19. 水がなければ生きられない
デビュー前の崇貴卿の日常は忙しい。決められた祈りの時間もあるし、筋トレや銃の訓練も教義の勉強もある。一般庶民の好むエンタメもある程度はおさえなければならない。
「ボケ方が遅い!」「なんでやねん!」「ぬるいっ」「かなわんなー」
なんか叱られている時に出くわしたりもするが、銃の訓練以外はスルーする。
俺自身は修道院内にいる限り労働の義務もなく放置されている。畑仕事を手伝ってみようと行ってみたが「おめには才能がね」とお断りされた。皿洗いはやったことがあるからと売り込みに行ったが「太陽エネルギーによる食器洗い機を使ってますから」と拒否された。そうじも似たようなものだ。ようやく薬草園付属の小屋で薬草管理の仕事を手伝うことができた。
「エキナセアは抗ウイルス性や抗菌性が高く免疫機能を向上させる。お茶として使うが飲み過ぎるとめまいなどがおきることがある。グリセリンを加えてシロップにしたものがこれじゃ」
七十歳ぐらいの老修道士が、五十歳くらいの助手とともにハーブの適切な処方を教えてくれた。二人を手伝って乾燥させた薬草を刻んだり、種を取ったり煮出したりした。
「合成の薬剤は使わないのですか」
「基本的にはな。ケシだって育てておるから痛み止めもあるんじゃよ」
口調でちょっと玉を思い出した。会えたそうそう別れることになって残念だ。
昼はそうやって紛らわすことができたが、ここでは夜は祈りと眠りのためにある。そのどちらにも、緑の瞳と魅惑的な曲線が影を投げかけて集中できない。俺は祈る代わりに心の裡でアンジーの名を呼び、浅い眠りでうなされた。
————『お別れです、坊ちゃん』
名さえ呼ばれずに一方的に別れを告げられた夜や、あの男の寝室から出てきた朝が無数の刺となって心臓を突き刺す。正直痛い。
かってなもんで数多い自分の不貞は平気なのに、たった一度のその朝はゾンビより始末が悪く何度でもよみがえる。
ーーーーやめろ
思い出したところで過去は変えられない。それでも脳髄はシミュレーションを繰り返す。あの人が死んだ瞬間君の腕を取って逃げてしまえば良かった。いやそれよりもより道なんかせず、どんなに卑怯でも自分の命を人質にしてでも先に進むべきだったのかもしれない。
正直彼女を思い出すことはいろんな意味でキツい。また逃げたくなる。今真横に別の温もりがあったら、間違いだとわかっていても繰り返しそうな気がする。
————おっさんしかいない場所でよかった
無意識に双十字を切り、心をなだめた。
二週間くらい、そんな暮らしを続けた。
「それではなんとか修道院に戻ってきてください。他の方向の端は全て高い壁に閉ざされているので突破は不可能です」
「案内人もなしにですか! あんまりだ」
「神と仏のご加護を」
ブラザーのジープは行ってしまった。俺は呆然とその方向を眺めた。が、ハートレイは意外なことにしっかりとそちらを見つめて「少しでも跡が残っているうちに行きましょう」と俺をうながした。
赤茶けた砂岩が広がる。見渡す限り草も木も生えていない。っていうか、生命の気配をまるで感じない。
これは彼の卒業試験みたいなもので、修道院から三十キロ以上離れた荒れ地に放置された。なんで俺がつきあわされているのかというと、ハンデの一種らしい。弱気になった一般人を励ましつつ生還しなきゃならないそうだが、逆になる可能性は高そうだ。
「戻れたらいっしょに北区に帰してくれるそうですから」
「南区から連れてこられたのにっ」
太陽は東だ。今はまだ快適な気温だが、暑くなると思う。飲み水はそれぞれボトル二本分しか持っていない。食料はもっと少ない。遭難しても助けが来なかったら生き延びることはできないだろう。
俺たちは暗い顔をしたままひたすら歩いたが、岩場が切れると砂漠としか言いようのない地域になり、車の跡は途絶えた。
「ここは人外地域?」
尋ねると彼はうなずいた。
「第八区ですよ。修道院はここの西端にあるのです」
人が住むには不向きな砂漠の多い区で、ニョロちゃんはいないらしいが有毒性の生物などがいると言われている。
「実際はどうなんですか」
「サソリだったら修道院にも出ましたよ。一匹見たら三十匹はいるって、よく駆除に必死になっていました」
うかつに出会わないことを祈る。だが砂に足を取られながら何時間も、全く変わりばえしない景色の中を歩いていると、サソリでもなんでもいいから出てきてほしいという気分になった。
「本当に方向こっちでいいの?」
「大丈夫です」
ハートレイは断言したけど不安になり、こいつ安心させようと嘘ついてるんじゃないかとかよけいなことを考え始めた。
日は高くなりひどく暑い。でも直射日光が恐いので、マントの下に着ていたシャツを脱ぎ貸してもらったリュックの中に入れた。ハートレイもカソックの中は脱ぎ、同じように荷物にしたらしい。
汗は出てもすぐに乾いていく。時たま風にあおられて、砂がまるで横殴りの雨のように吹きつけるため、顔も体も耳の穴さえざらざらしている。
ものすごく喉が渇く。貴重な水を飲み過ぎないように努力しているが、全身がひからびてしまいそうで、ついまた手を伸ばしてしまう。
俺たちは黙って歩き続けたが、先に俺の方が耐えられなくなった。風が収まって口を開けられるようになった途端、大して興味もないのに、なぜ普通都市から地獄に来たのか尋ねてみた。
「......私のいた都市は地獄都市と隣り合わせていたので、よく難民が塀を乗り越えて来ようとしました」
警備隊は警告は与えるが止まらなければ撃つ。普通都市の公的機関は”トミーガン”と呼ばれるドラム型弾倉のついた旧式のサブマシンガンを常用しているため、ほとんどが蜂の巣となった。
「二十世紀にマフィアなんかが使っていたあれだね」
「そうです。もっと進んだ火器は申請しなければならないので、相手がどんなに無力な一般人であろうとも穴だらけにされました」
そうしなければ自分たちの暮らしが侵害されると、子どもの頃から学習させられ知っていた。
「悪いとは思っていませんでした。月に一、二度はあることでしたし。嫌なら来なければいいし」
どうやっても侵入は不可能と知った地獄都市民は大人が逃げ込むことはあきらめ、子どもだけをそこに押しつけることにした。
無理矢理投げ込まれる子どもたち。最初のうちこそ保護したが、すぐに手荒に扱われるようになった。
「投げようとする親を撃つ。そのことで幼い命が失われることになっても市民はそれを当然だと思いました」
非難する人たちもいたが、就学と生活保障を義務としなおかつ性的虐待には通常以上の厳罰の付随した養子法が制定されると、自然と声は小さくなった。かわいそうなら引き取れ。そう言われるからだ。
「でも幼い子どもが命を落とすことはイヤですね。私はどうすればいいか考え、双十字教に入りました。司祭の資格を得てからこちらに来ました」
「宗教で人を救えると信じてる?」
「多少は。それとモラルの向上が安定を生むと信じています」
地獄都市では犯罪が日常茶飯事だ。人々の意識が変わり環境が良くなればそれもかなり減るとハートレイは考えた。
「回り道ですが、ほんの一足でも先に進むことができればと思っています。毎日自分の無力さを嘆きますがそれでもあきらめてはいません」
恥ずかしそうに微笑むハートレイは、なんだかちょっと聖人に見えた。
岩場にたどり着いた時は疲労のあまり、目がかすみかけてた。修道院近くではなかったが、ある程度日射しもよけられ砂も打ちつけない。俺たちはそこに身を投げ出すと死んだように眠った。
目が覚めた時は真夜中だった。ハートレイは先に起きていて神に祈りを捧げていた。俺たちは空を見上げて不確かな方角を当て込むと、そちらへ向けてふらふらと歩き出した。
岩場はすぐに途切れてまた砂地が続く。懸命に歩いたが何もない。単調な景色に気がおかしくなりそうだ。全く同じ所をぐるぐると回っているような気分になる。
夜が明ける。二本目の水も残り少ない。絶望的な面持ちで足を運んでいると、ハートレイがどう、と倒れた。
差し出した俺の手をつかんでいったんは立ち上がったが、二、三歩よろめいてまた倒れた。
「休憩しよう」
俺もだいぶ消耗している。重さに耐えられなくなり空になったボトルを捨てた。地球に厳しくなっている。彼も申しわけなさそうな顔でボトルを取り出してそこに置いた。
「オートマグ持って来てるだろ、そっちを捨てたら」と言ってみたが「いいえ、これは預かったものですから」と首を微かに横に振った。俺たちはそのまましばらくうずくまり、両手で顔を覆って砂から守った。
ようやく気力をかき集めた俺がうながすと、ハートレイは何度か立とうと試みたが失敗した。
「......これ以上は動けないみたいです。置いていってください」
荒い息を吐きながら切れ切れに言った。
「がんばれよ。きっともうすぐだ」
「......無事にたどり着いてください。ずっと祈っています」
か細い声でそう言うと、震えながらなんとか双十字を切った。俺の励ましに応える余力は残っていないらしい。が、必死に身をよじってクルスを外し、俺の手に押しつけた。
「これを、シェリーに」
恋心が砂にこぼれる。渡すとその手はだらりと落ちた。
「おい、しっかりしろ」
彼は目を閉じ、乾いて切れた唇を舌でなめた。よけい悪化するからやめさせようとすると、わずかに眉を動かした。
「............持っていってください」
「何を? 双十字は入れた」
「............水を。一本手をつけてません」
驚愕した。こいつは何時間耐えていたんだ。
「おい、自分で飲め」
慌てて彼の荷物から取り出して口元に運ぶと、彼は必死になって拒んだ。
「......あなたを、巻き込んですみませんでした」
「いい。いいから飲めって」
「二人死ぬより一人生き残る方がいいです。あなたに神の祝福を」
ハートレイはそれきり口を閉じ、頑として開けない。うなっていると突然、彼の荷物が音を発した。なにごとかと思って手に取ると、聞き覚えのある声が響いた。
「子羊と羊飼いよ。無事かな」
薬草小屋のじいさんの声だ。驚いているとハートレイが「院長」と呟いた。あの人が院長だったのか。
「そろそろ限界のようじゃな。迎えに行くからその水は飲んじゃいなさい」
「へ?」
「盗聴器とGPSは仕掛けておる。すぐに行くから待っていなさい」
それでも頑固に水を拒否するハートレイの顔に注ぐようにして無理に飲ませた。修道院の人はすでに近くに待機していたらしく、さほど待たずに無事回収された。