第2章
『夢商人と夢を見ない少女-1―』第二章です。
あれから、どうにか泣き止んだ司の顔をキョースケは先ほど取り出したタオルを使って拭いてやると、手を差し伸べる。
「ホレ。手、掴まれ」
それに対して、司は少し考えると、渋々といった感じでキョースケの手を借りて立ち上がった。すると立ち上がる途中で、ペタンと、また尻餅をついた。
「ぬ?」
キョースケが怪訝そうに司の顔を覗き込むと、
「腰、抜けちゃったみたい」
たはは、と乾いた笑みを浮かべていう司。キョースケはそれをにたいし、大きく溜め息を吐くと、司の腕を引き、そのまま司をおぶった。
「なっ! き、キョースケっ?」
いきなり背負られた驚きと、この年になっておぶられるという事への羞恥で、司は顔を赤くさせ、上ずった声で叫ぶ。
「ったく。しゃあねぇなぁ。背負って家まで送ってやらぁな。ハルも、行くぞ。あ、あとそこにある俺たちのカバンを持ってきてくんね?」
そういって、キョースケは司を背負ったまま歩き出す。
「えっ? は、はいっ」
ハルは、まさか自分が呼ばれるとは思わなかったため、驚いてどもる。少年の言葉を素直に聞く義理もないのだが、先程助けてもらった恩がある。そう思い、地面の上に投げ捨てられるように落ちている二人のカバンを持って、たたたっ、と小走りでキョースケに付いていく。
「お、おいっ! キョースケ、降ろせ! 自分で歩けるから。腰っ、もう治ったから!」
司は自分を背負って降ろそうとしない少年の背中の上でジタバタと暴れる。キョースケは、それをまったく意に介さず、ワガママを言う子供を相手にするような口調で答える。
「はいはい。分かったから、それ以上騒ぐならケツ揉むぞ」
キョースケのセクハラ発言を受け、司は赤面する。
「な、なな!」
今にも頭から湯気を出しそうな勢いで顔を真っ赤にさせて狼狽える。
「それがイヤなら大人しくするこった」
キョースケがそういうと、司は、
「うぅぅ……。キョースケのバカ……」
悔しそうに唸ると、そのまま諦めたのか大人しくなり、キョースケの首にぎゅっと腕をまわす。
キョースケはそれを合意と確認すると、満足そうに笑う。
「んじゃ、このまま司の家まで送るから、それまで寝てて良いぞー」
「誰が寝るか」
そういって、ぎゅうぅっ! と首に回していた腕で強く絞める。
「ちょ、まっ。それは、アウ、ト……」
苦しそうに呻くキョースケ。それを見て気が済んだのか、腕の力を緩める。
「アハハハ」
二人のじゃれ合いを、後ろの方から見て、おかしそうに笑うハル。
「? どうした」
キョースケは、顔だけ振り返りながら、そんなハルに怪訝そうに訊ねる。司も、ハルの方に顔を向ける。
「済みません、つい。……お二人は本当に仲が良いな、と思いまして」
少し羨ましいです、と声に出さず心の中で呟く。
それからしばらく、誰も口を開かず、静かにしていた。
「すぅ……」
キョースケは、背中から小さな吐息を聞きとり、そっと司の方を振り向くと、司はキョースケの肩にアゴをのせて、そのまま眠っていた。
「あらら、本当に寝やがったよ、この子は」
苦笑混じりに、キョースケが呟く。
「ホント。安心しきった顔で……。気持ち良さそうですね」
隣にきて司の顔を覗いたハルがそっと微笑む。そんなハルにキョースケは声をかける。
「なあ、ハル」
「なんですか?」
話しかけられ、何か用かと答えるハル。キョースケは、自分から話しかけたくせに、少しためらいを見せる。
「あー、その。なんというかな、お前、本当に夢商人なのか?」
「な、なんですかっ! まだ自分の事疑ってるんですかっ?」
先程と違い、少し怒気を孕んだ『なんですか』。
心外なことこの上ないキョースケの質問に、頬を膨らまして抗議の意を示す。
「そういう訳じゃねぇよ。ただ、本当に想像と違い過ぎてな」
「いいですよ、後で絶対に認めさせてあげますからっ」
不貞腐れ、ハルはふいとキョースケから顔をそむける。
橋を渡ってからはここまで、キョースケもハルも一言も喋っていない。
「スゥスゥ……」
司の寝息が、沈黙の中に、小さく響く。
するとキョースケは、思い出したようにハルを呼ぶ。
「何か、ご用ですか?」
「イヤなに。司の家に連絡は入れといたほうが良いからさ、ちょっとオレのカバンからケータイ取ってくんね?」
「あっ、はいっ。ちょっと待っててください」
そう頷いてハルは、カバンを漁る。
「えぇっと………………。あ、ありました」
はいっ、とキョースケに携帯電話を渡す。
「む。サンキュ」
そういって受け取ると、携帯電話をいじり、司の家へ電話した。何度目かのコール音で、ガチャッと、電話の取られる音がして、
『はい、もしもし?』
少しかすれ気味の女性の声が出てきた。司の母、尚美だ。
「尚美さんですか? キョースケです」
『あら、キョースケ君? どうしたの? 司ならまだ家に帰ってないわよ? もしかしてあの子、今そっちにいるの?』
「あー……居るには居るんですけど、なんかはしゃぎ疲れて今は寝てます」
流石に本当のことを一部始終話すのはまずいと思い、キョースケは当たり障りのないように答えた。
『あらあらあら。若いって良いわねぇ。で、どこまでいったの。ちゃんと避妊はした? ちなみに、今日は安全日だから、否認しなくても大丈夫なのよ? 司、言わなかった?』
「そんなことやってませんよ。尚美さん。それ、セクハラです」
尚美の言葉に、キョースケは半ば呆れながら答える。
『あらそうなの? 残念ね~』
何が残念なのか、なぜ残念なのかキョースケはまったく理解できなかった。というか、理解したくなかった。
『でもほら、司って、かなり奥手でしょ?』
「奥手というか、初心過ぎるだけですけどね」
『そうね。だから、その辺は男の子のキョースケ君が手取り足取り、ちゃんとリードしてあげなきゃダメよ』
何の話だよ、と思いながら、キョースケは話を変える。
「そんなことより。尚美さん、いま司を家まで運んでいますんで、できればそれまで家を空けないでくれると助かるんですが」
『やあねぇ。それより、ホテルにでも連れ込んで既成事実の一つでも作ってきなさいよ。きっとあの子も喜ぶわよ』
尚美は、どうやってもそちら側の話しに持ち込みたいらしい。
「そんなことした日には、和馬の阿呆に殺され兼ねないので遠慮しときます」
そうはっきりと断るキョースケ。和馬とは、司の父親の名前だ。司のことをいたく溺愛している。その為、司と仲のいい男友達であるキョースケの事をあまり、というかまったく快く思っていない。
(まあ、それ以外にも、理由はあるんだろうけどなぁ)
その確証がない故、そうだとは言い切れないキョースケ。ちなみに、キョースケが年上である彼を呼び捨てにしている理由は、親しみからではなく、親バカすぎる和馬に対して敬う気がまったくないからである。
『お父さんには私から言っといてあげるから、安心してヤっちゃいなさい』
キョースケが和馬の事を軽く考えていると、尚美が心強いと言うべきか否かよく分からないことを言い放つ。
「遠慮しときます。それよりも、司を家まで送るので、ちゃんと家にいてくださいね。お願いしましたからね」
そう念を押して、相手からの答えを聞く前に徐に携帯の電話を切るキョースケ。そのままポケットに携帯を入れて、
「ふぅ……」
と、疲れたように溜め息を吐く。司とは似ても似つかない彼女の性格が、キョースケはとてつもなく苦手だった。
(オレが言うのもなんだが。セクハラとヤオイ話が生きがいのような人から、どうしてこんな色事にとことん弱い司が生まれるのかが、サッパリ分からん)
そう思って、キョースケはもう一度溜め息を吐く。
電話を終えたキョースケにハル話しかける。
「あの、今の電話の方は?」
「ん? ああ。さっきの人は司のかーちゃんだよ」
キョースケが疲れ切った感じで答える。ハルは、キョースケの今の反応と先程の電話での会話を聞いて、この少年は司の母である尚美という女性に相当な苦手意識を持っているのだと確信した。
「それは良いとして、そろそろ司と家に着くから、準備しとけ。心の」
「えっと。何故、ですか?」
「あー。まあ、なんだ。まあ、その……両親の性格がな」
苦い笑みを浮かべながらキョースケはそう答えた。
それから、何度目かの信号を、左に曲がってそのまま進んでいくと、住宅街へと入り、ショートカットの為と、蛇行して斜面が緩やかになっている坂を使わずに角度が急な階段を、上って行く。すると、海まで見渡せるほど見晴らしの良い高台のような場所へと着く。
そんな場所に建てられたいくつかの家の中で、司の家まで迷いなく行く。
「ゼー、ハー、ゼー、ハー」
肩で息をしながら、やっとの思いで司の家にたどり着いたキョースケは、ダラダラと汗をかいて、辛そうにしていた。司を背負いながら、距離五〇〇メートルを、軽く超えている急な階段を上って行ったため、通常の五倍以上の体力を消耗していた。
「大丈夫ですか?」
「お、お前は、……ゼー、何で、そんな……重た、そうなモン持って、……るのに、……ゲホッ、平気、なんだよ」
隣りで心配そうに訊ねるハルに、息も絶え絶えといった感じで、咳き込みながらハルに訊きかえす。
そんな死に体のキョースケに対し、思い背嚢を背負った少年は、えっへんと自信満々に胸を張り、
「それはそうですよ。いつもこの荷物を背負いながら旅をしていますから、これ位の階段なら、どうって事ありません」
「まったく、その体力が羨ましいよ」
はあ、と溜め息を吐いてそういうと、一拍おいて、
「……まぁいいや。じゃ、司んちは文字通り目と鼻の先だから、行くぞ」
呼吸を整え、少しダルそうに言いながら、キョースケは司の家の前まで行く。玄関の前まで着くと、キョースケは、隣の車庫に車があるのを確認すると、インターホンを押す。
『はいはーい。どちら様?』
と、インターホン越しに、尚美が出た。
「おたくの眠り姫をお届けに参りましたキョースケです」
『あら。もう着いたの? 早かったわね。もう少し遅れて来ればよかったのに』
尚美は何故か楽しそうにそういうと、
『分かったわ。すぐに玄関を開けるから、ちょっと待っててね』
と、そう答えた。
キョースケはその言葉を聞き、門戸を開けて、玄関まで行く。ハルも、キョースケにつづく。ハルが門を閉めるのとほぼ同時に、玄関のドアが勢いよく開け放たれた。
「司ぁあああああああああっ! 大丈夫か!?」
そう叫びながら、眼鏡をかけた総身の男がキョースケ――正確にはキョースケの背中でぐっすりと寝ている司に――に跳びかかってきた。
「うっさい、黙れ」
キョースケは、飛び込んできた男の顔面に、容赦なく足の裏で蹴りつけた。男は、顔面に靴底が入り、跳び込んだ格好のまま腹から地面に落ちる。
「司が起きちまうだろーが。この変態オヤジ」
キョースケが蔑みを込めてそう呟くと、眼鏡の男はすぐさまに飛び起きて、自分を足蹴にした少年を怒鳴りつける。
「何をするんだ、痛いじゃないか! まったく、司を甘言で誑しこもうとするわ、その父である私を足蹴にするわ。いったいどういう教育を受けているんだ、貴様は!?」
司の父と名乗る男――和馬は、言い終えた直後、己を見下す少年に顎を蹴られ、気を失った。
「どうもこうも。まず、世間一般サマの倫理観を教わっていないんでな」
腐肉にたかる蛆を見るような目で、既に気を失っている司の父に答える。
そして、俯せに倒れたままの和馬を踏みながら家の中へと入った。
「ハル、お前も来い。コイツを踏んで」
もの凄く酷いことをおっしゃるキョースケ。ハルは、和馬を避けて玄関の中へと入る。それを確認して、キョースケはドアを閉めて、ガチャリ、と鍵をかけた。
「あの、良いんですか。そんな、閉め出すようなことやっても?」
「イイよイイよ。あんな変態オヤジ。あれでもまだ足らねえ方だって」
心配そうに訊ねるハルに素っ気なく返すキョースケ。そのまま司を下すと靴を脱がせる。自分も脱ぐと、司の背中と膝の後ろに手を差し込み、抱きかかえる。いわゆるお姫さま抱っこというやつだ。そのままズカズカと踊り場から、階段を上って行いくと、キョースケはリビングへ続くであろうドアには目もくれず、手前にある階段を上り始める。
木製の階段を、ゆっくりと上りながら、和馬を出迎えに出させた事を尚美にどう文句言おうかと考えていた。
階段を上り切ると、司の部屋の前までへ行き、ドアを開ける。部屋にあるものは、ベッドと足が折りたたみ式になっている小さなテーブル、あとは着替えを入れておく為のクローゼット――押入れのように壁に埋め込まれているもの――と本棚だけしかなく、およそ年頃の女の子の部屋と言うには余りにも質素な部屋だった。
「……いつ来ても色気のけの字もない部屋だな」
キョースケはそう言うと、躊躇いもなく司の部屋に入り、ベッドに司を寝かせた。そしてふと机の上を見る。そこには、写真立てが立てられていて、そこには司とキョースケ、そして黒く艶のある長髪をした少女が写った写真が入っていた。
写真の中のキョースケは、満面の笑みを浮かべながら、二人の少女に肩を回す形で抱き寄せている。そんな司は、不機嫌そうにそっぽを向いている。その隣で、長髪の、大人しそうな少女が嬉しそうに微笑んでいる。
これを撮った時期は夏だろうか、三人は涼しそうな服装をしていた。
「……まだ持ってたのか」
感傷に浸るようにそう呟くと、キョースケは目を逸らすと、そのまま司が起きないように部屋を出て、階段を下りて行った。
階段を下り、下の階へと戻ると、玄関でハルが靴も脱がずにどうすれば良いのか、と言った体をしていた。キョースケを見るや否や。ハルは、パアッと顔を明るくさせる。
「何やってんだ、ハル?」
「あのあのっ。キョースケさん、自分はもう上がっても良いのでしょうか?」
キョースケの質問をガン無視して息を弾ませながらそう問いかける。
「自分、人の家に上がるのは初めてなので、えと、そのっ」
期待に目を輝かせ、興奮気味に話すハル。そんなハルを見てキョースケは、ふつふつと嗜虐心を芽生えさせ、
「よし。ハル、お前はそこで待っていろ。オレは今から居間に居るだろう尚美さんにお茶をもらって、小一時間ほど世間話としゃれ込むから」
「……へ?」
キョースケが真顔でそういうと、ハルは一瞬何を言われたのか分からないと言ったように呆けると、みるみる内に今にも泣きだしそうに顔を歪ませる。
そんな少年をみて、呆れたように溜め息を吐くとキョースケは前言を撤回する。
「おいおい、冗談だ。とっとと靴脱いで上がれ。あ、荷物はそこ置いとけな。茶ぁ出してもらうぞ」
あと、お茶漬けもな、というと、キョースケはさっさと行ってしまった。何故お茶漬けだ。
ハルは、泣きだしそうな顔から一変して、ぱぁっと明るくする。キョースケは、コロコロと表情を変えて忙しい奴だな、と他人事のように内心で呟く。一体誰のせいだろうか。
「はいっ!」
そう頷くと、イソイソと靴を脱いで、玄関の脇に重たそうな背嚢と、キョースケのカバンを置き、彼の後に続く。
居間へのドアをキョースケが開けると、尚美が一人ソファーに座ってお茶を飲んでいた。
「いらっしゃい、遅かったわね。……あら? となりの子は? 初めての子よね」
言うと、尚美はお茶請けのカステラを、一切れ摘みとると、小さく千切って口の中へ放り込んだ。
「おう? コイツは……。ついさっきオレの家に遊びに来た親戚のハル坊です。よろしくしてください」
キョースケは、適当に嘘を交えてハルの紹介をする。その嘘に対してハルは何も言わず、キョースケの隣でペコリと頭を下げる。
尚美は、ハルに向き直り、お辞儀をすると、
「初めまして。キョースケ君の義母、尚美です。よろしくね。えっと……ハル坊君?」
こちらもこちらで嘘が入り混じった自己紹介をする。
それからキョースケは、テーブルを挟んで向かい側のソファーにドカッとふてぶてしく座ると、カステラと一緒に置いてあった豆大福を手に取る。
「ほら、ハル。お前も座れ」
そう言って手招きをすると、お茶も出されていないのに手に取った豆大福を口に放り込んだ。しかしハルは、困ったような顔をしてでも、と呟く。
「いいのよ。ほら、ハル坊君も座って、座って」
家主である尚美の援護射撃を受け、ようやっとハルは、恐る恐るといった感じで言う。
「えっと。ハル坊じゃなくて、ハルで良いです」
「そう? じゃぁ、ハル君。そこ座っていいわよ」
「はい。では、失礼します」
そう堅苦しく言うと、ストンッとキョースケの隣に座った。
「はっはっは。まったく、ハルは。家に上がるまでは、期待に胸を膨らます少年のように目を爛々(らんらん)と輝かせていたのに、いざ家の中に入るとまるで借りて来たネコみてぇだなぁ」
笑いながら、キョースケがそういうと、ハルは恥ずかしそうに赤面し、さらに縮こまる。
「あらあら。可愛いわね~」
その言葉を聞き、尚美は、縮こまるハルを見て楽しそうに微笑む。
キョースケは、あらかた笑い終わると、ソファーから立ち上がり、キッチンにある棚から、勝手に湯呑みを二つ持ってくると、テーブルの上にある急須を取り、茶葉とポットの湯を急須に入れて蓋をする。
それから三十秒ほどで、二つの湯呑みに、お茶を注ぐ。その間、尚美はキョースケの身勝手極まりない行動を咎めることなくカステラを頬張っていた。
二人分のお茶を注ぎ切ると、一つは自分のところに、もう一つはハルの前に置く。
「ほら、飲め」
キョースケは、ハルに向かってそういう。
「え、あの。でも、良いんですか? 勝手に……」
我関せずといった体で、モソモソとカステラだけをちぎって食べている尚美の方をちらりと見ながら訊ねる。ハルの視線に気づき、キョースケから湯呑みを奪い取り、口の中のものをお茶で流し込む。
「良いわよ別に、それ位。むしろ勝手にやってくれた方が、お茶を出す手間が省けるから助かるわよ」
そう答える。
「客をもてなす精神も持ってないんですか、あんたは?」
キョースケは、尚美から湯呑みを奪い返し、もう一度お茶を淹れながら、そんなものがある訳ないと、分かり切った事を訊ねる。
「やーねー。それぐらいならあるわよ。でも、キョースケ君は何度もここに来てるんだから、出さなくても良いかな、って思っただけよ。それに、いつも自分でお茶出してるじゃない」
半眼で睨むキョースケに笑いながら返す。
「なら、オレの、初めてこの家に来たときから出されてなかった。という記憶があるのは何故ですか」
「あら~、そうだったかしら? 最近、歳のせいか物忘れが激しくて」
キョースケが訊ねると身に覚えがあるのか、尚美は目を反らしながら、あはははは。と作ったような笑い方をして誤魔化す。
「歳のせいって、あんた幾つだよ」
ジト目のままで、本人には聞こえない程度の音量でそう呟くと、まあ良いけど。といって席を立つ。
「あ、もう帰るんですか?」
まだお茶も飲んでいないのに。と思いながらハルはキョースケに訊ねながら席を立とうとする。
キョースケは、ハルをチラリと一瞥して、ポケットから携帯電話を取り出す。
「ちょっと電話しに行くだけだ。すぐ済ますから、お前はそこでお茶して待ってろ。あっ、そうだ尚美さん、ついでに、アイツにも挨拶させてもらいますね」
「ええ、良いわよ」
尚美は、アイツにも挨拶、という言葉の意味をすぐに理解し、軽く頷く。
「じゃ」
軽く頭を下げると、部屋を出る。
ガチャリ、と部屋のドアが閉まる。席を立った少年を見送ったハルは、まったく面識のない尚美と、二人きりで待つことになった。
キョースケは電話を終え、携帯電話を閉じた。
「さて、と」
キョースケは再び二階へ向かった。
階段を上りきると、司の部屋のドアを素通りし、その隣の部屋へ、ドアを開けて入る。部屋の中は、司の部屋と違い動物のぬいぐるみなどがあちこちにちりばめられている。部屋の配色も、めまいがするようなピンク一色という訳ではなく、白を基調に、明るい色で彩られており、可愛らしい部屋だった。
そんな少女チックなそこには、しかし何も知らない人が入れば違和感を感じてしまうだろう。なにせ、ここに人が住んでいるといった痕跡が一切感じられないのだ。
定期的に掃除されているだろう置物などには埃などほとんど被っていない。だが、むしろそれが不自然さをより一層際立たせていた。
「……」
キョースケは、周りの物に興味を一切示さず、そのまま部屋の隅にある腰ほどの高さの本棚の前へと、迷いなく歩を進める。
小さな本棚の上には、可愛らしい装飾を施された写真立てがあった。その中に、先程司の部屋にあったモノにも写っていた少女が、こちらは一人だけで写っている写真が入っていた。
「……二日ぶりだな、奏」
キョースケは、どこか物悲しい口調で、写真の中の少女にそう言った。
「……」
「…………」
ハルは、緊張でガチガチになり下を向いて黙り込む。尚美は、そんなハルに対して、どう接すれば良いのかと思案しながらカステラを貪る。
「…………」
「………………」
下を向いたままのハル。尚美は、もう一度キョースケが淹れたお茶をとって飲む。そして、
「あっ、そうだ」
何かを思いついたらしくポン、と軽く柏手を打つ。そしてハルに話しかける。
「ねぇ、ハル君」
「ひわゃいっ!?」
折角淹れてもらったお茶を、冷ましてはもったいないと思い、そうっと目の前に置かれた湯呑みに手をかけようとしていたハルは、急に話しかけられて驚きその手を引っ込める。
「あら、良いのよ。飲んでも」
そんな少年の動揺っぷりを見ておかしかったのか、くすくすと笑う。笑われたハルは、赤面しながらさらに縮こまってしまう。
そんなハルの一挙一動を見て、尚美は小動物みたいで可愛いなぁ、と内心で呟く。
「ハル君は、キョースケ君の親戚って言っていたけど、どこから来たの? ご両親は?」
ふと尚美が訊いてみた。赤面した顔を隠すように、俯き加減で両手で湯呑みを持ってチビチビとお茶を飲んでいたハルは、手にしていた湯呑みをテーブルの上に置き、顔を上げる。
「えっと……。母は、物心付いた頃には既に居なかったので、良くは覚えてないんです。父とは、ここ数年、連絡を取り合うだけで、まったく会っていませんね」
照れたように笑いながら答える。
「あと、父が行商人だったので、父と一緒にいた頃――それこそ物心が付いた頃から一緒に世界中を旅して回っていたので、どこから来たのかは答えにくいんですよね」
ハルは、頭を掻いて、たはは、と笑う。
自分の常識とは少しかけ離れた半生を送ってきた少年の話を聞いて、尚美は訊かない方がよかったかな、と少し後悔していた。
そんな二人の間に流れる微妙な空気の中、勢いよくドアが開かれ、異様なハイテンションさで、キョースケが戻ってきた。
「いよーっす。ハル、電話も私用も終わったことだし、長居は無用だ。そろそろ出るぞ!」
バカがそんなことを言う。
しかし尚美はこのバカの登場で、微妙だった空気を打開できて助かったと安堵の溜め息を漏らす。
「え、出るって、どこへ行くんですか?」
キョースケの発言に対し、ハルは、不思議そうに質問する。
「どこって、オレの家に帰るに決まってんだろ。もしかして、もう少し長居したいのか?」
キョースケは問い返す。
「それとも、ここに泊まりたいとかいうのか? オレは一向にかまうが……」
などと、続けざまによくわからない文章を呟く。
「あらあら、もう帰っちゃうの? 司、まだ起きてないでしょ。起きるまで待ってれば良いのに」
残念そうに尚美は言うとあからさまに怠そうに背中を丸める。
「いや、司が起きると、メンドーそうなんで、今日は帰りますわ」
どうせ明日も会えるし、といって彼はそのまま玄関に向かおうとする。
「あ、えと、待ってください~~~」
慌ててお茶を全部飲み干すと、ハルはさっさと出て行こうとするキョースケの後を追った。見送りの為だろう、尚美も二人の後に付いて行く。
キョースケとハルは、玄関まで着くと脇に置いてある各々の荷物を手に取り、靴を履く。
「それじゃ、尚美さん。お邪魔しました」
「お邪魔しました」
靴を履き終え、尚美の方へと向くと、二人は軽く頭を下げた。
「また、いつでも来てねー」
そう返して、尚美は手を振る。
キョースケは、玄関のドアを開け、外へ出る。すると、足元で、グニュッ、という音を立て何かを踏んづけた。
「お?」
何事かと足元を見ると、和馬がまだ気を失っていた。
「「「……」」」
しばしの間、沈黙が流れる。
キョースケは、無言で和馬から足を退ける。そして、気を失っている彼の両脇を抱えると、そのまま尚美に引き渡す。
「はい、これ」
「えっ。あ、ああハイハイ」
尚美は、苦笑を浮かべながらそれを受け取る。
「よ、よし。それじゃあ今度こそ、お邪魔しました。ほら、ハルも行くぞ」
軽く頭を下げると、キョースケはハルに手招きをする。
「えと。良いんですか? その、放っておいても」
ハルは、引きずられて行く和馬を、横目で追いながら心配そうに問いかけるが、キョースケはそれに対して、何事もなかったと言うように返す。
「ななっ何の話だ? そそそ、そそそそそ、そそんなことより、家に行く前にちょっと寄り道するからな」
動揺してかワザとなのか、凄くどもる。ワザとらしいほどにどもっているので、ワザとだな、とハルは思った。キョースケはそんなハルを置いて逃げるようにさっさと行ってしまった。
どうしようか、と少しばかり逡巡したが、『ゴメンナサイッ!』と尚美に頭を下げ、キョースケの元へと小走りで行った。
ハルがキョースケに続いて家の門を出るのとほぼ同時に、玄関が閉まった。
自分の前を歩く少年は、来た道である階段を使わずに麓まで緩やかに湾曲しながら続いている坂道へと向かう。
「あの、階段の方は使わないんですか?」
気になってハルは、首を傾げながら訊ねる。
「今のこの、疲労感タップリでライフポイント残り一のオレに、下りとはいえとてつもなく長く急斜なこの階段を使えと。そーか、そーか。ハルはそこまでしてオレを苦しめたいか」
恨めしそうにハルを見ながらブチブチと祝詞というか呪詛というかを恨み言のように唱える。
ハルは、キョースケの反応に戸惑いながら、
「えーっと、いえ、そういうわけでは……」
ただ単に疑問に思っただけなのに、そこまで言われるとは思わなかったハルは、どう言えば良いものかと、言葉を選ぶ。
そんな少年の様子を見て嘆息するとキョースケは歩き出し、
「もういい。行くぞ。ハル」
それはつまり、付いて来いということなのだろう。
行くぞ、と言われ、ハルは付き合う義務も義理もその他の理由も一切無いのだが、これといって他にやるべき事もない。それに、目の前を歩くこの少年は……まあ、正確に少し難があると思うが、そこまでの悪人と言う訳でもなさそうだった為、何となくついて行く。
「…………」
「…………」
二人は、何も話すことなく黙々と、キョースケが目的地とする彼の家へと向かう。ハルは、そんなキョースケに何も言わずに付いていく。
「……」
ハルは、黙って前を歩く少年の背中を、付かず離れずの距離を保ちながら眺める。
傍らから見れば、キョースケはいたって元気な様子ではあるが、先程の言動、反応からして、彼の体力、気力共に限界に近づいているのであろう。まあ、たんにあの階段を下りるのが面倒臭かった為にあんなことを言ったという可能性もあるのだが。
そんな事を考えながらハルはキョースケを観察する。
(それにしても。この人は、一体何を考えているんだろう……)
ハルは、今更ながらの疑問を抱く。よくよく考えれば、彼のとった行動は確かにおかしい。
この少年にとって、正体不明で見ず知らずの人間であるハルを己の身も省みずにあんな大勢の男たちから助け出したり、ハルが『夢商人』であること――ハル自身は『夢玉屋』と名乗っている――をあっさりと信じてしまったりと、普通の人なら考えられないような行動をとっている。
(夢玉屋……夢商人と名乗っても、大抵の人は嘘吐きか頭のおかしい人としか見てくれないんですよね……)
とほほ、と内心で涙目になる。
話を戻そう。
今だってそうだ。この少年は、よく知りもしない相手を家に招こうとしている。
(なんか、そこだけ考えるともの凄く怪しい気がしますが)
考えれば考えるほどに謎が深まるような感じがする。ハルにとってキョースケは、まったくもって、不思議で不可解な人物だった。
(本当に、この人は、どういう人なんでしょうか……)
とハルは、心の中で呟く。
キョースケの行動原理を予想しようと頭を抱えているハルの悩みを知ってか知らずかキョースケは、ただただ黙々と歩を進めるだけだった。
(キョースケさんは今、一体どんなことを考えているんでしょうか。先程からずっと黙っていますし……)
ハルがキョースケに対し、そんな事を思案している中、当のキョースケはというと、
(嗚呼……。イイっ! 実にイイっ! すこぶるイイっ! 司の阿呆と一緒にいる時は得られなかったこの心地好い沈黙っ! あーもぉ、ホントにイイっ!)
などと、いたってどうでも良いことを考えていた。
そのまま黙々と坂を下り続けると、三十分もしない内に下り切った。
ハルがキョースケに、自宅はどこにあるのか、どのくらいの時間で着くのか、と訊ねるとキョースケは、
「いいから付いて来い」
とだけ答えた。
それから進んで行くと住宅街を出て、大きな道へと出る。そしてその道を進み、さらにそこから右に曲がると、商店街に出た。
「おうボウズッ、久しぶりだな! いいトマトが入荷したんだ、一カゴ買ってきな。安くしとくゼぇ!」
すると、近くの八百屋から、そんな声が上がる。
「おっ、イイねぇ。それじゃオヤジ。そいつを一つくれ」
それに対してキョースケは、笑顔でそう答える。
「あいよ! それじゃ、大負けに負けて、三百五十円だぁっ!」
八百屋のオヤジは、値札に書いてある値段を叫ぶ。どうやら鐚一文負ける気は無いようだった。
「全然負けてないだろ」
キョースケは、苦笑しながらそう言うと、ポケットから財布を取り出し、三百五十円を出してそのままオヤジの方へ投げる。
「おうっ! 毎度ありー」
オヤジは、飛んできた小銭を両手で受け止めると、袋に入れたトマトを、キョースケに投げて渡す。
それを受け取るとキョースケは、袋からトマトを二つ取り出すと、ほい、とハルに一つ差し出す。ハルは、それに戸惑いつつも、そ~っと両手で申しわけなさそうに受け取る。
「お、そっちの子は彼女さんかい? いいねぇ、若いって。だがよキョースケ、司ちゃん泣いちゃうんじゃねーのかぃ?」
八百屋のオヤジはハルを見てカラカラと大笑しながらそういう。
「アホか。それだったら彼女じゃなくて彼氏になっちまうだろーが」
オヤジの方を呆れたように睥睨ながらそう答える。
「彼氏……? っつうと、コイツは男か!? ほぉー。最近は女の子みてぇな男もいるのか」
などと感心するオヤジ。それを、キョースケは深々と溜め息を吐いて、
「おいオヤジ、近頃女日照りだからって、そっちに走るなよ」
適当に冗談を言って、キョースケは八百屋から離れる。
それから商店街を通っている間、キョースケは商店街の人々に声を掛けられては色々と買わされていった。
例えば、肉屋の前を通ると、
「あら、キョースケ君。コロッケ、できたてのヤツあるけど、買ってかない?」
と、オバチャンにコロッケを勧められ、二人分を買ったり、
「キョースケじゃねぇかっ! ちょいとウチの店、寄って来い!」
などといって、魚屋のオジサンが絡んできたり(流石に生モノは痛むので、キョースケは買わなかったが)、さらには、
「あら、キョースケ君じゃない。久しぶりね。お友達も一緒かい? なら、ほらこれ。店の余り物だけど、持ってお行き」
と、駄菓子屋のお婆さんから、売れ残りの駄菓子をタダで受け取ったりした(キョースケの主義に反するので、貰った分は全額を払ったのだが)。
などと、そんなこんなで、キョースケとハルの両手には、いっぱいのビニール袋を持って商店街を後にした。
二人は、買った物を口にしながら目的地へと進んだ。橋を渡り、降峰の西側にある港、西港区へと向かう。
>>>>
西港区は、降峰での発展都市、いわゆる都会というものだ。というか、都会だった。その街中を、人混みを掻き分けながらキョースケとハルは進んでいた。
「あのっ! キョースケさん! キョースケさんのお家って、こちらにあるんですかっ?」
ハルは、周りの雑踏の音に声をかき消されないように声を少量張り上げながら、グイグイと先陣切って進むキョースケに訊ねた。
対してキョースケは、嘆息する。
「ンなわけあるか、阿呆。そら、着いたぞ」
言いながら、目の前にある大きな建物を指さす。
高層ビルが立ち並ぶ西港区、その中でも群を抜いて背の高い、豪奢な外装が施された建物だった。
そんな、ビル顔負けの、トーラーザンビルな建築物の足元の入り口。その近くには、その建物の名前が掘られた、直方体に加工されている岩が設置されいた。その岩に掘られている文字は、
「うわぁ……大きな満床でうねぇ。――って。ココ、ホテルじゃないですかぁああ!」
――『降峰ホテル2X』。
ハルは、キョースケの指した建物を見て叫ぶ。それに対して、キョースケは、鬱陶しそうな顔をしてこちらに振り返る。
「っるせぇな。予約ももう入れちまってんだ。さっさと行くぞ」
それだけ言うと、あからさまに高級感を、ある意味下品なまでに垂れ流しにしているホテルの中へと入っていった。
「ちょっ、待ってくださいよ~~~」
ハルは慌ててキョースケの背中を追いかける。
自動ドアを潜り抜け、二人はこの街で一番高い高級ホテルの中へと入っていった。悠然とした態度で、場違いにも程がある学生服姿のキョースケはホテルのロビーへと向かう。その後ろを、同じく場違いな格好のハルが、オドオドとしながら付いて行く。
少年は、ハルに向かってここで待っていろと言って受付の人物に話しかける。
我関せずとすまし顔をしていた受付の人は、キョースケに話し掛けられ一瞬不快な顔をした。すぐに作った笑顔で対応をする。それから二言三言、言葉を交わすと、キョースケはカードキーを受け取り、ハルの元へと戻ってくる。
「よし。じゃ、さっさと部屋まで行くか」
言って、入り口から見て右側にあるエレベーターへと先導するキョースケ。
ハルは、緊張のあまり数世代前のゲームのキャラクターのようにカチコチとしたぎこちのない動きで後を付いてくる。
軽快なベルの音と共に、エレベーターが下りてきた。
「………………」
ドアが開くと、中にいた男が、二人を見るなり受付の人以上に不快な顔をすると、そのままエレベーターから出ていく。
「ハッ」
キョースケは、そんな男に対して、すれ違いざまに鼻で嗤うと、そのままエレベーターに乗る。
ハルも乗ったのを確認すると、すぐさまドアを閉じる。
刹那の沈黙の後、低く、静かに唸るモーター音と共に二人を乗せた筐体は動き出すそれと同時に小さな圧迫感を覚える。
はぁー、とハルは深い溜め息を吐いて、
「なんか、嫌な感じでしたね、あの二人」
受付の人と、先程すれ違った男性客を思い出しながら呟く。
「いや、別にそうでも無いでしょ。ああいった大人ってのは、こんなとこで学生や、そんな小汚ぇカッコしたヤツを見たら、大体はあんな顔をする」
キョースケは、当たり前だろ、とでも言いたげに答える。
「なんせ、埃と間抜けとしか言いようがない固定概念で凝り固まった連中だからな」
ヘラッと笑いながら言うキョースケの言葉に、ハルは少し戸惑う。それに、あの二人は自分たちではなく、キョースケだけを見て不快そう顔をしかめていた気がしたのだ。
そうこうしているうちに、再度軽快な音が鳴り響き、共に体の圧迫感が取れ、エレベーターのドアが開く。キョースケは、
「もう着いたか」
早いなと感心しながらエレベーターを出る。
ハルもそれに続いて自動開閉ドアをくぐる。無人になったエレベーターは、そのままドアを閉じて、下へと降りて行った。
キョースケは、そのまま泊まる部屋の前まで行くと、先程渡されたカードキーをドアにあるリーダーにスライドさせる。
ガチャッという音と共に、電子ロックが外れる。
キョースケはドアを開けると、そのまま入ろうとせず、こちらへと視線を向ける。どうやら、入れと言いたいらしい。ハルは少しこわごわとしながら中へ入る。
キョースケが後から入り、ドアを閉める。すると、先程と同じ音がした。どうやら鍵が閉まったらしい。この部屋のカギはドアを閉めると自動で鍵が掛かるようになっているようだ。
司は、自分のベッドで目を覚ました。
「……ん?」
いつの間にベッドで寝たのかまったく憶えていない。たしか、変な不良に襲われたあと腰が抜けてしまいキョースケにおんぶされて運ばれていたはず。そこまでが司が憶えている事だ。それから先の事が一切記憶にない。
(いつのまにか寝たのか)
司は、溜め息を吐きながらそう心の中で呟く。確かに、あの少年の背中の上は安心でき、不規則な揺れが眠気を誘ってはいた。だがいつ寝たのかが記憶にない。これが、夢を見ないことの弊害なのだろうか、と司は思う。
が、キョースケの言っていた事を思い出す。
『別にそれは誰にだってある事だろう。夢を観る観ない、ってのは関係なく、いつ寝たかなんて誰も良くは分からないもんだよ。夜の一二時ごろに布団を被ったものの、それからどのくらいして寝たかなんて誰も記憶していないもんでしょうよ』
そのときは、そんなものなのだろうかと納得した。
しかし、キョースケの言う事にはいくつか自分の主張との誤差がある。それでも、どのくらい寝たか、といったモノは分かるはずだ。自分には、時計を見て確認しないとそれが分からない。と司は思う。まあ実際は、正常に夢を観る人たちもどれくらい寝たかは確認できないのだが。
それを彼女に気付かせるには、彼女の体質を治す必要があるだろう。
(いやいや! 問題はそこじゃなくて……)
今考えるべきところは、自分の体質云々ではなく、誰がこの部屋に司を運んで、そのままベッドへ寝かせたのか、だ。
母の尚美はそんなこと面倒臭がってまずやらないだろう。父である和馬は親バカが過ぎるから率先してやりたがるが、あのキョースケに限って彼に眠っている司を預けるなどといった事はやりたがらないはずだ。少年はあの父親とは仲が悪い上に和馬相手だと司を過保護に扱うきらいがある。
「って事は……」
恐らく――いや、間違いなく家まで運んだキョースケが、そのまま部屋まで上がり込んでわざわざ布団までかけたのだろう。後でお礼ついでに確認せねばなるまい。
「?」
そう思いながら身を起こすと、何か違和感を覚える。
「――んなっ!」
体を見下ろすと、すぐにその正体に気づいた。司は、みるみる内に顔を真っ赤にする。あまりの驚愕に唇を戦慄かせる。
「なっ――」
振り絞るように声を発する。息が足りずに続きの言葉が紡げなかった。そして、ゆっくりと息を吸い、
「何で制服からパジャマに換わってるんだよ!」
腹の底から力を入れて叫んだ。
寝る前、というかキョースケに背負われていたところまでは、下校中だったので学校指定の制服を着ていた。そして、目を覚ますと何故か寝間着姿になっていた。しかも司の一番のお気に入りの可愛らしくデフォルメされたクマの顔が等間隔でプリントされている服に。
自分を着替えさせた犯人は誰なのか、それを考える司。
(お母さん……は脱がすだけ脱がして、そのまま寝かせるはずだし、お父さんはそんな事、絶対に出来るわけないし、というかさせないし……。それじゃあ……、ッ!)
そこまで考えると、司は赤かった顔を更に赤く熟れさせ、あうあうと幼児退行した言語を発する。
(まっ、ままま、まままままさか! き、キョースケの奴がやったんじゃあ……)
そんな答えを導き出してしまった。そう思ってしまうと、司は、悶々と考えてしまう。
「どうしよう、どうしよう、どうしよう……」
何をどうしようというのかは自分でもまったく分からない。司は頭を抱えてしゃがみ込み、ただただそう呟くだけだった。
考えれば考えるほど悶々となってしまう。
「よしっ! 決めた、今からキョースケにメールしよう!」
数分程、ブツブツと呟いていた司が、唐突に立ち上がるとそう叫んだ。
そのまま、ベッドの傍らに置かれてあるカバンを手に取り、中から携帯電話を取り出した。
「そういえば。結局、あの子のことも教えて貰えなかったっけ」
司は、あの公園で、キョースケと何かを話し合っていた少年の事を思い出しながらそう呟く。
「よし、その子の事も合わせてメールで聞いてやる」
司はそう言うと、キョースケへと送るメールの内容を打ち出す。
「…………。これで良しっと」
司は、あまり携帯をイジる事がない為、長文を打つのに時間が掛かってしまったが、キョースケに訊きたい事をやっとの思いで携帯に全て打ち込んだ。
「これを、キョースケに、送信、……っと」
ピコン、という軽快な音がなり、メールが送信された事を示すメッセージが現れた。
ハルは、部屋のある一点を見て、もの凄く動揺していた。
「なんでこの部屋にはベッド一つしかないんですか!」
あらん限りの大声で叫ぶ。
そう、この部屋は、二人用ではあるものの、ベッドはたったの一つだけだったのだ。
耳の穴に指を入れてキョースケはそんなハルを面倒くさそうな目で見る。
「ったく。ピーピーとウルサいヤツだな。別に取って食やしねぇよ、この部屋しか余りなかったんだよ。仕方ねえだろう?」
答えると、キョースケはベッドから少し離れた場所にある大きめのソファーにドスン、と腰を下ろす。
「それとも何か? ハルよ、お前は男にしか興味のない、そっちの気のある人なのか?」
芝居がかった口調でキョースケはそう訊ねる。
「そっ、そういうのじゃ、ない……です、けど……」
恥かしさの余り、竜頭蛇尾になりつつあるハル。
「けど?」
ニヤニヤとイヤらしい笑みを浮かべながら訊ねるキョースケ。
「その、キョースケさんが、そのような趣味が有るのでは、と思いまして」
ハルはこれを言ったら確実に怒られると、怯えつつそう答える。
「なん、だと……!?」
予想外の返答を受けたらしく、目を見張らせながら硬直するキョースケを、ハルはオロオロとした表情で見かえす。
「……まぁ良い。今の発言は不問にしといてやる」
こめかみに青筋を浮かべて、ヒクヒクと口の端を痙攣させながら、軽く上ずった声でそう呟くキョースケ。
「――ふぅ、それで?」
小さく溜め息を吐いて平常を取り戻すと、キョースケは訊ねる。
「? それで、とは?」
そんな少年の意図が解らず、ハルは訊きかえす。
「それで。お前は、『夢商人』で、夢の売買を仕事としてんだよな?」
「ええ、まぁ。そうですけど」
そう尋ね直したキョースケに、ハルは何を今更とでも言いたげに答える。
「なら、生まれてこの方、一度も夢を見た事のない奴に、夢を見せる事はできるのか?」
キョースケは、回りくどい言い方はせず、率直にそう訊ねる。
「それは一体どういう意味ですか」
ハルは言葉の真意を測りかねて、少年に訊きかえす。
「言葉どおりの意味だ。夢を、生まれて一度も見た事がない人間がいて、ソイツにお前の力で夢を見せる事はできるのか?」
「それは、正直解かりません。今までそんなケースは無かったので」
相手が真剣に問いかけているので、ハル自身、冗談などを交える事無く真実を話す。
「ふむ。……まーイイや。じゃぁ一つ、オレに夢を見せてくれ」
キョースケは、ソファーから立ち上がりながら、そう言う。
「ええまぁ。良いですけど……。キョースケさんが、夢を見た事がないんですか?」
「阿呆。ンなわけあるか。オレァ至って普通だ。寝るたびに夢を見てるよ」
呆れた風に言うとコツンとハルの頭を軽く小突く。
「あうっ」
頭部を叩かれ、短く悲鳴を上げるハル。
「頭叩かないでください。……じゃあなんで夢を見せろなんて言うんですかぁ」
「そりゃあお前、まだモノホンの『夢商人』かどうかわかんねえから」
「まだ疑ってたんですか!?」
「いやいや。あくまで念の為だから。念の為」
キョースケは、むぅと目くじらを立てるハルを苦笑しながら宥める。
「……それでは、どんな夢がご所望ですか? 出来るだけリクエストにはお答えするつもりですけど」
拗ねた口調でそう言うハルに、キョースケはもう一度苦笑してしまう。
「それじゃ、まー。アンタが持ってる中で、トビっきりの悪夢を見せてくれよ」
「……」
キョースケの言葉に、虚をつかれたような顔をするハル。
「ハァアアアアア」
きょとん、とした表情を浮かべたかと思うと、徐に溜め息を吐き出す。
「あ? ンだよ」
「たまに居るんですよ。そういう、わざわざイヤな思いをしたがる人が。――まったく、何が悲しくて幸せを取らずに不幸せを取ろうと思うんですかね」
アンタもその同類か、と言いたげに愚痴をこぼす。キョースケは、ただ単に面白そうだからという理由の為、そんな文句を言われてもどう返せばいいのか分からない。
「……で、ホントーに、悪夢なんかでイイんですか?」
ジト目でキョースケを見ながらハルは、藪から棒にそう訊ねる。
「応ともよ、面白そうだからそれで良い」
「……………………解りました」
軽快に答えるキョースケと対極して、完全に不服そうなハル。
「それでは、行きますよ」
スッと右手を差し出す。手のひらの上には、いつ取り出したのか、とても鮮やかな群青色をした、ビー玉ほどの大きさの球体があった。
「では、良い夢を御ゆっくり」
ハルがそう言ったとたん、キョースケの意識は、ブラウン管テレビのようにブツン、と途切れた。
××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××
――――気が付けば、『私』は此処に居た。
此処が何処だかは解らない。何処かのマンションの一部屋だというのは、辺りを見渡せば何となく分かる。かなりの年期が入っているのか、それとも、使われなくなり廃墟と化しているのか、『私』には分かる術がないが、凄く老朽化が進んでいることだけは見れば分かる。
外は夕方らしく、硝子の割れた窓から、目を刺す様な夕日の光が部屋の中を、蹂躙するように包み込んでいる。
――眩しい。とだけ思えた。
何故『私』がそんな所に居るのか全く理解できない。ただ『私』は今、此処で或る人の首を絞めていた。その人は、『私』にとって、とても慣れ親しんでいる、そんな人だったような気がする。
それが何故。『私』がこの人の首を絞め、殺そうとしているのか。その理由が全く思い出せない。何かこうなってしまうような、そんな喧嘩でもしたのかとも思うが、どうしても思い出すことができない。
否、それ以前にどうやってこんな場所まで来たのか、といったそもそもの記憶がない。
そんな事を『私』が考えていると、『私』の手首をその人は掴んできた。とても、とても強い力で、彼の首を絞める『私』の手首を掴んできた。
『私』は、そんな彼の必死の抵抗に、小さな苛立ちを覚えた。ぐっ、と首を絞める力を強める。それが苦しかったらしく、歯を食いしばりながら、『私』の手を、腕を、爪を立てて掻き毟ってくる。そんな無意味な行為に『私』は、更に首を絞める力を強める。
そうしていると、一瞬、首を絞めてられて彼の喉が跳ねると、必死に抵抗していた腕から力が抜け、ダラリと垂れ下がる。
そうして、彼だったモノから手を放す。するとソレは、ズルリ、と音を立てて倒れ込む。『私』は、その様を見ると、頽れ、地べたに腰を置く。そして、『私』は自分の頬を、暖かいモノが伝っていた事に気が付いた。
どうやら『私』はいつの間にか泣いていたのだ。『私』は、頬を伝うソレを、指で拭い見ると、一言、無意識のうちに呟いた。
「あ……れ………?」
『私』の喉から、そんな声が漏れた。聞き慣れた、しかし、自分のモノでは無いソレを聞き、『私』――否、『俺』はようやく理解した。
この体は自分のモノでは無い、と。そして、目の前で、この自分のモノでない手に■され、だらしなく舌を出して■んでいるコレが自分で『俺』を■したこの体の持ち主が、恐らく最も『俺』と親しく、『俺』が誰よりも大切に想っている人物で、そんなアイツの目で、『俺』はアイツが――×××が『俺』を■す様を、自身が■される様を見ていたのか。
「あ、…………あ、れ……?」
何がおかしいのか、×××は、自分の流すソレを見て、壊れた蓄音機の如く、ただただ『あ』と『れ』だけを繰り返して呟くと、そのまま×××は、一気に泣き出した。
止め処なく溢れ出す涙で、視界は歪み、×××はソレを、嗚咽を漏らしながらなんども両の手で拭い取る。
「あれ? ック、……あれ、あれ?」
ただただ瞳から溢れては流れ落ちる涙を拭っては、また溢れ出すという、無意味な行動。その行為を繰り返す自分を不思議に思ったのか、それとも別に何か、思う所があったのか、コイツは、
「は、はは、は、はははは…………あれ、れ?」
と、可笑しそうに笑いながら、同じような言葉を繰り返すだけで、そんな悲痛な姿を見て、『俺』は、自分を■した相手だというのに、それなのに、それでも、居たたまれなくなって、なのに、愛おしく感じてしまって、それでいてどうしようもなく不愉快な気分になってくる。
そんな複数の相反する気持ちを抱えたまま『俺』は、×××の目から、それを見守っていた。
それから、どれ位が当たっただろうか。×××は、近くに落ちていた、鋭利に割れた硝子片が有ることに気付き、何かに憑かれたように凝視し、手を伸ばす。頼りない手付きで、ソレを手繰り寄せる。
「あは、あははは……」
悲痛な笑い声を発しながら、硝子を掴みとる。
――――止めろ。
そのまま、強く握りしめ、その、細く、弱弱しい、白魚のような指が、手が切れて、血が流れ出る。だというのに、それを気にせず、×××は、更に握りしめる力を強くさせ、
――――ヤメロ。
そのまま、持ち上げる。
――――止めろ。
そして、両手で持ち、自分の喉元へと突き立て、
――――止めろ止めろヤメロヤめロ止めろヤメろ辞めろやめろ辞めろ止めろヤメロヤメロヤメロやメロヤメロヤメロ辞めろやめろ止めろ止めろ止めろやめろやめろやめろ止めろ!!
そのまま、一気に喉笛に刃を――――
××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××
そこで夢は終わった。ブツンッという、夢を視る時と同じようにして、目を覚ます。
「――カハッ。ハァ、ハァ、アッ、ぐ」
まるで、今まで息をしていなかったように苦しい、キョースケはそう思うと、一気に酸素を貪るように息をする。
「どうですか。好い夢は観られましたか?」
ハルが隣で何かを言っているが、今はそれ所ではない。心臓は狂ったエンジンのようにバクバクと早鐘を打ち続ける。ブワッ、と全身にイヤな汗が玉のように溢れると、自重に耐えられずに流れていく。
(――ああ、クソ。最悪だ。まさかあいつが出てくるなんて……)
内心で悪態づく。
視界は霞み、頭は脳みそを手で掻き回させられたように混乱している。頭痛もする。余りの苦しさに、まともに思考が働かない。そんな状況でキョースケは、ただ酸素を貪るしかできなかった。
しばらく荒い呼吸をつづけていると、幾ばくか思考が定まり始めた。何とか意識をして呼吸を整えると、
「どうですか。好い夢は視られましたか?」
ソレを見計らったようにハルは、もう一度同じ質問をキョースケに投げかける。キョースケはハルを一瞥すると、額に浮かび上がっている嫌な汗を拭い、無理に笑ってみせる。
「あ、ああ。……どうしようもなく、好い悪夢だった」
ハルはキョースケが浮かべる引きつった笑みを見て、深々と溜め息を吐く。
「……まったく、そうやって強がるのも良いですが、少しは弱音を吐くという事も覚えた方が良いですよ?」
呆れた風に溜め息を吐くと、諭すようにそう言ってくる。
「あのな、別に強がって言ってる訳じゃねぇよ。実際に最高に好い悪夢だった。イヤむしろ、悪夢悪夢しい悪夢と言うべきだな。……ってか、そんな事お前にどうこう言われたくねえよ」
などと訳の分からない事を、今度はちゃんとした笑みを浮かべながら答えるキョースケ。
「それより、今何時だ? あれからどの位の時間が経った?」
キョースケは、詰め寄るようにハルにそう訊ねる。
「えと、正確な時間は分かりかねますが、恐らく十分も経ってないはずですよ。それに、そんなに知りたかったらご自身の、ケータイを見れば良いのでは?」
何故時間を? と怪訝に思いながら、ハルはそうキョースケに答える。
ハルの言葉にキョースケは、少し戸惑いながら、言われたとおり、ポケットから、携帯電話を取り出して、時間を確かめる。
「…………。確かに、十分も経っちゃいねぇな。……ん?」
携帯電話の画面で時間を確かめると、表示された画面の隅に、メールが届いている事を報せるアイコンが出ていた。
「メールか。誰からだ? ……うげッ」
キョースケは首をひねりながら新着メールの送信元のアドレスを見て、露骨に嫌な顔を浮かべた。
送信者は、司となっている。いやいやキョースケは内容を見る。
『ボクをベッドまで運んで、制服からパジャマに着替えさせたのはお前か!? それと、一緒にいたあの子は誰だ!
追伸・返信しなかったら憶えてろよ』
「……」
絶句だった。
キョースケは、内容をみて背中に大量の汗がにじみ出ているのを感じた。
さて、コレの返信はどうしたものか。まさか流石に殺されはしないだろうが、一体返信をしなければ明日どんな目に合うのか、皆目見当がつかない。
云々(うんぬん)と顎に手を当てて考えるキョースケ。
「…………よし」
忘れよう。そう心に決めたキョースケだった。そのまま、携帯電話を閉じ、キョースケはポケットの中へ仕舞おうとする。
「? あの、メール返さなくて良いんですか?」
きょとん、とした表情でキョースケに訊ねるハル。問われたキョースケは、面倒だと思ったが、後日司に会う時の事を考えてポケットに仕舞おうとしている手を止め、
「…………」
もう一度、返信をするかの是非を思案する。
「そうだな。うん、一応返信だけはしとくか」
そう言うともう一度、携帯電話を開き、メールの返信を打ち始める。
「えーと、要件は……、『ハルの事は、明日にでも直接話す』っと。えー、本文はっと、……『パジャマの事なら、オレが選んで着せ替えといた。PS.ちなみに下着の方も上下着替えさせといたから』……っと。これで良し、んじゃ後は、送信。……うしっ、完了」
わざわざ、口頭でメールの内容を言いながら携帯電話に打つと、キョースケはソレを司へと送った。
「……」
ハルは、メールをし終えたキョースケを白い目で見ていた。
「あん? 何だよ」
キョースケがその視線に気づいて、何か用か、と問う。ハルはジト目のまま、別に、とだけ返す。
「ただ、キョースケさんは、本当に度し難いほどの変態だな、と思っただけですから」
どこか拗ねたようにハルはそう呟く。
「……全く。少しでもまともな人だと思った私がバカでしたよ」
「あん。なんか言ったか?」
ボソリと呟いた春の言葉を聞き逃し、キョースケは訊きかえす。
「別にっ、何でもありませんよ!」
ハルは藪から棒に答えてそっぽを向いた。
司は、キョースケからの返信が来るのをベッドで座りながら待っていた。
(あの野郎、ホントに着替えさせていたら、明日タダじゃ置かないからな)
一人そう殺気立っていると、傍に置いてあった携帯電話から、最近話題の歌が流れ出した。
司は、キョースケから来たのかと思い、すぐさまソレを取り上げ、メールの欄を見てみる。
「よしっ。キョースケからだ」
言うが速いか司は、何故か嬉しそうに携帯電話の画面を見て、そのまメールを読む。
「……」
司は、途中まで読み終えると、携帯電話をベッドの上に置き、今来ているパジャマのボタンを二つほど外し、チラリと自分の胸を見下ろす。
己の微乳を包むソレは、寝る時によく使うお気に入りのスポーツブラ。それを確認し、ボタンを閉じる。続いてズボンのゴムを伸ばして中を見てみると、朝に履いて行ったのとは違うモノが履かされていた。
それを確認すると、まるで先程の巻き返しのように、みるみると顔を赤くさせる。
「なっ、ななななななな……」
司は、赤面したまま、全身を戦慄かせる。
それもそのはずだ。キョースケから来たメールの内容は、制服からパジャマへ着替えさせた、というだけでなく、さらに下着までもがあの男の手によって取り換えられたという事柄が書かれてあったのだ。故に司は赤面する。怒りと羞恥で、茹だったタコの如く顔を真っ赤にする。
「あの野郎……。明日覚えてろよ~~~~~!!」
降峰の夜に司の絶叫が響き渡った。
キョースケは、何故か拗ねているハルを見て、不思議に思っていた。それから、ふとハル手元へと目が行ってしまった。正確には、その男の者にしては小さめな手のひらの中に納まっている、ビー玉のような物――『夢玉』へ。
「……ッ」
それを見た瞬間、唐突に先程の『夢』を、夢と思えないほどの鮮明さで思い出してしまった。ようやく治まったと思った動悸がぶり返してきた。呼吸も、少しではあるが徐々に乱れてきている。
「……っ、――ふう」
キョースケは、目の前にいる少年に悟られる前に、何とか自分を落ち着かせる。チラリとハルを盗み見る。
「……」
ハルは、いまだにソッポを向いている。それを見て、キョースケは安堵の溜め息を吐く。
「それはそうとハル。さっきの夢はどういったもんだ? できれば教えてくれないか」
機嫌を損ねたままのハルはそう訊ねられ、キョースケへと向き直る。
「…………あれは、自分が最も愛する人物――例えば、恋人や、既婚者なら妻や夫などに。たまに同性や自分、なんて人もいますけど――に、自分が殺され、そのまま最悪の結果へと至る。その終止を、その愛する人の視点で見る。といった話です」
それを聞きキョースケは、ほう、と呟く。これで合点がいった、そういいたげな顔をして。
「……成る程。だからアイツが…………」
キョースケは、一人の少女の顔を思い出しながらボソッ、と呟いた。
「はい?」
聞き取れなかったのか、ハルは首をかしげる。
「いや、何でもない」
キョースケは、今しがた思い出した顔を忘れようとしてかぶりを振ると、そのまま答える。
「それじゃついでに訊ねるが、その玉はなんだ? ソイツで『夢』を見せているようだが、何かの装置か?」
キョースケは、先程の事を掘りかえさせまいと、すかさず次の質問を投げかける。
「コレの事ですか? コレはですねぇ」
キョースケの問いに、不機嫌だったハルは、嬉しそうな顔をする。まるで、親から貰った宝物を友達に自慢する子供のように、誇らしげな表情を浮かべて説明しだす。
「コレは、『夢玉』と言う物で、この中に人が見た夢を保存する事ができるんです。それから先程のように保存した夢を第三者へ見せる事が可能です。流石に、ご先祖様が創った物なので、まだ自分では詳しい構造となると説明しかねますが」
そうやって嬉々として語るハル。キョースケはその話を聞いて、一つの疑問が頭の中に浮かんだ。
「という事は、お前はコレを作る事はできんのか?」
キョースケの問いにハルは、困ったように眉をハの字にさせ、首を横に振る。
「はい。自分はまだ作る事はできません」
「まだ?」
キョースケは怪訝そうにオウム返しをする。
「はい、『まだ』です。父なら作る事が出来るのですが、自分はまだ完全に家督を継いだわけではないので、作り方までは教わっていません」
ハルは照れたように頭をかきながら答える。
「ふうん。……成る程」
一人納得気に頷くキョースケ。
「という事は、この『夢玉』は魔術礼装……じゃあ、無いな。宝貝ないし霊装の類、か」
キョースケは、顎に手を置きながら独りごちる。
「? 魔術、礼装? 宝貝? 霊装?」
何の事か解らず、ハルはキョースケの独り言にオウム返しする。
「ん? あぁ、なんていうかな……。どれから話せばいいか。――なあハル。お前は魔術師の事は知っているか?」
「ええまあ。一応の話しだけなら」
キョースケの問いに頷いて見せるハル。
「たしか、六百年以上前にあった大戦の後に姿を現して、終戦後の混乱に乗じて世界を魔術師の世界にしようとしたものの、非魔術師たちにいっせいに、容赦なく弾圧されて今はもう存在しない、と」
ハルの説明を聞くと、キョースケはそうだな、と相槌を打つ。
「ある程度は、ソレであってるな。じゃあ、魔術礼装の話をするぞ」
それを聞いてハルは、はい、と首肯する。
「魔術礼装、ってのは、その魔術師たちが使う道具や武器の総称で、魔術行使を効率よくするための物や、それ自体が特定の神秘や奇跡を発動させる装置だったりもする」
キョースケは、そこで言葉を区切る。するとハルは、感嘆の声を漏らす。
「へぇ。凄いんですね、魔術礼装というのは」
「ま、そこまですごくもないんだがね。いろいろと用途も制限されるわけだし」
感心するハルを前に、苦笑を見せるキョースケ。
「そうなんですか? キョースケさんは物知りですね」
半ば興奮し、身を乗り出すハル。
「どうしてそんなに知っているんですか?」
「ん? 内緒だ」
悪戯をしている悪がきのような笑みを浮かべてキョースケは答える。ハルは、なんですか、それーと、不満げに頬を膨らませる。
「はっはっは~。こればっかりは教えらんないなぁ」
恨めしそうに睨みつけるハルを意に介さずに笑うキョースケ。
「じゃあま、次は宝貝についてだが、……宝貝のことは何かわかるか?」
キョースケの質問に、全く知らない、と首を横に振るハル。
「だろうな。なら、一から説明するぞ」
「はい」
と、頷きながら答える。それを見てキョースケは軽く頷くと話し始める。
「宝貝っつうのは、まあ、アレだ。魔術礼装とはまた違った神秘を起こす道具で、必殺兵器のような物だ。……んー、メジャーなモンで言うと――っていっても、宝貝自体がマイナーな代物ばっかだしなぁ」
うんうんと腕を組み、首をひねりながら悩むキョースケ。
「そうだな、例えば燃料切れのしない火炎放射機のような槍の火尖鎗とか、ホーミング機能のあるロケットパンチ風の腕輪、乾坤圏……って、言っても分からんか」
ちんぷんかんぷんと言いたげに首を傾げ、困惑の表情を浮かべているハル。それを見てキョースケは本日何度目となるのか分からない苦笑を浮かべる。
「まあ、大昔のSF兵器みたいなものだ。
――んで霊装は、そのどちらでもない伝説の武器とその恩恵を受けている複製品の総称だよ。神話や逸話に出てくる英雄豪傑たちのもつ武器防具なんかがそうだ。例を上げるなら、ギリシャ神話の英雄ペルセウスがメデューサの首を切り落としたときに使った孤月状の剣ハルペーとかか」
言い終えるとキョースケは、ビシ、とハルの手に収まっている『夢玉』に人差し指を向ける。
「ここで、憶測ではあるが、これは霊装の類だと俺は思う。宝貝は元来、戦前に存在した国中国に住むと言われる人間OBの仙人が道術っていう力で作った武器だから、気の流れ云々が存在しないそれは、宝貝である可能性が極めて低い。というか皆無だ。そして、魔術礼装に至っては完全に論外だ。今更そんなもんがあれば、オレ達は今度こそおしまいだからな」
「オレ達……?」
キョースケの最後の一言に、引っ掛かりのような感覚を覚え、ハルは首をひねりながらオウム返しをする。
「ああ、オレ達だ」
素っ気なく首肯する。
「ま、万が一はおろか、不可思議分の一にもありえないから安心しろ。断言する。ソイツは魔術礼装なんて物騒なもんじゃあねえ」
そう言ったキョースケには、謎の自信に満ちていた。
「よって消去法で霊装だと考えられる。まあ他にも、英雄豪傑じゃないにしても、伝説上の存在の持つ不思議道具、という意味でも仮説が付けられるわけだが」
そう話を終えると、キョースケは携帯電話のディスプレイを見て、
「おっ、もうこんな時間か。じゃあちょっとメシ頼むけど、お任せで良いか?」
キョースケはそう言いながらハルの方を向くと、ハルは頭から湯気を出していた。
「おいおい。頭やられるような難しい話だったか?」
思考回路をオーバーヒートさせて気を失っているハルを、呆れたように見ながらそう呟くキョースケ。
「……。まあ一応、二人分頼んどくか」
ボリボリと頭をかきながらそう呟くとキョースケは、電話でルームサービスを二人分取った。
以上、第2章でした。次回から急展開するんでしょうかね?
これを読んだ皆さんが次回を呼んで下さることを祈ります。ではまた。