そのすばらしい遺跡は残らなかった。
「何が正しいのか私にはわかりません。将来の遺跡を作るために現在の人々を苦しめることもできません。だが、今のままでは地獄の都市の人々は現状に足踏みするだけで変わらないと思うんですよ。だから何か夢を見せてやりたい。夢など見るべくもない貧しい暮らしに、具体的な豪華さを見せるべきだと思うのです」
大昔の壮麗な教会のように。少々うまい飯と多少の酒しか思いつけない貧相な想像力に、がつんと刺激を与えたい。
「すごい建物を作る費用は持てそうもないんですけどね」
「東区はサム・ライが寺を作ったみたいですよ」
「あそこは麻薬関係をよそに流通させてますからね。医療品でもある素材はともかく、私はさすがにできません」
だから崇貴卿予算をとりあえず贅沢に使っているらしい。
「失敗の確率のほうが高いのですが」
「あなたは偉大だ。いつかシャアかコブラかカズレーザーのように名を残すかもしれない」
今では多少の名言とエピソードが残っているだけの伝説の崇貴卿たちだ。
「いえまさか、そんなことは」
そういうとハートレイは、はにかんだように少し赤くなった。