22. 百人殺しの女
「よお、てめえ太ってんな。さぞかしいいもん食ってんだろ。恵まれねえオレたちに、幸せのおすそ分けしてもらいてえなあ」
バイクに乗ってないからヒャッハーとは言えない三人組に、路地裏で脅された。ビルと俺は感慨にふけった。
「な、じゅうぶん民度があるだろ」
「本当だ。他と較べておっとりしてる」
「だろ……やっと帰り着いたぜ」
どうにか17区にたどり着いたがまだ東区で、ビルの家のある西区は遠い。
「おい、話聞いてんのか」
口を切った男が、ホルスターに手をやりながら凄む。その様子を見たビルが、感心しきった声を出した。
「品のいい男だな」
男本人も驚いたが横にいた二人もぎょっとして、しげしげと最初の男の顔を見ている。つぶれた鼻にどんぐり目で上品な感じはない。だが俺も大いにうなずく。
「ああ。普通市民より上だ」
「おまえもそう思うか。これで金さえあったら、どんだけ高潔な紳士になるんだろ。並みの天国市民より上な気ぃするわ」
「わかる。やっぱ教皇さまのおひざ元の区は違うわ」
けっこうマジだった。一文の徳にもならんのに、さげすみの悪意と暴力をぶつけてくるやつらより、ずっとマシだ。
男は照れたようにへへ、と笑ったがすぐに正気を取り戻して「ほめ殺しでごまかすな!」と叫んだ。けれどビルは男の目を正面から見て「俺は本気だ」と断言した。
「おまえ相当にイケてるわ。頭の回転も速くねえか。さっきは俺に声かけたが、こいつメインでもなんか言えるか?」
と言って俺の方を示すと、男はちょっと考えて「のんきそうな顔してとろとろしてんじゃねえよ。普通市民上がりかあ? この、ゾンビの肝さえ抜いて売る地獄都市にようこそだ。こっちの流儀で通行料ぐらい置いてっちゃどうだ、ああん?」と、滑らかに脅した。
ビルは大きくうなずいた。
「やるじゃん。やっぱおまえ頭いいわ。こいつこっちの出じゃねえんだ。わかるか」
「おう。どっかとっぽい感じがするわ」
「だろ?」
ハハハと二人は笑いあったが、男は抜け目なく片手を差し出した。ビルはその手に自分の手をあわせて振った。
「おまえはチンケなタカリやってるやつじゃねえ。ちゃんと組織に入れ。こっちがよけりゃサム・ライに紹介状書くし、その気があるなら西区に来い。そりゃ最初は下っ端だが、おまえなら絶対上にいける。目指せよ、もっと先を」
男たちは困惑したが、ビルは彼の名を聞いた。ちょっと考えてその男は名乗った。
「わかった。俺は西区の黄髪のビルだ。今は茶髪だがな。おまえの名は覚えとく。いつでも来い」
そういうと堂々とその場を離れたが、三人は追ってこなかった。
「なかなか見事な手腕だな」
少し離れた時に一人の男が姿を現して感慨を述べた。俺たちはホルスターに手をやったが、相手の顔を見てそれを離した。
「……クレイトン卿」
「久しぶりだね、シロウ」
相変わらずくえない顔で、冷やかすように俺たちを見ている。
「玉は元気ですか」
「もちろん。うちに寄りたまえ。すぐに会わせてあげよう」
ちらとビルを見ると彼はうなずいた。
「ついでに電話貸してくれるか? 迎えを呼ばんと手間がかかりすぎる」
「ケイタイは持ってきてないが、寺のをお貸ししよう」
この人はいつでもうさんくさい。まるきり心を許せないが、玉に害を与えたりはしていないと思う。表情を固くしたまま寺に向かった。
「お久しぶりです、レレレのレー」
箒で庭を掃いていた黒色系の神父さんが、明るく声をかけてきた。
「緑目の長身美女は来ませんでしたよー」
「そうですか。それは残念です」
俺たちはイッキューさんのあいさつを受けたり、彼らが虎の絵のびょうぶスクリーンの前で「さあ、追い出してください!」と叫ぶ謎のセレモニーにつきあったりした。それが終わった頃、玉が部屋に現れた。
彼女はブランクを感じさせない気軽さで「お帰り」と言ってくれた。
「女は見つかったかの」
「こいつのはね」
ため息をつくと彼女は笑って「ドンマイ」と励ます。ちょっと不思議なぐらい安心する。
ビルは電話をかけていたが、驚いて叫んだ。
「え、もう近くにいるのか」
なんだと思ったら、すでに迎えが西区を出たらしい。
「シェリルが俺を待ちかねて、夜ごとバケツチャレンジを始めて高熱出しちまった」
誰かのために祈願するために、冷水を頭から被る風習だそうだ。
「で、うなされて俺の名呼んでるから、ガードが気ィつかってあてこみでこっちに向かったらしい」
行きに西区を通ったから、たぶんこっちだろうと考えたようだ。
「ちょうどいいじゃないか」
「ああ。だがな、速い方がいいだろうとバイクで来ちまったらしい」
ちょっと上目づかいでこっちを見る。
「俺のことは気にせず、さっさと帰れ」
「すまねえな」
ビルは立ち上がり「落ち着いたらまた来い。玉もいっしょにな」と告げた。
「ああ。シェリルと教皇さまとJによろしく」
「伝えとくわ」
そういうと彼は、慌ただしく部屋を出て行った。残された俺は玉と会話した。
彼女は大抵寺で過ごし、時たまサム・ライの屋敷に遊びに行くのんきな暮らしだったらしい。
「チナミさんとタエコさんは元気…いや、まだいる?」
「両方ともいるが、タエコは今妊娠中だ」
「え、誰の子、って父親いるの?」
「いる。サム・ライのとこの男だ。おまえが以前寄った時におせちを運んだやつだ」
「ジェフ? あいつの子?」
「ああ。嬉しいんだが悲しいんだかよくわからんが、なんかのほうびに嫁としてもらっていたぞ」
「そうかー。めでたいのかな、一応」
「許容したからにはめでたいのだろうな」
他者の男女関係はよくわからない。いや、ビルのならわかりやすいが。
「……チナミさんは?」
玉は俺の目をじっと見た。
「仕事はしている。セッタイも含めてだ。だが誰かに下げ渡されることは拒否している。おまえの妻だからだそうだ」
何一つ約束していない。俺の生死は長く不明とされていたはずだ。それなのに。
「……なぜなんだろう」
「さあな」
「拒否できるのか、あの人」
おとなしくテイシュクな人だった。何一つ拒めないように見えた。
「サム・ライ本人が言っていた」
玉は推測をしなかった。
「ミリアムには会った?」
「いや。一度も会わん」
彼女は玉にあまり好意を持っていなかった。それも当然かもしれない。
「グレイスには? 栗色の髪の女性を連れてなかった?」
「ああ、ちょっと見かけた」
「いつ?!」
勢い込んで訪ねると、玉はちょっと不思議そうな顔をした。
「一昨日だ。ここに来た」
「東区にまだいる?」
「……もういない」
ドアの方から別の声が響いた。クレイトン卿だ。用事が入って外出していたが戻ってきたらしい。
「どうしてここへ?」
「仕事だ。だが茶髪の彼女……ケイト嬢にこの区を見せてやりたかったらしいよ」
彼は皮肉な形に口元を歪めた。
「この区には、めったに来ないし長居はしない」
「なぜですか」
「私と仲が悪いからだ」
「なるほど」
どちらとも裏がありそうな人たちだから相性が悪いんだろう。
「彼女たちはどこに行きましたか」
あまり期待せずに尋ねたが、卿は教えてくれた。
「北区に行ったよ。やはり仕事だ」
「グレイスは自分の区を持たないのですか」
「ああ。持っていない」
詳しくは教えてくれなかった。
「それなら俺も北区に行きます」
「連れて行け」
玉が俺の服を引っ張る。クレイトン卿が笑いながら「サム・ライが悲しむ」といったが、玉は「そのうちまた来る」と引かなかった。
「やれやれ。じゃあこづかいをあげるから、楽しんでおいで」
意外にあっさり許可を出し、金を渡してくれた。玉はほとんどを俺に押し付けた。
「え、いいんですか」
「かまわないよ。玉の費用はサム・ライが持つ」
ならありがたくいただいてついでに北区まで送ってもらおうとしたが、レイキューシャは出払っていた。仕方なくバスの時間を調べて、バス停に向かった。
「起きろ。北区の広場じゃ」
目をこすって窓の外を見ると、教会の尖塔が見える。慌てて玉を連れて降りる。
広場の石畳をよぎって教会に向かったが、ほぼ直感的に玉を抱えて飛び退った。
銃撃だ。だが身を隠す場がない。玉を抱えたまま銃を出そうとすると、怒声が響き渡った。
「おいっ、何やってんだっ!」
「兄気っ、あいつですよっ。ほら、ポスターのっ。ぶっ殺さんと!!」
そういやこの区じゃお尋ね者だった。綺麗さっぱり忘れていた。
目線で最適ルートを探していると、声の主らしい男がもう一人にぶん殴られているのが見えた。
「だいぶ前にキャッチコピー変わっただろっ!!」
「え? 『この顔にピンときたならぶっ殺せ』じゃなかったスか。絶対アイツっス」
「あほうっ!」
もう一回ぶん殴る。
「写真は同じだっ! 状況が変わったんだ!」
もう一人、別の男が寄ってくる。
「バッカじゃねーの。今の標語は『この顔にピンときたならごあいさつ』だぜ」
そういうと男は俺の方に一礼した。
「ちぃーーっス」
「あ、こら、なんか幹部案件らしいからもっとていねいに」
「ちぃーーっス、ちぃーーっス!」
「二度言やいいってもんじゃねえ」
「こんちゃーーっス!」
新しい男は声を張り上げた。殴った男も静かに頭を下げる。それを見て最初の男は焦ったあげく、カニのようにWピースした。なんか知らんが、敬意の表明らしい。
「あの…シロウさんでいらっしゃいますね」
殴った男が尋ねるからうなずくと、みなは「セッタイだ」とか「それよりおやじに連絡しろ!」とか慌て始めた。
「ハートレイ卿に会いたいんだけど」
「明日まで地方に行ってますから、それまでくつろいでください。どちらからいらしたんですか? 東区ですか。バスで来たんならお疲れでしょう。そちらは娘さんですか。おやつも用意しましょう」
「サキイカがいいな」
玉がちゃっかりリクエストした。
俺たちは組織の車でハートレイの邸に連れて行かれた。以前ウィリー・チャンの所有していたやつだ。
あまり変わっていない。シェリーがいったん改装してから、補修だけに留めているっぽい。
薔薇の絡まったアーチを通り、グリフォン像やシメール像を横目で見つつ邸に行き、セッタイ用の小部屋に通される。
「歩かせてしまってすいません」
銃を撃った男が頭を下げるから、大人物らしくおうような所を見せようと「かまわないよ。バスで体が固まって、少し動きたかったし」と応える。すると男は目を輝かせた。
「なら、すぐにデリヘル呼びます!」
「え。いやあの」
「大丈夫っス。ちょうど頃合だし。俺も参加します!」
「若いモンに招集かけろ。多い方が気楽だろ」
集団で? この区じゃよくあることなのか。
「いや、あの」
「遠慮しないでください。あ、お嬢ちゃんはここでおやつを食べててね」
「ハートレイ卿に叱られるんじゃないかな」
「いいえ! 福利厚生の一環として奨励されてっス!」
あいつこっちになじんじゃったのか。そんなやつじゃなかったのに。月日の流れを感じてしんみりしているうちに、気がついたら大広間に連れ込まれた。
え、ここで? いやちょっと気が引ける。第一俺、他の人がいると集中できないし、女の子の数が足りなくて他者と共有とかなったらとんでもない。いやいやそれ以前に、願掛け的にその手のお付き合いは避けてる。ただ、文化的に気になる。
「こっちじゃよくあるの?」
「月に一回は必ず。週一目指してるんですけどね、なかなか」
「それより、そんな格好じゃヤリにくいでしょ。脱いでください」
え、いやだけど。だが周りの男たちは更衣室にも行かず、がんがんスーツを脱ぎ始めた。びびって後ずさりをしたが、男の一人が腕をつかむ。
「恥ずかしいのは最初だけですよ。すぐに慣れます」
「やった後はすっきりするぜ」
「イナバさんはけっこう上手いから、安心して任せとけばいい」
口調もくだけてきた。困惑したまま、そーっと逃げようと隙をうかがうが、入り口からどやどやと組員が入ってきた。さっきの男たちよりガタイがいいのが多い。
「ようっ、シロウじゃねえか。久しぶりだな」
親しげに声をかけられて首を向けると、ええと、あいつは確か。
「ジム、元気だった?」
「まあな。おまえも元気そうだな」
ジムはTシャツにハーフパンツだった。後からやってきた組員も、大抵は同じような格好だ。脱ぎやすいからか。
「若いモン集めろって言ってたけど」
「イナバさん呼んだらしいからしょうがない。人数少なかったらがっかりするかもしれん」
誰だよイナバさんって。疑問を口に出そうとした瞬間、Tシャツとパンツを渡されて、つい流されて着替える。あらかた着替え終わった頃に、またドアが開いた。
「やあみんな! 元気にしてた?」
年の頃は二十代初めぐらいか。いやこちらの人は年を取るのが早いから、もっと若いのかもしれない。割りとフツーの容姿の女性で、胸は大きめだが筋肉質だ。
「じゃあ今日も、ホットなナンバーでホットな時を過ごそうね!」
と言って彼女は元気よく動き始めた。集まった男たちも彼女の指導に従順に従って体を動かす。俺は横のジムに尋ねた。
「こっちじゃデリヘルって何の略?」
「なんのって……デリバリーヘルスだが」
言葉は同じだ。だがここではヘルスはそのまま健康を意味するらしい。ハートレイが奨励するわけだ。
「おまえの地元じゃ意味が違うのか」
「出張風俗サービスの意味だ」
「へえ。普通都市にもあるんだ」
俺の地元はほんとは普通都市ではないが、そこにも全くないわけじゃない。もっともうちの都市の倫理感では許される行為ではないので、その種のサービスを求めるものは普通都市の歓楽街に遊びに行く。そこでも表向きは別種のサービスのふりをしている。
地元での少数のそっち系サービスは、何らかの事情で普通都市に行けない人が相手だ。若い時のパフパフの思い出を忘れられない超高齢者とかだ。そっち系の人はほとんどがナース姿でやってきて、セッタイを伴う訪問看護を行う。
「もっと足上げて! はい、そこで止めて」
イナバさんは元気にみなをリードし、男たちは女性の指導に反発もせず素直に従う。他の都市ではあたりまえのことだが、地獄都市では多少珍しい。それが何であれ、女性のリーディングにはイヤミと抵抗が伴う。
ーーーーこの区は女性のボスに慣れていたからか
それ以前は知らないが、シェリーの時は彼女自身の魅力とテクニックによってそれを可能にしていた。女性全てに対してそんな風じゃなかったと思う。不思議に思ったままダンス系エクササイズを終えた。
「みんながんばったねー。じゃ、次に会うのを楽しみにしとくよ!」
俺以外の全員がパチパチと手を叩いた。空気を読んでみんなに合わせる。何人かがすばやく動いて、彼女に水とタオルを渡した。
「お茶とジュースは控え室に用意しておいたから」
「今日は許可が出たので冷房もつけといた」
「ええ、ぜいたくだな。ありがとう」
「天然の桃が手に入ったから冷やしといたぜ」
「うわー、めっちゃ嬉しい。ありがとー!」
イナバさんは素直に喜んでいる。二、三人が彼女を別室に案内する。他のやつらが話し合っている。
「ジュースは何用意した?」
「パインだが」
「げ、そいつイナバさん好きじゃないぞ」
「マジかよ…オレンジならある」
「うちの女のために買ったぶどうジュースがあるから持ってけ。こっちの方がいいだろ」
一人がビンを抱えて走り出て行った。俺は首を傾げる。
ーーーーたとえば、アイドル的人気の人だったら、みんなもっとフワフワしてるよな
なのにみな、あまり嬉しそうな顔はしていない。
ーーーーかといって、金持ちの夫人におもねってる感じでもない
自発的に判断して、彼女のために動いている。そんな風に見える。自分の女の土産まで提供してるし。金持ちにこびてる様子は微塵もない。
「で、誰か今日可能なヤツいるか?」
「あー、こいつデリヘルをそっち系と勘違いしてたわ」
いきなりジムが声をあげた。みんなが一斉に俺の方を見た。なんなんだ、いったい。
「えらいひ弱そうだな」
「普通市民? 無理だろ、そりゃ」
「決めつけるのはよくない。一応聞いてみろ」
一人の男が俺に近寄り、まじめな顔で尋ねた。
「あんたさー、最低三回いける?」
何のことかわからなくて目をぱちくりしてると、そいつは他のヤツに「普通都市の方言じゃなんていうんだよ」と聞いている。
「アレだよ、アレ」
「ほら、コレだ」
男の一人が左手の指で円を作り、右手の人差し指を抜き差しする。俺は一瞬考え、赤面した。
「おい、童貞じゃないのか」
「ならかえって必死にやるだろう」
「……ドウテイジャ、ナイデス」
小声で否定すると、また執拗に回数を尋ねられたが「状況によります」と答えた。アンジーとだったら、もちろんそのくらいは大丈夫だ。
男たちはちょっと話し合ったが、俺に対してあまり肯定的でない結論に至り「ならオレ行くわ」と一人が立ち上がって部屋から出て行った。
「いったい何?」
ジムに尋ねると彼は苦笑いしながら「さっきのインストラクターがイナバさんだ」と答えた。
「それはだいたいわかったけど、どういうこと?」
別の男がやっぱり苦笑しつつ「イナバさんは、十人殺しと呼ばれてるんだ」と教えてくれる。だがジムがすかさず否定した。
「十人殺し? いつの話しだ。今じゃ百人殺しだぞ」
「こいつ出張長かったじゃん。知らんかったんだろ」
「百人殺し? いくらイナバさんがタフでもそりゃ無理だろ」
出張の男が決め付けると、他の男たちが一斉に首を横に振る。
「誰だと思ってる。イナバさんだぞ」
「殺し方は一つじゃないぞ」
男は腕を組み「イナバさんならありか」とつぶやいている。説明を求めると、ジムが話してくれた。
イナバさんもかつては他の女の子と変わらない少女だった。十二歳で、仕方なく娼婦になった。
「だがな、あの人もの凄くあっちの方強かったんだ」
大変頑健だった上に、仕事に楽しみを見出すことのできたイナバさんはがんがん働こうとした。だが彼女は身体的な才能の代わりに、ある種の才能を全く持たなかった。
「あいつ、男心が全くわからないんだ」
「必要なんですか」
「あたりまえだろ。『後一回ぐらいいけるだろ』とか、どっちが客だかわからん気分になる」
みんなうんうん、とうなずいている。
「かといって性格が悪いわけじゃないんだ。むしろいいヤツだ。それはわかってる」
「身が持たんと思って道具出した客に『あきらめるなっ! おまえはもっとできるっ! 手伝ってやるからガンバレ!』と励ました話はマジで恐かった」
「欠片も悪意がないんだ。むしろ善意に満ち溢れてる。だからってたちうちできるもんじゃねえ」
そんなこんなで女に負けたような気分になった客のうち、十人ほどの有志が集まって、全員で彼女を買うことを決めた。
「いくらなんでもおびえるだろうと思ったんだよ」
「ああ。商売に差し障りある場合はその分も払うと、店とも交渉してな」
だがイナバさんはその状況で明るく「よっしゃあ!」と叫び、ぺっ、と両手にツバを吐いて「誰から行く?」とその手をこすり合わせた。
「めっちゃ萎えた。死ぬほど萎えた。そんなヤツが多かった」
「結局、実際にコトに及べたヤツは三人ぐらいだった」
彼女は楽勝した。十人殺しの通り名もついた。だがメンツをつぶされた男たちはリベンジを誓い、万全を期して百人の男を集めた。
「七割倒れたとしても残りは三十人だ。小卒エリートの男が教えてくれた」
「さすがのイナバさんも、恐怖に打ち震えるだろう。みんなそう考えた」
だが相手はイナバさんだった。まじめで誠実で人がよくて、男心の全くわからないイナバさんだ。案内されたホールで状況を察した彼女は、男たちを前に宣言した。
「本日はお買い上げありがとう。だが、さすがの私もどこまでがんばれるかわからない。でも、せっかくのお客様だ。できるだけ多くの人を満足させたいと思う。だからみなさんにお願いがある」
ニヤニヤしていた男たちは、なんだろうと耳をすませた。
「そのために、まず小さい順に並んでくれ。それなら数がこなせると思う」
もちろん身長のことじゃない。けれどそう言われて並べる勇者が何人いることか。男たちは撃沈し、イナバさんは百人殺しにランクアップした。
イナバさんが商売している限り、娼館自体がトラウマになりそうだったので、みなで金を出し合い彼女を卒業させた。彼女が無事第二の人生を送れるよう、彼女に向いてる仕事を探し教育を受けさせてその職に送り込んだ。
「勝者に対する敬意?」
あるいは異能者に対する恐怖か。だが男たちは苦い顔でまた首を横に振った。
「そんなんじゃねえ」
「もの凄ーくダメな元カノに対する情、ってのが一番近いか」
「だよな。いや、それだけでもねえ」
「もはやあの人に対して、ピクリとも反応しねえがな『え、もう一回ぐらいダメか?』とがっついたあげくに我に返って『すまん、あんたのこと考えずに無茶言った』と謝って、あの大きな胸に抱きとめてくれたことを思い出すと、なんかもう、いい男でも見つけて幸せになってくれとしか思えん」
「ダメな姉ちゃんとかダメな妹とか、ダメな母親とか。もうそんな域なんだわ」
性的な関係から始まったのに、すでにそれを越えた何かの情に変わっている。
「だから彼女が仕事で来る時は、なるべく集まるし多少は気をつかう」
「協力はするさ。できる範囲でな」
それで彼らはちょっとめんどくさそうな顔で、可能な限り気を配っていたらしい。
「イナバさんは特別」
「女性崇貴卿より大事に扱うぜ」
その言葉に飛び上がった。オレは少々どもりながら、グレイス・バーネット卿が栗色の髪の女性を連れてこの区に来なかったかと尋ねた。
「来たぜ。デイブが押し倒そうとして、バーネット卿に見つかってはっ倒されてたな」
「ちょっと強めに口説いてただけだぜ。双十字教の姉ちゃんに無体なことはしないぞ」
「彼女たちは今どこ?」
「地方視察に行った」
「もしかしてハートレイといっしょ?」
「ああ。明日には戻るんじゃないか」
ほっと胸を撫で下ろした。ケイトに会って話して、なるべく早く地元に戻ってもらいたい。
「泊めてもらっていいよね?」
「もちろんだ。どの部屋使ってるんだ。ああ、あっちか。元の部屋空けるから、そっちに行けよ」
玉もそのほうが落ち着くだろう。俺はジムに感謝して、部屋を移ることにした。