21. 彼こそは地獄のプリンス
レディスペンサーの邸の一室で、ビルは何度もフロックコートの襟の位置を直しタイを整えた。
「なあ、これでイケてるか? あいつらのあの気取った服着たほうがいいんじゃねえか」
「あんな脚にピタッと張り付くやつ気色悪くないか」
「だよな。けど女ってやつは王子様っぽいの好きだろ?」
そわそわとまた鏡の前に立ち髪をかき上げている。マダムが苦笑した。
「いい加減落ち着きな。挙動不審の男は低く見えるわ」
途端にしゃんと背筋を伸ばして「落ち着いてるぜ。農協自炊の如くだぜ」と親指を立てた。明鏡止水のことらしい。ちっとも落ち着いてない。
やがて執事が現れてマダムを呼び出した。彼女が消えるとビルは胸を押さえた。
「心臓が飛び出しそうだぜ」
こっちまで感染してドキドキする。アンジー、もし君に会えるとわかったら、俺の心臓は破裂するんじゃないだろうか。
「おまえのパイソンを撫でてみろ。少し気が落ち着くはずだ」
女の子の最大の友達がダイヤモンドなら、男のそれは自分の愛銃だ。
「おう。こいつには世話になってる」
今日は取り上げられなかったから腰に下げてる。それをいとおしそうに撫でている時に扉が開いた。
「ムロイ氏のお孫さんのカレン・アンダーソン嬢さ。確かに案内したよ」
そこには信じられないくらいの美女が立っていた。もともとカレンはとびっきりの美少女だったけれど、今目の前にいるのはもっとソフィスティケートされた存在だ。コスチュームめいたローブデコルテがすごく似合っている。
露出された部分の膚はひどく滑らかで艶がある。ミルクに薔薇の花びら一片を浮かべたような、って表現を読んだことがあるがまさにその通りだ。
彼女は美しかった。もともとの恵まれた素材をロイ・ムロイ氏が心を込めて天国風に手入れした結果、至高の芸術品に変わっていた。腹部のやわらかなふくらみさえも計算の一つに思えるほどだった。
「…………ビル」
しっとりと艶を含んだ声が優しく耳を打つ。俺でさえ胸が早撃ちを始めた。
ビルは無表情に彼女を見返した。感情が限界を超えている。
「会いたかったわ。ずっと」
「俺もだ」
カレンはビルの腕の中に飛び込んだ。ビルは彼女を固く抱きしめ、それから腕を緩めた。
「腹に悪い。座ってくれ」
優雅な曲線を持つビロード張りの椅子にカレンが座ると、レディスペンサーは「じゃ、お若い方同士でごゆっくり。あんたはどうするかね」と俺に聞いた。
慌てて立ち上がりかけたがカレンが「証人になってほしいからシロウはここにいて」というので再び腰を下ろした。マダムは部屋を出て行った。
「灰音ケンがおじい様の家に連れて行ってくれたの。ううん、くどかれたりしなかったわ。ずっと紳士的だった」
ローズウッドのテーブルには今日も紅茶が用意されている。マダムのトラウマになってはいなかったらしく、一体のオートマタがそれをカップに注ぎ二人の前に置いた。そしてすぐに部屋の隅に移動する。
「おまえに危害を加えるやつはいなかったか」
「ええ。みんな優しかったわ。二区の人たちもここの人たちも」
そりゃ、これほどの美女には誰だって優しくなる。
「だけどビル、他の人はあなたじゃないの。どんなに賢くて上品な人たちも、誰一人あなたじゃないの」
「……その俺を置いて、なぜ一人で家を出て行った」
彼の声は落ち着いていた。それでもカレンは少し身を震わせた。ビルはなだめるように優しく彼女の手を握った。
「……ママが、天国都市の人だって聞いて、ずっとぶっつぶしてやるって思ってた人たちの一人だって知って、私にもその血が流れてるって、私とあなたの子どもさえそうなんだってわかって……気がおかしくなりそうだったの」
発作的に俺のバイクで夜の街を走り出し、あっという間にガス欠になった。そしてケンと出会った。
「無謀すぎる」
ビルが口を歪めた。
「おまえはもう自分ひとりの体じゃないんだ。腹の子の母親だし、それ以上に俺の大事な女だ。無茶なことをするな!」
怒鳴られたのにカレンはうっとりとした顔で彼を見つめた。俺は心の中でけっ、とうそぶく。
「もう、二度としないわ」
「わかったんならいい。無事でよかった」
互いの額をこつんとあてた後、熱烈なキスをかわす。ハンカチをくわえたら絶対に引き裂いてしまうのでそれはせず、苦虫をかみつぶした顔でにらんどく。今ならスタンドぐらい飛ばせそうだ。
二人は脳みそがとろけそうなことをでれでれと言い合っていたが、そのうちビルが「こっちではどう過ごしてた?」と尋ねた。
「教育プログラムを加速させて受けていたわ。あと、ダンスや楽器の練習をしたり、おじいさまが紹介してくれる方たちとお話したりしていたの」
「男か」
「…………男の方もいるわ」
先ほど言っていた人たちのことだろう。カレンはちょっとちゅうちょしたがすぐに決意した顔で「正直に言うとくどかれたわ」と爆弾発言をした。ビルは彼女の横の椅子に腰かけていたんだが、音をたてて立ち上がった。
「安心して。全員断ったから」
「お、お、おまえに触ったりしちゃ……」
「おじいさまとダンス教師以外の男には、指一本触れさせてないわ」
得意そうだ。ビルも安心したのかまた腰を下ろした。
「私は妊娠中だって隠さなかったの。あなたのことはおじいさまの立場があるから言ってないけれど、たとえどんな相手のとの子であろうと大事に育てるからって求婚してくれた方もいるわ。だけどちっともときめかなかった。ビル、あなたが好きだからよ!」
「カレン……」
彼も目を潤ませている。カレンもキラキラと輝く瞳で彼を見つめた。
「だからあなたがここまで探しに来てくれたと知って、私、おじいさまにお願いしたの。あなたを養子にしてくださいって!!」
ビルは目を見開いた。俺はむしろ点目になった。
「おじいさまは驚いたけれど了承してくれたわ。ちゃんと自分の後継者として育てるって。しばらくはおじいさまの邸で暮らすけど、そのうち隣に館を立ててくださるって。ねえ、凄いでしょ。あなたと私と二人の赤ちゃん。広くて豪華な素敵なおうちで永遠に幸せに暮らすのよ!」
うっとりと目を細める彼女は美しかった。彼女の夢もかわいらしかった。俺は口を挟めず、呆然と見つめるだけだった。
だが、ビルは違った。本物の焔の揺らぐ暖炉や、その周りで丸くなる仔猫や、玩具を握り締めて遊ぶ二人の赤子の話を続ける彼女に水をさした。
「…………シェリルはどうなる」
カレンはむっとしたように黙った。そのまましばらく唇を噛んでいたが、しぶしぶと応えた。
「あきらめてもらうわ」
ビルは黙って彼女を見ている。カレンはいらだったように身をよじると、しばらく考えて吐き出すみたいにつぶやいた。
「私はあなたと二人っきりでいたい。だけど、放り出すのは気の毒ね。ねえ、こちらでは地獄の人を使用人として雇う制度があるの。だからあの子をメイド……特別なメイドとして雇っていいわ」
「カレン」
ビルが彼女の名を呼んだ。甘い声だった。カレンはほっとしたように彼の腕に身を寄せたが、ビルはそれをそっと優しく押し戻した。
「……ビル?」
「おまえの気持ちは痛いほどわかる。俺だってさっきやきもちで死にそうだった。俺は永遠におまえを独り占めしてえ。他の誰にも髪の毛一本だってやりたくねえ」
「じゃあビル」
「だがな、ここに来る時シェリルに話した。あいつ、おまえに妬いていた。あいつはただの踊り子だし、子どもだっていねえ。すべておまえに負けてるのに、行ってやれって言ったんだ」
「ビル……」
「無事連れ帰らないと承知しないって言った。なに一つ持たねえあいつがよ」
カレンはおろおろと彼を見ている。ビルは感情の消えた顔で彼女を見ている。
「正直、ここに来るのは苦労した。亡者にもされたし、トイレだって最低だった。虫にも刺されて死にかけた。だがそんなのはどうだっていい。おまえのためならそんなん本当にどうでもいい。だがシェリルのことは別だ。俺はあいつを下っぱにゃしねえ」
カレンが涙ぐむ。だがビルはその涙をぬぐわない。
「俺はここには残らねえ。あばよ、カレン。おまえがいれば地獄も天国だったぜ」
「ビル…………」
彼女の清らかな頬はしとどに濡れている。けれどビルは泣かない。自分の女の前では泣けない。
彼は立ち上がり、その手を彼女に伸ばした。
「一つだけ思い出をください。ミス・アンダーソン、いやレディ・ムロイ。あなたに永遠の愛を捧げるこの憐れな男と、一曲だけワルツを踊ってください」
「いやよ、ビル」
恐ろしいことを言われたかのようにカレンは身をすくめるが、彼は容赦しなかった。
「ならこのまま触れあいもせずに、永遠にさよならだ」
ビルは手を下ろさなかった。
「さあ」
彼女は逃げ場を探すように目線を動かし、俺と目が合うとすがるようなまなざしになった。だが、どうしてやることもできなかった。
彼女はついにその手を取った。ビルは部屋の隅のオートマタにもう片方の手で指を鳴らした。
「とびっきりイカすワルツをかけてくれ」
静かに曲が始まった。震えるカレンをビルはリードする。それは胸を打つワルツだった。部屋の端で見ているだけでも切なさが流れ込んでくる。エモい。
「……ありがとう」
ビルの声が優しく終止符を打つ。カレンはまた涙をあふれさせたが、彼の心は変わらなかった。
やがて美女は部屋から消える。レディスペンサーが戻ってきて、気づかうように彼を見つめた。
「……世話になった」
「いいのかい?」
「ああ。俺にとっちゃあわん場所だが危険な目にはあわねえだろう。感謝するぜバーバラ」
レディスペンサーはひどく苦い顔をした。彼女は何か言いかけて呑みこんだ。
「……気をつけておくよ」
「そう聞くと消臭力だ」
俺は首をかしげた。
「チョーシューリキじゃなかったっけ」
「リキがついたのは確かなはずだ」
まあどうでもいい。俺たちはマダムにあいさつしてケンの邸に戻った。ビルは「夕食は断ってくれ」と言って与えられた部屋にこもった。俺は近くにいるのもなんだか悪い気分になって、出入りを許可されているメインのリビングに向かった。
リビングのソファーで読書をしていたらしいケンは、俺を見上げてわずかに微笑んだ。
「会えましたか」
「会えた。決裂した」
おやおや、といったが彼は驚いた様子はなく片方の眉を少しだけ上げて見せた。
「どうせあなたは予想していたのでしょう」
「いいえ全然」
薄い微笑は消えない。俺がにらむと彼は言葉を補足した。
「上手くいってビル君が彼女を連れて行っても、失敗して彼女が残ってもどちらでもかまわないからです」
…………どういうことだ。
「説明してもらえませんか」
「その前に答えていただきましょう。あなたはこの街の秘密がわかりましたか」
胸もとのゆるいカシュクールな感じの絹のブラウスと、伸縮性のよさそうなキュロットを身につけた灰音ケンはとても優雅な感じだった。絶対にジャージよりこちらのほうが似合うと思う。
「どうにか」
「それはすばらしい。少し待ってくださいね。お茶とお菓子を用意させましょう」
執事が欅のティーワゴンを押して現れ、紅茶と様々なプティフールをテーブルに置いた。
「しばらく二人で話したい」
そう告げると彼は頭を下げて部屋を出て行った。ケンがカップに紅茶をついでくれたが俺はそれを受け取らず、菓子に手を伸ばしてエクレアをつかみがぶりと喰いついた。
食べ終わった後はマカロンにかじりついた。ケンは非難もせずににこやかにそれを見ている。最後に紅茶を飲んでからようやく口を切った。
「……最初からヒントはくれていたわけですね」
ケンは答えずに微笑を口の端にのせたままだ。
「表面上は確かにわかりにくい。非常に優雅で満ち足りて見える。でも実際はそうじゃない。この都市の市民は、静かに落ちぶれていく最中だ」
相手の表情は変わらない。俺はそのまま続けた。
「過去の幻影にしがみついていれば先に進むよりは安くつく。過去の文化を守ることはすばらしいが、日常的な分野までまるで変わらないのは不自然だ。この都市の人々はすでに新しいものを生み出す気概も資金も持っていない」
もちろん資産がないわけじゃない。遊んでいても地味に食っていける程度はあるのだろう。だが他の天国都市に対抗するほどのGCP(市民総生産)はすでにない。
邸を飾る美しい磁器人形。あれも割れない限りは劣化するものではない。ていねいに修復しつつ何代も着続ける衣装。パーティなのにスマートスピーカーに頼った音楽。どれを取ってもこの都市の衰えを示している。
「もちろんレディスペンサー、そしてたぶんあなたも充分な資産を所有しているんでしょう。ただし他の多くの人たちは少しずつそれを失っているはずだ」
不似合いな銃で遊んでいたお貴族さま。あの人たちだって漠然とした不安を抱えて、無意識にそんな荒っぽい趣味に走ったのかもしれない。
「ご名答」
ぱちぱちとケンは手を打った。その様子は相変わらず優雅で、この都市の化身のように見えた。
「ぜひ続きを。私の意志にもお気づきでしょう」
「ええ。あなたはこの天国都市を、壊したいと思っている」
灰音ケンはこの上なく幸せそうに微笑んだ。
「やはりあなたは外見に似ず実に鋭い」
おいっ、外見だって賢そうだろっ。
「それでは先ほどの私の答もわかりますね」
すぐ気づくほど鋭くなくてすみませんねっ。
「ええ。あなたはカレンをロイ・ムロイ氏に会わせればよかった。それで結果は見えている」
ムロイ氏はなぜ、普通市民上がりに冷たいこの都市に留まっていたのか。まずは妻が病んでいた。そのことは彼女の死によって解消された。次に行方不明の娘の問題があった。彼女がもし生きていて戻ってくるのなら、生まれ育った彼の邸に帰るはずだ。その理由も死によって消滅した。
だが、新たな条件が生まれた。孫娘カレンの存在だ。彼女に母の生まれ育った邸を見せてやりたい。ムロイ氏はそう望んだはずだ。
「だからそれを果たさせてやったのです。ムロイ氏は実業家だ。問題点の把握に優れている。彼女を邸につれて来てすぐに気づいたはずです。差別心の強いこの都市に、特殊な育ちの彼女を置き続けるのは危険だと」
「……」
「当然彼は移住を考える。それが他の天国都市か普通都市かは知らないが。そしてムロイ氏ほどの大物を失ったこの都市は、また一歩破綻に近づくわけだ」
目の前のうちの兄なみに美しい男は、できのいい弟を見るような温かな視線を俺に注ぐ。
「さすがですね、ジロウ君。天国生まれとは思えないほど見事な推察です」
「…………!!」
目を見開くと、彼は安心させるように掌をひらひらと優雅に動かした。
「この差別的でやる気のない天国4区市民が、地獄に関わる仕事につきたがるわけがないでしょう。私はここの地獄管理官補助員を代行しているのです。名目上は別の男ですが」
やばい。はったりだとしても反応してしまった。いやはったりじゃない。こっちの本名を知っている。俺は口を閉ざすしかなかった。
「天国9区出身だという地獄管理官の映像も見ましたよ。見間違えるほどよく似ていますが、あれは普通市民ですね」
やはり俺の気品あふれる真の姿は他人にもわかるのか。いや他の天国市民にはまったくばれなかったから、こいつの観察眼だろう。しかし。
「大丈夫。ビル君には黙っておきますよ」
思わず息が漏れた。こいつに弱みを握られた。絶望的な気分になったが、俺だってこいつを脅せるはずだ。はったりだ。はったりをかませ!
「どうも。俺も黙っておきますよ。あなたは人を殺していますね」
「ええ。生き延びているからにはあなたもそうでしょうね」
優雅な見た目と違ってえらくタフな男だ。俺は気を引き締めた。
「ここと地獄じゃ状況が違いますよ」
「あなたも、地獄民と天国市民の命の価値は違うというのですか」
彼はすっと目を細めた。俺はこいつの倫理観が全くわからない。
「いいえ。でも俺は、どんな悪ガキであっても子どもを殺すべきではないと思うんです」
ケンはきょとんとした顔をした
「なんのことですか?」
しまった、はずしたか。てっきり彼の仕業だと思ったのだが。
「第3人外区で死んだここの子どもたちですよ。メレディスがいじめっ子だったといってましたが」
途端にケンが噴き出した。しばらく笑いが止まらない。
「……忘れてましたよ。ええそうです。確かに私が殺しました」
なに、こいつ恐い。殺した相手を覚えていないってマジかよ。サイコパスってやつだろうか。
「十五歳以下の子供は大人ほどは毒虫に刺されないって聞いていたし、地獄の子どもたちは三ヶ月はもったらしいのに、一日のうちに死んだのは妙だと思っていました」
「ええ。ただあの時は私自身も子どもでしたし、さんざんいじめられたので罪だとは思いませんよ」
「いったいどうやって」
「彼らはクラスメートでしたから。天国地区の子どもなら人外3区に一日いるだけで特別な能力を手に入れることができる。そう吹き込んだら勝手に入り込んだのですよ。なのでアレックスにあの子たちを始末してと頼みました」
本人も子どもだった。今のすかした感じからはまるでわからないが、ひどくいじめられていたのかもしれない。子ども同士のことは俺では断罪できないが、それにしたって忘れているのはひどすぎる。
「親を殺した衝撃が強くて、いじめっ子のことなんて思い出しもしませんでしたよ」
うわ、漠然と考えてはいたが、確証を持てずに言い出さなかったことを本人が認めちゃったよ。
「なんだってまた」
つい素のまま尋ねると「すべて腐っているからです」と答えられた。
「欲望のまま数多くの女と遊んでいた父も、そのことに腹を立ててわが子を危険な人外区に捨ててくる母も。逃げ帰ろうとする私を、彼女は銃を撃って脅しました。戻ったら殺すと。区外から」
淡々と語る彼は、もはや憎しみさえ表さない。深く暗い底を持つ静かな湖のようだ。
「あの、そんな大事なことは俺なんかに話さない方がいいと思いますよ」
「大丈夫です。私がビル君に話さないように、君も話しませんよ。それに9区の人間なら4区の弱体化は望ましいでしょうし」
そうなんだがなんかイヤだ。それに秘密を共有して仲を深める女の子同士じゃないんだぞ。
「それと、私ならロイ・ムロイ氏にコンタクトを取れますよ。彼は移住を考えているはずだ。9区をアピールするチャンスではないですか。カレン嬢の今後の安否も気になるでしょうし」
飛び上がりそうになった。別れたにしても彼女が完全に行方不明になってしまうのはマズい。
「秘密は守ります。すぐムロイ氏に会わせてください」
「いいでしょう」
ケンはにっこりと微笑み、すぐに連絡を取ってくれた。
ムロイ氏所有の別荘で彼に会った。ムロイ氏は俺が天国都市民であることに驚いたが、現在の9区の副首長であるうちの父の3D映像と俺を見比べてみてうなずかざるを得なかった。
「……確かに面影がある」
「公表されてる分のDNAと照合してもかまいません」
「それには及ばんよ。あの時は世話になった」
ムロイ氏は礼を述べたが目つきは鋭かった。
「だがこのことについては別だ。君は、私がカレンのことをよく知る君を忌避するとは思わんのかね」
胃が痛くなる。だが俺は必死に9区をアピールした。人権意識が高く、地獄民に対しても差別がないとは言えないが他の区と比べると絶対に人当たりがいい。それに俺は彼女のことを家族にだって話さない。全身全霊すべてをかけて誓う。
「口ではなんとでも言える。ほしいのは保証だ。そのために、君がカレンと結婚してくれないか」
…………腰抜かしそうになった。
「いい考えですね」
オブザーバーのケンは優雅に紅茶を飲んでいる。もちろん俺は拒否した。
「絶対にダメです」
「形だけでいい。副首長の次男がムコなら、誰もが納得する。君とは養子縁組をして資産を譲ってもいい。それに私が言うのもなんだが、彼女はとても美しい」
それは認める。大いに認める。もしアンジーにもケイトにも会えてなくて彼女に最初に出会ったとしたら、絶対に恋に落ちていた。今だってビルを内心罵倒するほどうらやんでいる。
「だからこそ受けられません。うっかり手を出しそうになったら自分のことを絶対に許せないし」
「カレンが許容したら別にいいではないか」
「よくないです。親友のカノジョに手は出せません」
うっわ最悪。けっぺきな女の子か。だがカレンがどんなに魅力的でも、西区であいつとキスしてた時の彼女には絶対かなわない。
「残念だよ」
交渉決裂だ。俺はため息を吞み込む。ビルのために辛い。俺も悲しい。9区のためにも辛い。
ムロイ氏は表情を出さず、少し動いて窓に寄り外を見下ろした。先ほどちらりと見かけたが、噴水や塑像のある4区に多いタイプの庭園だ。
「妻と私は幼なじみでね、私は彼女と、いつか生まれるはずの彼女の子どもといっしょに暮らすために努力した」
少年の能力は高く、青年期に入ってすぐに夢を実現することができた。迎え入れた天国4区の市民も歓迎してくれた。表面上は。けれど彼らは普通市民を本当に受け入れることはなかった。
彼の娘を誘惑し、別地区に捨てた男も4区市民の雇った男だった。捜索の過程でそれを知ったムロイ氏はすぐにでもこの地を去りたかったが、傷つき衰えた娘が自宅を目指す可能性を考えると離れるわけにはいかなかった。
偽りの微笑。偽りの社交。本心を隠したままのムロイ氏は4区で暮らし続けた。妻に事実は話さなかったが彼女は病み、命の火は消えていった。
「妻の死は悲しみと同時に私を軛から解き放った。やっとエミリーを探しに地獄に行くことができた。そしてあの子の死を知った。だが神は私に希望を与えてくれた」
確かにケンは正しい。この地に現れた孫娘はムロイ氏をこの地から解放してくれる。母のなごりを充分に味あわせた後、彼はカレンと新天地を目指すことができる。
「出る時はいっしょに来ないかとケンを誘ったのだが、この地区が滅びるのを見るまで離れる気はないそうだ」
「……それは近いのですか」
「カレンは、おなかの子を保育器にゆだねることを拒否した。それで多少時間ができたのでいろいろと考えている最中だった。たとえば5区と6区を合わせたGCPは、もはや天国4区を上回る。この二区は地区区分の変換を要求している。もちろん拒否されているが、長くなかったH3(天国地区首脳会議)も実現に向けて進み始めた。今後の情勢はわからない」
俺が生まれる前から当然のように固定されていた世の中の仕組みが変わるかもしれない。
「私はカレンに最高の環境を与えてやりたい。最初はもちろん自分の出身地である6区を考えたのだが、17地区の経験がその選択を否定した。普通地区である6区の住民は、天国市民よりも地獄民を差別する。それは非常に根深い。4区を傲慢な天国都市として憎んでいる私自身が、地獄民への差別心に捕らわれていたのだ。他の住民の心を変えられるわけがない。私は普通都市をあきらめざるを得なかった」
確かに俺の見た範囲では、普通都市民の差別心は隠されてさえいない。
「だからといって私から娘を奪った4区に残るつもりはない。そうすると選択肢は二つ、天国9区か14区だ」
二分の一の確立だったのに失敗した。14区に行ってしまえば二度と彼女に会わせてもらえないだろう。ビルは自分の子を見ることさえできない。
「ある程度は調査したが、決定打はなかった。そのうちカレンを連れて行ってみようと思ったが、今決まった」
俺はうなだれ、床に眼をやった。
「私は彼女を連れて9区に移住する」
「へ?」
驚いて顔を上げると、ロイ・ムロイ氏は落ち着いた表情で席に戻っていた。
「どんなに隠しても彼女の出身はいつか気づかれてしまうだろう。その際にどちらの対応がいいのか結局はわからなかった。君がカレンと結婚するのならそれがベストだと思うが、それ抜きでも9区を選ぶことにする。なぜなら君は、地獄民であるあの男を親友だと言った。そんな天国市民は初めて見たよ」
まだ緊張が抜けてない。彼の言葉をただ喜べばいいのに、俺は思いっきり反論してしまった。
「いえ違います。俺というよりあいつです」
「ふむ?」
少し眉を上げる彼に、こぶしを握り締めて熱く語る。
「その証拠にカレンだってあいつにべた惚れでしょう。彼女のお母さんの件があるから信じられないのもわかるし、こちらの価値観では受け入れられないこともある。だけどあいつはただ者じゃない。地獄を背負って立つとまではいえませんが、キーパーソンとなる男だと思います」
ちょっと紅茶で口を湿して続ける。
「その証拠に、あいつあなたの養子になる話を断ったでしょう。俺はともかく、あいつはどんなに恵まれていても地獄の住人だ。しかも組織を継ぐことはできない。今の生活水準を保ちたいなら絶対に乗るべき話だ。ここ4区の住人でも、ケンは別として誰も断りませんよ。その理由は聞きましたか? ……そうですか、それならわかりますね。カレンと比べ物にならないほど条件は低い女の子のためです。いえいえわかってますよ。そもそも複数の女性とつきあうべきじゃないんです。しかしあいつは二人とも愛してしまった。それでもどんな目にあおうと必死で追いかけてくるほどカレンが好きだし、上手く言いつくろってごまかそうとしないほど彼女に誠実だ。どこの天国都市を探し回ったって、あんなやつはいない」
ムロイ氏は少し眉をひそめた。
「それでも孫娘以外の女を持つ相手にはやりたくない」
いつのまにか振り上げていたこぶしをおろした。
「……当然の考えです。しつこくして済みませんでした」
俺は謝罪し、ケンと共に彼の邸へ戻った。
翌日の午後、旅立つことにした。ケンは送ろうと言ってくれたのだがそれを断り、6区と7区を通って人外8区に戻ることにした。
「車とケータイの手配はしておきました。区境まではつきあいますよ」
「何かとご迷惑をかけてすみません。このお礼は……」
ドアがノックされたので話が途切れた。ケンがゆるく文句を言いかけたとき、執事が止めるのを振り切って女性が部屋に入ってきた。
「カレン!!」
美しいブルネットはばっさり切られてショートヘアになっている。着ているのは黒革のライダースーツだ。彼女は焦る執事にぐい、と自分のヘルメットを押し付けると「逃がさないわよ」とにっこり笑った。
ビルは一瞬表情を輝かせ、それから青ざめた。
「……おまえ、その腹は」
カレンのおなかははじめてあった時のようにぺったんこになっていた。だが彼女は不敵に笑った。
「大丈夫。私たちの赤ちゃんは保育器の中にいるわ。天国都市の女性はみんな早い段階でそうするけれど、私はイヤだったの。でも、あなたと帰るって決めたから出してきたわ」
ビルは目を白黒させている。カレンは攻め入るように話を続けた。
「子どもは女の子だったの。だからおじいさまに預けたわ。地獄で女の子を育てたくない。万が一でも傷つけたくないわ。私はあの子が大事だからこそ、おじいさまに育ててもらうわ」
宣言されてビルは口を開け、少し考えてまた閉じた。
「離れて育つけど私たちの子よ。とても大事に思ってるわ。でも私はすぐにあの子の兄弟を作るつもりよ」
「…………」
「戻るわよ、地獄へ。シェリルとは対等に争うわ。いいでしょ」
決意した彼女は生き生きとして綺麗だった。ビルはまだ頭がついていけないようで、困惑したままだ。それを見てカレンはじれったそうな顔をして、抱きついてキスした。思わずビルも抱きしめる。唇を離すと彼女は強く宣言した。
「これからプレゼントを始めるわ」
ビルも俺もケンまで頭上に?を浮かべていると、カレンはいかに自分が地獄にとって必要な人間であるかを語り始めた。
「……だから私は、分数の割り算をあなたに教えることもできるの。もちろんシェリルや他の人にもね」
ーーーープレゼンか……
「だけど私一人でできることは限りがある。だから組織や双十字教の協力を得て、せめてみんなに小学校高学年くらいまでの基礎的な教育は身につけさせたいわ」
「ですが天国都市や普通都市がそれを望むでしょうか」
ケンが懐疑的に尋ねた。カレンは力強くうなずく。
「地獄民としての私はしゃくにさわるけど、質のいい労働者は生産性を高めるわ。普通市民を越えるぐらいになったら他も焦るでしょうけど、そうなるまで時間がかかるし、しばらくはどこにとっても都合がいいと思うの。先のことはまた後で考えましょう。それに私の有益性はこれだけじゃないのよ」
カレンは恋愛感情を訴えることなく、自分の存在がいかに地獄都市に有意義か述べ立てた。
「そう。資本の導入は身内ってだけでは難しいけれど、それでもコネがあるのはすごく有利よ。それに個人的な範囲で、おじいさまは私に贈り物もしてくれるって」
「天国都市の品物は、ビルだって多少は手に入るよね」
つい余計なことを言ってしまって慌てて口を押さえたが、彼女はひるむことなく攻め込んでくる。
「だけどそれは、あくまでビルとファミリーがほしがったものでしょう。おじいさまは違うわ。地獄に本当に必要だと思う本やいろいろなものをくださるわ。もちろん検閲を通る範囲だけど」
ビルはおとなしく聞いていたが、不意にカレンを抱きしめた。彼女は少し震えた。
「……お前は大した女だ。世界最高クラスだ」
「じゃあ、いっしょに帰ってくれる?」
「それはできない」
カレンの目から涙があふれる。けれどビルは続けた。
「腹ん中の子を出したばかりだろ。いくら安全で科学的だろうがおまえの体は弱ってる。しばらく養生しろ。その間学べることは学んでくれ。俺はちゃんと待っている。落ち着いてからおじいさまに送ってもらえ」
「じゃあビル……」
「おまえが必要だ。充分休んでから帰ってきてくれ」
彼女の涙は止まらなかった。ついにはビルも上を向いた。
俺とケンはぱちぱちと手を叩いた。
誤字報告ありがとうございます