2. 偽善の味はほろ苦い
夕食の席で兄にうながされ、今まであったことを話せる程度に話した。
「悪手が多いね」
彼は穏やかに指摘した。俺が呑み込んだ双十字教と組織の関係性についても疑問を呈した。
「組織というものは必ず変質する。今の時点でトップが比較的善人だとしても恒常的ではないよ」
「だから今、条件がかなりいいうちに少しでも地獄都市を改善すればいいんじゃないかな」
「ムダだよ」
兄はぞっとするほどの冷たさで打ち切った。
「もともとの資質が低すぎる。地獄市民はどんなにがんばったところで地獄市民さ。普通市民も同様だが」
もちろん彼は人前でそんな意見を口にしたことはない。偏見も差別も見せない。しかし彼は第九天国都市の有力な議員である父の第一秘書だ。物事の本質を見極めるすべに長けている。本気で差別心など持たないと自分自身のことを信じている一般天国民より冷徹な見方をする。
なぜだか反論したかった。だけど説得する手段もなくうつむきそうになった。どうにか首を立てて「世話になった人たちに連絡したいんだけど」と言ってみた。
「商品券でも贈っておくよ。普通都市名義のやつにカタログをつけて、無記名で」
そんな雑事は使用人が適切に処理するだろう。俺は名前を挙げるだけだ。そのことに痛みを感じるなんて兄は想像もしないはずだ。正餐室の重厚な家具に囲まれたまま、また下を向きそうになった。
地獄都市で倒れてから一週間以上たっている。さすがに最初は医療施設に収容されたらしい。今は自宅の医療システムによって治療されている。必要な時に眠りが浅いとベッドから揮発性の睡眠誘導剤がわいて強制的に眠らされる。
兄さんはけっこう過保護で、しばらくは外出を許さなかった。だけど見舞客は許可してくれた。最初に俺用の客間に来たのは意外な相手だった。
「あたしのこと、思い出せる?」
ハニーブロンドが甘く輝く。ハイスクールの時の二番目の彼女だ。
「ああ。久しぶりだね」
「よかった。もうすっかり元のジロウね」
彼女はまだ一歳にもならない赤ちゃんをベビー用モビールに乗せていた。目元が似ている。
「結婚したの?」
通常の天国市民の平均結婚年齢は三十半ばだ。二十代前半に結婚するのは相当珍しい。
「うん。ごめんね、ずっと謝ろうと思ってた」
いや当時はちょっとめいったけどそんなに引きずっちゃいない。むしろ他に気を残したままで失礼だったかもしれないと今では思える。そんなことをごく婉曲に語ると彼女は「違うって」と指先だけを横に振った。
「あたしあの頃必死だったの。あたしなんて容姿以外は割と凡庸だからなるべく若いうちにゲットしなきゃいけないって思って。ジロウのことも割に好きだったけど、結婚するならイチロウさんがいいなと...」
天国都市では平均寿命も長いしアンチエイジングも進んでいるから、三十まではモラトリアム期間だ。兄のように早く世に出る人ももちろんいるけれど、大抵はゆったりとしている。
「そうなんだ」
「画策してどうにか会ったけれど、評判通りすっごく素敵な方なのになんとなくピンとこなくて。他の名家の人もあんまり。そのうちスペックは比べものにならないけれど、全身がドキドキする相手と恋に落ちて早婚しちゃったの」
地獄でカレンに聞いた話を思い出す。DNAを操作された普通市民上がりの天国市民は、同じような人間とくっつくようにプログラミングされていると。
————確かこの子は普通市民あがりの三世だ
俺の内心の気持ちの揺れに気づかない彼女は、昔よりずっと優しい表情をしている。
「おめでとう。君が幸せで嬉しいよ。こんなに美人で素敵な女の子とほんのちょっとでも縁があったってだけでこっちも幸せだ」
まっすぐ目を見て言った。やっててよかったホストのバイト。彼女はほっとしたように笑い、赤ちゃんもつられたように笑った。
「可愛いね、君に似て」
本心から言うと赤ちゃんは手足をばたつかせて反応した。
昔のガールフレンドのうち無難な何人かと、それなり親しかった友人たちが交互に尋ねて来てくれた。記憶喪失中のことは「思い出せない」で通した。
「どうだった、その時の俺」
「微妙なカンジ? なんか雰囲気違うっていうか、ジョーク通じないって言うか」
「ピアノが変だったな」
「ピアノ? ひどかった?」
「逆だよ。一曲しか聞いてないけれど普段より上手かったと思うよ」
「ひどっ」
「上手いんだよ。上手いんだけどなんか......新市民ぽいと言うか」
「そうそう。突っ込めない感じ」
普通都市で財を築き、条件をクリアーして天国市民になった人たちを俺たちは彼らがいない時は新市民と呼ぶ。誰も差別などしたりしない。都市を活性化させる貴重な人材だとわかっているからだ。実際天才と呼べる人も多くて、更に天国都市をあちらで可能な程度リサーチして最低限の教養を身につけてくる人もいる。
そんな人たちの音楽は技術が先んじて少しゆとりのない場合も多い。でももちろん誰もそのことを指摘しないし、それどころか明らかなミスがあっても触れない。だけど生粋の天国市民同士だとそこはもちろんいじられる。俺なんか小学生のとき珍しく代表やって外した時のことを未だに言われる。
「抜け感がないんだよ。あっちの人でもプロの音楽家はこなすけど」
「音戻ってると言いな。元の方が好きだ」
今度連弾しようと言われたが、人を殺した手ではやりたくなくて言葉を濁したまま見送った。
過去に第九区の最も有力な首長であり、今も政界に圧倒的な影響力を持つ母方の祖父が住む本宅にもあいさつに行った。喜んでくれたがまだ八十なのにかなり老け込んでいた。愛娘の母が死んでからアンチエイジングもかなり怠っているようだった。
「......お元気でいてください。こんな様子を見たら母も悲しみます」
「おまえはあの子に似て優しい子だね」
彼は寂しげに微笑んだ。それでもその後は執事を呼んで俺のパーティのための用意を命じてくれた。
本宅から人が派遣され、パーティの設営は整えられた。と言っても対外的なイベントじゃないからささやかなものだ。
自然に入った模様を生かした色大理石の床はそのままだし、あちこちに配置したテーブルもマホガニーが多い。もちろんプロジェクションマッピングやホログラムを使う演出はしない。
それは天国では来たばかりの新市民を意味する。伝統ある家は代々伝わる古いものを飾ることがステータスだ。非効率こそ善であるという風潮さえある。
「ねえ、これはいったい何?」
「後期ウキヨエの一種だよ」
ちょっとつきあったけどすぐにやめて友人関係に移行した女の子が、今日のために飾られた額を見て首を傾げた。
それはサム・ライに言わせるとワビ・サビにあたるもので、前期のシャラクやウタマロ、ホクサイなどとは全然違う画風のウキヨエだ。
「六人みんな同じ顔ね」
「永遠性を表す松の擬人化らしい。同一でありながら全て違うというZenの哲学性を顕著にした作品だってさ」
亡き母に聞いた通りに説明した。彼女は尊敬のまなざしで俺を見た。
「さすがヤマモト=タナカ家となると格が違うわね。こっちは?」
「キース・へリングあたりと同系統のものじゃないかな。教育関係の風刺を込めた作品だと聞いたことがあるがデフォルメが過ぎてよくわからない」
鮮やかな黄色の地に小さな黒点の瞳とチェシャ猫のような口元だけが描かれている。全身像だと触手が生えているらしいがうちのにはない。
「パーティのたびに別なの飾ってるから同じの見たことないわ」
「祖母の資産だ」
母が受け継いだものだが今や彼女もいない。ちょっとした苦さを胸に押し込めて、彼女を奥にエスコートした。
黒のユニフォームに白いエプロンのメイドやウェイターが銀のトレイに乗せた飲み物を進めている。人々はその数が多いことを評価の対象とするが彼女たちを人として見ているわけではない。もちろん”人道的”には扱う。だけど年少者においてはその限りではない。
急がしい父はスピーチが終わるとすぐに邸を出た。俺はふてくされた表情を隠して礼を言って見送る。なんのこたない、俺だって大いに人目を気にしている。去り際に彼が向けた一瞥にさえ笑顔を見せた。茶番だ。
苦さをシャンパンで流してあちこちに顔をつなぎ、少し疲れて庭園の一角に向かった。
蛍光色に輝く今どきの品種ではなく、いにしえに作られた青薔薇が繊細な色合いを見せて午後の光に映えている。青薔薇も遺伝子組み換えを避けてロザシアニンを含むものを尊ぶのが天国流だ。うちのは特にテーマを持たせていて、紫から青に変わりつつある時期の花をそろえている。
青龍やわたらせ、ターンブルーなどのレトロローズが咲き乱れる中に淡い水色のドレスの女の子とメイド服の子がいる。どちらも十二歳くらいだ。ドレスの子はクッションの置かれた黒い籐椅子に座り、メイドの子はその前でひざ立ちしている。
招待客にその年頃の子は一人しかいないからすぐにわかった。遠い親族の子で、親に何らかの功績があったかパワーバランスの調整のために呼ばれていた。
「ホログラム使ってる人いたじゃない! 嘘つき!」
水色のドレスの子はメイドの子の頬を打った。白い肌が赤く染まる。こんな場にお嬢様に付き従ってくるんだからそりゃきれいな子だ。主人よりもずっと。
「私が目立つのがいやなんでしょう! 自分ばっかり目立ちたいのよね!」
子ども向けのパーティではホログラムを使って、主役の子の全身を光らせたり妖精を周りに飛ばしたりすることがよくある。だが、大人は新市民でもない限りそんなことはしない。確かにホールにその手の人が一人二人いて、みんな慎重に誉めてはいたが。
普通の天国市民は、素材である自分自身やドレス、アクセサリーに凝る。みんな家のメディカルシステムの精度を高めて、ピカピカの肌と髪で上質な衣装でやってくる。ドレスコードの範囲内で珍奇な格好をすることはあるけれど、それも納得できる程度だ。
「あっちこっちに色目使っちゃって。どうせ玩具にしかならないくせに」
メイドの子はひどく悲しそうな顔をしている。ふいにミリアムやリタを思い出した。
「レディーはそんなことを言っちゃいけないよ」
葉影から傍に寄るとその子は飛び上がりそうに驚いた。俺はまず、メイドの子に微笑みかけて会場にジュースを取りにやらせた。
「大人でホログラムを使ってる人のほとんどは、まだこの都市に慣れてない人なんだ」
できるだけ優しい声を出す。怯えを取り去ってやるのが大切だ。
彼女は困ったような顔でこちらを見ている。
「それに君は今日この会場でただ一人のリトルレディなんだからそんなもんなくてもよく目立つよ。水色のドレスも似合っているし」
「わかってるわ。でも、あの子次から次に声かけられてそのたびにニコニコするの」
いらついた様子でドレスのスカート部分をぐしゃりとつかむ。
「それ見てるとイライラするの......あたしにだけ笑ってればいいのに」
あー、こりゃ他人が関わるのは難しそうだ。だけどこのお嬢ちゃんは自分でもどうすればいいかわからないみたいだし、女の子の気持ちはよくわからないからって放置するとなんかマズい方に行きそうだ。
「今のあの子は悲しそうだった。でもね、君がこんなこと繰り返してたらそんな顔さえしなくなる」
「え?」
「大人のメイドさんたち見た? みんなにこやかだけど無表情と同じ仕事用の顔だ。彼女にそんな顔させたい?」
彼女は困ったような顔でおずおずと首を横に振った。
「君にだけ微笑んでほしいのなら大事にしなきゃ。ほら」
庭園は完全に管理されているので、俺が薔薇の首をつかむと自然にカットされた。二つとって両方とも渡してやる。
「神の愛って名の薔薇だ。一つは君にもう一つは彼女に。パーティ中はうちの人間しか取れないから持ってるだけでもホログラムより目立つと思うよ」
グラスを抱えて駆けてくる少女が遠くに見える。ドレスの子をうながした。
「君も走っていくんだ、すぐに!」
勢いにのまれたらしく彼女はぱっ、と立ち上がると凄い勢いで走り始めた。
主人に飛びつかれてグラスを必死に遠くへ離すのが見える。女の子たちは何かを語り合い、薔薇の花をメイド服の胸元のポケットに入れてやったりジュースを渡したりするのが見える。声は聞こえないが二人とも笑顔になった。
過去と同じく偽善の味はなかなかほろ苦い。ちょっと肩をすくめて別の薔薇を摘んだ。
「......私にも一つくれないか」
背後から声がして振り向いた。ミッドナイトブルーの瞳が俺を射抜く。
「............ケイト」
「久しぶりだな、ジロウ」
歩み寄って来た彼女は俺の手の中の薔薇を取り上げた。
「ルシファーだね。君には似合わない」
「......よく合うと思うよ」
「気のせいだ」
彼女は薔薇を自分の地味な髪飾りに差した。温かみのある栗色のショートボブが急に華やかになった。
「会えて嬉しい」
「......僕もだ」
薔薇が甘い香りをたてる。目眩がしそうだ。それでも彼女から目を離すことはできなかった。