10. お嬢さまのたしなみは?
バイクのスピードを上げるとじいさんが声なき声をあげたので、また少し緩めてなだめた。
「大丈夫ですから。それより、イヤだとは思いますがもっとくっついてください。カーブ曲がる時困ります」
俺だって男に密着するのは凄くイヤだがしょうがない。爺さんだって一度ヒャッハーの後ろに乗ってみれば、俺の後ろがどんなにマシかわかると思う。少なくともくさくはないはずだ。
地獄の衛生状態はそりゃよくはなく、風呂よりシャワーが多いがそれだって一般家庭にはついてない場合が多く、あっても水しか出ないものがほとんどだ。
街中にはセントーと呼ばれる集団入浴施設があるが、この名称は”戦闘禁止”の略である。武器を預けて入るのでトラブルがあったら困るのだ。普通、男湯女湯タトゥー湯の三つに分かれている。といっても小さいサイズのタトゥーはシールで隠せばいいから、タトゥー湯は自慢の彫りの品評会になっている。みなプライドがあるのでそこではめったにケンカはしない。女性は彫りが大きくても女湯に入っていいことになっているが、まれに豪快な姐御がタトゥー湯に入る。その際は彫り以外はじろじろ見ないことがマナーになっているそうだ。
今朝セントーが開いたとたんに行ってるから俺は地獄都市の中では清らかの極みだ。
ただしロイじいさんも普通都市の住人だからか清潔にしている。この人は価格の高い鍵付きの個人入浴施設を利用したそうだ。
金は充分に持っているらしい。乗っているバイクも彼の金で買った。孫娘の可能性のあるカレンに会いに行くためだ。
現在彼女は西区にいるはずだと告げるとその足で行こうとしたので押し留めた。
「ビルは組織の人間じゃないけど関係者だ。本人が許可を出さなきゃ会えないと思う」
絶望に打ちひしがれた老人を見てほって置けなくなった。俺はいったんイエヤスをやめ、彼を連れて西区に行くことにした。
「こんな、むきだしの乗り物を使うなど狂気の沙汰だっ」
「だからメットを買ったじゃないですか。地獄の人はそれすら被らない人が多いんですよ」
ちゃっかり俺の分も買わせた。フェイクレザーのジャケットもシンゲンちゃんのコネで安く手に入れた。マントはたたんで尻ポケットに入れてある。
「あんたは普通市民なのに平気なのかっ」
「こっちで覚えたんですよ。慣れると妙に癖になります」
普通都市にもあるらしいが、許可されてるのは警官以外は専用のサーキットと練習場だけであまり一般的な趣味じゃないと聞いている。
「なんにしろ、うわあああぁ!」
「舌を噛むから黙っててください」
面倒になったのでまたスピードを上げた。あまり他者と接触したくないといったのは彼自身だ。バスを使いたくないなら仕方がない。
「自動車はあるだろう!」
「一般人はなかなか持てないんです。組織のヤツとか近所の有名なお金持ちでもないあなたが現金でぽんと買ったら、絶対襲われますよ」
ぐぬぬ、とじいさんは妙な声を出してから黙った。それをいいことにいっそうスピードを上げた。
区境の山岳部を越え、紐でつないだ半分気を失ってるじいさんを連れて走りに走ると日が暮れかける前に西区の教会の尖塔が見えてきた。その両脇に教皇庁と組織の建物があり広場がある。俺はその敷地にたどり着く前にいったんバイクを止めてじいさんを起こした。
「つきましたよロイさん」
じいさんが飛び上がりそうに起き上がり「その名で呼ぶなっ」と叫んだ。フランクすぎたのだろうか。
「すみません、ムロイさん」
だが彼は手を振り回し名字も拒否した。わけがわからず「じゃあなんと呼べばいいんですか」と尋ねた。彼は一瞬言葉につまり、すぐに「じいさんと呼べ、じいさんと!」叫んだ。
そりゃ内心そう呼んでいたが面と向かって言うには失礼すぎる。やんわりと拒否しようとしたが彼は必死だった。
「しかし紹介する時こちらはじいさんですとは言いにくいですよ」
ロイ・ムロイ氏はしばらく唸り「仮名を名のる!」と決断した。
「あまりお勧めしませんね。いきなり呼ばれたとき反応できないでしょう」
「できるような名にすればいい。元名に似た……そうだ。わしの名は今日からレーベン・ブロイじゃ」
じゃ、って。急に架空の年寄りみたいになった。だがまあおじいちゃんなのは本当だから別にいいだろう。
「わかりました。一応人を連れて会いに行くとは言ってあるんですけど、到着日時までは告げてないんです。とりあえず組織の方に行きましょう」
イエヤスから電話はしてみたが、アポ概念のない地獄のことだからたまたま取った知り合いが「生きてたのか? じゃあ来いよ。ビルに言っとくわ」と軽く答えた。ボブ・サンに出禁にされてないかとひやひやしたがそんな様子はなかった。
まあ約束しても途中ヒャッハーに会ったりしたら守れないから、こちらの人は大ざっぱに受けるのかもしれない。
組織の事務の人に用件を告げると貧相な小部屋に案内されたが茶が出た。じいさんと二人で飲んでいると黄髪を以前よりもっと盛ったビルが現れて、両手をボトムのポケットに突っ込んだまま「よう」と肩を少しだけ揺らした。
「おまえも義手か? 腕ぶった切られたって聞いたが」
「お情け深い天国都市がどうにかしてくれた。元と変わらない」
そのことを彼に言うのはイヤだった。だが義手だとごまかすのはもっとイヤだった。ビルはにやりと笑って「運がいいヤツだ。義手クラブに入れてやろうと思ったのによ」と軽口を叩いた。俺は「ぶった切られる気分は味わったさ」と答えた。
ビルが右手だけポケットから出して上げたので、黙ってこっちも手を伸ばして一度だけばしりと合わせた。故意に力加減を強めにしたらしく、じんじんとしびれた。
過去の事情はカーライト卿と同じ話でごまかした。こっちも探りを入れてみたが、以前の争いの現場を見られたわけではなく後からの検証だったようで真実は掴まれていない。ボブ・サンも自分の知る詳細は口をつぐんでいるらしい。
「ってことは、おまえは天国の手先か」
「仕事はするがこちらに不利益をもたらそうとは思ってないぞ。だいたいあそこは普通市民なんか信用しない。使い捨てるだけだ」
ビルが微妙な顔をした。普通市民でさえそうなら地獄市民など虫けら扱いだと考えたのだろう。一面ではそういえるが、別の面ではそうじゃない。天国市民は技術に差がありすぎる地獄市民を保護すべき弱者と考える人が多いが、往々にして普通市民は天国をねたんで陥れようとする邪悪な人々と解釈する。
「だけど探してる人は個人的に面識があるが差別心もない素晴らしい女性だ。何とか無事に送り返してやりたい」
「前の女とは別の女なのか」
いやみでもない一言にぐさりと刺される。緑の目が軽蔑するような一瞥を与えて消えていく。
「………ああ」
首を振って幻想を打ち払う。痛みを押し殺して「ケイトはグレイス・バーネット卿といっしょにいることだけはわかっている。こちらに来たら俺に直接か、もしくは南区のイエヤスに連絡するように伝えてくれ」と告げた。
「みずくせえな。どうせいつか教皇庁来るから、そこにいてもらうかこっちの組織に話せばいいだろう」
「そうしてくれるとありがたいが、前回職務放棄になったからな」
そうせざるを得なかっただけだけど。ビルはああ、とうなずいた。
「あまり気にしちゃいないだろ。教皇さまも心配していた」
「後でごあいさつに行くよ。Jにも会いたいけどボブ・サンは遠慮していいか?」
「親父はムダな時間は使わんだろ。組織に届いた菓子は配っといたからそれでチャラだ」
こちらへの礼は普通都市特選菓子詰め合わせにしておいた。スナック菓子もたくさん入っていた。
「高級菓子もあったぞ。あの、ビスケットの細いスティックにチョコを塗ったヤツは三ツ星レストランのアペリティフに添えてあるやつだ」
南区で№3に連れて行かれたような店だと思うが誰が評価しているのだろうか。
「ところで後ろにいるじいさんは何だ? えらく顔色が悪いぞ」
バイクのせいか緊張のせいか青くなっている。俺は彼を紹介した。
「レーベン・ブロイさんだ。三十年前に行方不明になった娘さんを探して普通都市から来た」
「そりゃ難儀なこって。いなくなった頃の年は? じゃ、今四十五か」
「どうももう亡くなっているらしい」
ビルがちょっと目を白黒させた。
「こっちじゃ死体はあんまりていねいにはあつかわんぞ。悪ぃがたぶん残ってねえ」
「あったら供養したいだろうがそのことよりも大事なことがある。どうやらお孫さんがいるようだ」
「へえ。うちに来たってことは組員のヤツ? まさか俺のガードじゃないだろうな」
「いや違う」
「え、まさか俺じゃないだろうな」
元気を失っていたじいさんが凄い勢いで首を横に振った。あんな可愛い娘さんの子がこいつだったら絶望しかないだろ。
「おまえじゃないけどおまえの関係者だ」
「誰だ?」
「カレン・アンダーソンだ。まだここにいるよな?」
あっけにとられたビルが口をぽかんと開けた。俺はじいさんに指示してホログラフを起動させた。可憐な美少女の映像が浮かび上がる。
「……確かに似てるわ」
「だろ。差し障りがなかったら会わせてやってほしいんだが」
ビルはちょっと考えたがすぐに決断した。
「確か母ちゃんは死んでるって聞いたことがあるぜ。俺以外に身内がいないから本物のじいさんだったら喜ぶだろうな。呼んでやるから確認しろ」
ーーーーちょっと待て、今こいつなんと言った
俺がじいさん以上に青くなっている間にビルはちょっと外に出て連絡を頼み、戻ってきてさほどたたないうちに軽い足音が聞こえドアが開かれた。
「ビル!」
ブルネットの髪をアップにしてうなじを見せたカレンが入ってくるなりビルの首に腕を回す。そのまま熱烈にチューをかました。
俺は無言で服の隠しに手をやり、ハンカチを取り出すとキィーーーーっとかみ締めた。
二人は長々とキスをかわしていたが、ようやくカレンが俺に気づいて唇を離した。
「シロウじゃない。元気だった?」
去年だったら彼女は俺から視線を外し、仕方なくやっているんだという雰囲気を全身で出したと思う。ところが今は少し恥ずかしそうだが満ち足りた穏やかさで、こちらに向ける視線さえ優しい。
俺はハンカチを外すとたたんで再びしまった。
「まあ割と。君も元気そうだね」
からかわれたと思ったのかほんのりとほほを染め、ちょっと困ったようにうつむいた。彼女は以前よりきれいになっていた。俺は心の底で般若心経を唱えようとして一語も思い出せず、代わりに『ビルのくせに』と百万回唱えることにした。これじゃ般若心境だ。
「ええ。彼優しいし」
そんな情報聞いてない。俺は鼻の下を伸ばしたビルを無視してさっさと質問を開始した。
「カレンのお母さんは亡くなってるんだよね。いつ頃?」
唐突に聞かれて驚いたようだが、ビルが優しく手を握ったせいか素直に答えてくれた。
「八歳の頃よ。元々心も身体も弱かったからめったに会えなかったけれど」
「南区の人?」
「お父さまが『水が合わなかった』と言っていたから違うと思うけど、どこの区出身かは知らないわ」
「お母さんの名前は?」
「エミリー・アンダーソン」
「昔の名字を聞いたことがある?」
「ないわ……なに、この人?」
俺の隣にまったく目を向けてなかった彼女は、声をあげて泣き出した年寄りに驚いていったんビルの陰に隠れた。だけど言葉も話せないほど泣いている彼を見て気の毒に思ったのか、俺に「さっきのハンカチ貸して」と要求してそれを持ってじいさんに近づいた。
「ねえ、なんだか知らないけどこれ使って」
じいさんの泣き声が高くなる。ハンカチは受け取った。そのままびしょびしょにされた。
俺はホログラフを彼から受け取ってまた起動させた。彼女によく似た過去の少女が浮かび上がる。
カレンは目を見張った。
「……ママ!?」
じいさんは何度もうなずいた。カレンは呆然と映像を見つめている。説明をするのは俺の役割らしい。
「この方は君のおじいさんだ。普通都市から行方不明になったエミリーを探しに来た」
「なぜ……今頃」
「おばあさんにあたる方がショックで病みついていた。亡くなられてすぐに来たらしい」
まだ信じられないのかカレンはおろおろとビルに目を向けた。ビルは近寄ってぎゅっと彼女を抱きしめ、それからじいさんのほうに押しやった。
彼女はおずおずとじいさんに手を伸ばした。彼は両手でそれを包みこみ自分の額にあてるといったん離して双十字を切った。
「神よ、この奇跡に感謝いたします」
「……本当におじいさまなの?」
「ああ。話したいことがたくさんある。聞きたいこともじゃ」
じいさんは抱きしめてもいいかと尋ねた。カレンはほんの少しうなずき、二人はぎこちなく抱き合った。ようやく離れるとえらく背筋を伸ばしたビルがじいさんの傍により、妙に固い声で自己紹介を始めた。
「えー、お初にお目にかかります。カレンの婚約者のビル・サンダースという者です。本日はお日柄もよく、このような祝事にまことにふさわしい夕暮れでございます。若い二人としても、決意を新たにして縁ある年長者の祝福を受けこれからの人生を歩んでいく所存ですので、御陪席のみなさまにはぜひ温かく見守っていただきたいと思うしだいでございます」
カレンが誇らしげにロイ氏に自慢した。
「彼、小学校卒のエリートなのよ」
ぶつけられない怒りを込めて俺を睨むな。孫かその婚約者を睨めよ。
「このよき日を記念してぜひ夕食を共にし、誓いを新たにせんと希望します。お世話になったみなみなさまにはまた祝宴を設けたいとは思いますが、何しろ急なことでありますから当方の親族等の予定が定かではありませんのでまた日を改めまして……」
「気が落ち着かんので夕食はお断りする。だが、そちらの食事の後でカレンと二人きりになる時間をいただけないだろうか」
「もちろんでございます……ええ、めんどくせえ。もう身内なんだからざっぱで行くぜ。これからはこう呼ばせてくれ、おじい様!」
とビルはその太い腕でじいさんを抱きしめた。彼は鳥肌を立てていたが何とか耐えた。
カレンもまだ混乱したままで夕食を拒否した。ビルは興奮状態でよそにあいさつに行こうとする俺を引きとめ自室で食事を出してくれた。じいさんは別室に通されサンドイッチとか軽食を提供されている。カレンにも同じものが出されたそうだ。
俺は久しぶりのたこ焼きとうどんパスタに舌鼓を打った。やっぱりこっちで食べるとうまい。
「玉が調理法教えてくれたのでうちのやつらもけっこう作るようになった」
「まだここにいるのか。だったらいっしょに食べたいんだが」
「いや東区だ。クレイトンのとこにいる」
「クレイトン卿? なんで?」
「あの子がここにいると知ったサム・ライがうるさくてな。こっちもお得意様だからむげにもできんし。まだ危ないのかもよくわからんかったから教皇さまのとこへヤツが来たとき直接聞いてみた。じゃあ預かろうってことで、玉も『サム・ライにもたまに会うくらいならかまわん』と言っていっしょに行った」
どうにかまた会いたい。できれば天国都市にも連れて行ってやりたい。うちの後期浮世絵コレクションを見せたら喜ぶと思う。
「そっちにはいつか行くとしてシェリルは? 会えると思ったのに」
ビルが渋い顔をした。
「ああ、さっき誘ったんだが完全にすねてて出てこない」
カレンを先に呼んだのが悪かったのだろうか。じいさんの件があるから仕方がないんだが。
「それもだけどよー、ここんとこいらだって引きこもってんだ。台風と同じで気の高ぶった女はどうしようもねえな。首をすくめて落ち着くの待ってんだけど、まったく女ってヤツはやっかいだぜ」
また脳内が『ビルのくせに』と写経を始めた。さっさと本人にぶつけた。
「じゃあ男子修道院かイエヤスに行くか? 紹介状書いてやる」
「やなこった」
「シェリルとカレンをあきらめて他に行けばどうだ」
「バカ言うな。あいつら最高に面倒だが最っ高にかわいいんだ」
くっ、離間作戦は失敗に終わったか。のろけまでぶつけやがって。少々の苦労なんかじゃバランス取れないほど可愛い子たちをなぜこいつが独占するんだ。こっちは女を追いかけてばかりなのに。
「納得いかない。おまえだけ幸せになりやがって」
「まあ男の格の違いだろうな。だがおまえも小さな幸せに目を向ければいいじゃん。妻と婚約者ならまだいけるだろ」
チナミさんとミリアムのことか。
「あの二人どうしてる……って知らないよなあ」
「今は知らんがおまえが消えた後、姉ちゃんがサム・ライに連絡したから伝わってるんじゃないか。その後来ねえし。生死不明で行方不明、他都市の干渉の可能性ありって事案だったしな」
なんせ地獄だし、俺は重要人物でもないから大して調べられたわけじゃないらしいが。
「ま、生きてりゃ新しい女にもめぐりあうだろうし過去の女にも会えるかもしれんぜ。おまえがいなくなっても赤毛緑目の美女には気をつけてたが、少なくとも俺とガードは見かけなかったが」
と言ってから少し考えて「いや白髪緑目の背の高いばあさんは見たことあるがありゃ外していいだろ」とつぶやいた。教会には様々な老若男女が集まるからそんな人もいたらしい。
「教皇さまの面会もけっこうあるからな。よその地獄からの巡礼も来る。昨日も地獄二区から集団で来てたぜ」
大陸の東にある地獄都市で、西にある十七区とは逆の位置だ。ここに来るためには普通地区の許可を取らなければならない。
「つれてたケン・ハイネってやつがすかした野郎でさ、女に色目使うもんだからきゃーきゃー言われやがって実にいけすかねえ」
「これだけモテてるんだから他はどうでもいいだろ」
「納得いく相手なら別だ。親父とか南区の№3とかな。だがあんなにやけた野郎が騒がれてっと腹が立つ」
へえ、こいつ自分と身内以外もイケてると認めることあるんだな。
「無視して自分の女だけ見とけよ」
「ああ。だがきゃーきゃーも言われてえな」
贅沢な悩みだ。無視して最後のたこ焼きをすくい上げた。
食後に行ってみるとJは留守だった。だからそのまま教皇庁に向かい、くつろいでいる教皇さまに面会許可をもらって挨拶をした。彼は温かな笑顔を向けてくれた。
「無事でよかったわ。事情はカーライトはんからもう聞いてたけど、腕ほんまに大丈夫なん?」
「はい、あちらで処置してもらいました」
「そりゃよかった。うちにもそんな技術あればええねんけどな」
申し訳なく思ってちょっとうつむくと「あんたは気にせんでもええで」と優しかった。
それから少々他の人の噂話とかして、グレイスとケイト、アンジーのことも再び頼んだ。残念ながらアンジーを見た場所についてはいまだに思い出してはいなかった。
「落ち着いたらまた来はったらええ。仕事ほしいときは協力しまっせ」
「ありがとうございます。戻ってから一度あちらの教会に行きましたが、もう俺の教皇さまはあなただけだと実感しました」
いろいろな人の敬愛に慣れている地獄教皇の目がふいに潤んだ。え、俺もしかして教皇さま泣かせちゃった、と真っ青になっていると彼はすぐに天井を向き、涙を止めるとまた微笑んだ。
「年取ると涙もろくていかんわ。嬉しいこと言ってくれはるやないの。ほんまあんさんはええ子や。またおいで」
もう一度ご挨拶して席を立った。
その夜は組織側の一室に泊まった。もう女を呼ぶかとは聞かれなかった。ビルとは違う硬派の男の生き様が認められたのかもしれない。うちの地域ではそんなヤツを「ポルコロッソみたいなヤツ」と呼ぶ。意味は知らんが俺も一歩近づいたかもしれない。
最強のボスを有する西区ではお膝元で抗争の心配もないだろうと安心してぐっすり寝ていると、夜明けにやかましくなって目が覚めた。なにごとかと部屋を出ると取り乱してわめいているビルがいた。
「なんだ?」
「カレンがっ、カレンがいなくなった!」
ぎょっとして確認した。
「じいさんはっ?」
さらって普通都市に逃げ帰ったのか。俺はなんてことをしてしまったんだ。
だがビルは首を横に振った。
「違う。じいさんはいる。一応見張っているが彼も取り乱している」
「足は? おまえの車か?」
「いや。じいさんの乗ってきたバイクだ」
え、俺の転がしてきたあれか。確かに新車でいい走りだったが、運転者は誰なんだ。
「カレンに決まってるだろう!」
「動かせるのか?」
「あたりまえだろうっ! あいつ南区のお嬢さまだぞっ」
この辺じゃお嬢さまはバイクのスキルがあるのか。
「銃とバイクと壷投げはレディーのたしなみだろうがっ」
「戦車道ではなく?」
「戦車なんかあったら普通都市と天国都市に滅ぼされるぞっ。あるわけないだろ!」
「ちなみに壷投げとは?」
「なんか宇宙時代の伝説で、皇帝の体の弱い美貌の寵姫が弟の身内を守るため壷を投げた事を起源とする貴婦人のたしなみ…って、そりゃどうでもいいだろっ」
ごもっともで。ビルは激高していた。そりゃわかるがいなくなった原因を突き止めるにはもっと落ち着いて、じいさんを尋問しなきゃならない。俺はどうにかなだめようとしたがビルの声は更に高くなった。
「落ち着けるかっ。カレンは、カレンは俺の……」
大事な嫁だ、か。ところが予測は外れた。
「俺の子を孕んでいるんだっ!!」
くらくらとめまいがした。俺は気を落ち着けるためにじいさんのいる部屋まで彼を引っ張っていった。