2話 噂の本
実を言うと、私は噂の本を知っている。
春休み中に偶然見つけた。見つけてしまった、と言ったほうが正しいかもしれない。探す気すらなかった代物だ。見つけたところで必要ないのに、どうしろっていうんだろう。
今は出す気にも読む気にもならないが。というか、あの本は読めない。
図書室のカウンターに陣取ると、積み上げた本を上から3冊ほど取り、読んでいく。
静かで、平穏な至福の時間だ。
しばらくすると終礼が終わったのか、赤いリボンをした女子が群れで何人も図書室に入ってきて散らばり、キャイキャイしながら噂の本を探す。リボンの色から察するに新入生だろう。早速、精が出ることだ。
「…きっと…」
楽しいのだろうな、と私が思ったのは内緒だ。気のせいだろうし。
彼女たちは、恋がかなうと本気で信じている訳じゃなくて、皆と探すということがしたいのだろう。
「きっと…?」
「…別に」
小さな呟きを聞かれていたみたいで、返事など求めていなかったのに、冷静な性格だと思わせる静かな声が頭上から降って来た。それに反応して女子たちの方から目線を目の前に戻すと、私が積んだものとは別に本の山があった。それに埋もれて1人の男子生徒がいる。
コイツは眼鏡をしていて黒髪黒眼の誠実そうに見えるがいまいち性格が掴めないひょうひょうとしている生徒会書記の変な奴だ。
「相変わらず無愛想だね、白野さん」
「…そういう貴様は相変わらず本の虫だ」
今日は…12冊か。貸し出し処理をしながら奴、渡辺秀一の話に少し付き合うのが日課みたいなものだ。ちなみにいうと図書の貸し出しに上限はない。何冊か利用が、期日までに返してくれれば自由だ。渡辺は、翌々日くらいには返しに来て、また10冊ぐらい借りていく…というなかなかにハイペースなサイクルで本を借りていくやつだ。
「笑えば可愛いのに」
「私は笑えない」
「笑わないのではなくて?」
「…」
何とも言えない。ここ最近は笑おうとも思わないからな。あ、でも愛想笑いは何回かした、と思う。そのくらいだ。表情筋が働かないんだ。
「ああ。そう言えば白野さん。生徒会長が今度白野さんと話したいってさ」
「また唐突に…生徒会長か。良いだろう」
「じゃ伝えとくね。白野さん」
ニコリと笑う渡辺。そんなに嬉しいか?生徒会長って、誰だったかな。わからん、興味もない。
「…ああ」
渡辺は大量の本を抱えて図書室を出て行った。重くないんだろうか、よく持てるな。私だと…あの量は無理だ。男女差を意外なところで感じた。
それからしばらくすると、本を探していた女子たちも帰り、図書室には人がいなくなった。
人がいないのをもう一度じっくりと確認してから、カウンターに作り上げた本の山の1番下から噂の本を取り出した。何度見ても、確かに実在している。夢では、ない。幻でも、なかった。
少し黄ばみ、古さがに染み出る茶色の表紙の本で分厚さは5センチ程。題名は、金色で『恋愛論理』と書かれている。見返しはきれいな深緋色だ。あまり開かれていないのだろう。
そして気になる中身は…
「…やはり」
何も書かれていない。
つまり、白紙なのだ。何度見ても変わらない事実だ。見つけてから、何度か見てはいるけれど、字が書かれている様子はない。透かしでも、焙りでもない、と思う。火に焙ることはできないから焙りかどうかはわからないが、透かしではなかった。
「オース!白璃いるー?」
「五月蠅いぞ、風堂貴人」
マジマジと本を眺めていたら風堂貴人が図書室へ入って来た。…いちいちうるさい奴。許可もしていないのに名前で呼ぶなんて、何様のつもりなのだろう。
あわてて本を隠した。見られたら、たまらない。別に恋なんてしていないし。
「他に誰かいるかー?」
「誰もいないが」
そう答えると、風堂貴人は図書室の扉を後ろ手で閉じ、鍵も閉める。
いきなりの暴挙に目を見張った。どうしたっていうんだろう。鍵は、今は奥の部屋に引っこんでいる司書の先生と私が持っているだけだから、外からは開けられない。つまり、ほぼ完全な密室、というわけだ。内側からカギが開けられるから正しい表現ではないだろうが。
「…何を?」
「白璃と2人きりになりたくてさぁ」
は?
何を言い出すかと思えば、私と2人きり?何が楽しいっていうんだ、バカなのか。
「…ふざけているのか?」
「いないけど」
「なら、出て行け」
「ヤダ」
ゆっくりと歩を進めて風堂貴人はカウンターの前に立った。見下ろしてくる黒い目の、爛々と輝いていること。少し、身の危険を感じた。司書の先生、戻ってきてくれないだろうか。無理だろうな、どうせ本に没頭している。
「駄々をこねるな。迷惑だろう?」
さっさと出て行けばいいのに。
願いもむなしく、奴はカウンターの上を乗り越えてきた。積んだ本が崩れそうになって小さく悲鳴を上げた。やめろ、崩れたら本が壊れるかもしれないだろ。
只でさえ小物や本が置いてあって狭いカウンターの内側に、でかい風堂貴人が入り込んできたせいで、さらに狭くなる。
「なぁ、知ってる?男と密室で2人きりになる事の危険性」
「理解している」
今、ひしひしと感じている。何をする気かわからないが、悪い予感しかしない。
私の視線を感じてか、ペロリと舌なめずりをした。…あでやかだな。顔だけなら好みかもしれない。いや、恋をするつもりは全く、これっぽっちもない。
「してないよな?俺はこんなことだってでき…」
椅子に片足を乗り上げて腰をかがめた風堂貴人の腕が顔の横に来る。足の間に奴の脚をねじ込まれたせいで身動きのできない私は、風堂貴人の腕に閉じ込められているような形になった。これは…俗にいう壁ドン、のようなものか?実際にする奴、いたんだな。小説だけだと思っていた。
風堂貴人の顔が近くに来て、逃げるように仰け反る。が、背もたれに阻まれたせいで距離はあまり変わらなかった。風堂貴人も椅子に体重をかけてきたから、後ろへ傾く。少し怖い。椅子からギシリと軋む音が鳴った。壊れない、よな?
「貴様はそういう事をする人間には見えない」
というか、まだ春休みが明けてから1週間も経っていないのだが…早々に問題を起こすつもりなのだろうか。教師に見られたら一発で停学処分が下るんじゃないか?私は被害者で通せるだろうか。…無理、だな。
「どーかな?俺だって男だしぃ」
ニヤリと笑い風堂貴人は私のリボンに手をかける。
…さすがに抵抗しないと、これはちょっとダメだろうな。好きでもないのに、触られたくないし。
日に焼けた骨ばった手を払いのける。簡単に、払えたことに拍子抜けする。本気じゃないのかもしれない、な。私としても本気でないほうが嬉しい。むしろ本気にならないでほしい。こんなかわいげのない女を襲ってどうするつもりだか。
「それは止めろ」
「ええぇ。白璃、俺とイーコトしよーぜ?」
「しない。私がそういうことするような人間に見えるか?」
手が払えたことに気をよくして、今度は風堂貴人自体もどかそうとする。力いっぱい風堂貴人を押しのけるが奴は、…悔しい事に男だった。びくりとも動かない。なんなのだ、こいつは。あきらめて、されるがままに流されてやる。リボンの感触でも気に入ったのか、しきりにいじってくる。形が崩れるからやめてもらいたいものだが…面倒くさくなったし、放っておくか。
「そんな弱っちい力じゃ俺はどかせられないぜ?それに図書室、鍵かけちゃったしなぁ…誰も来ないんじゃね?」
「だから止めろと言っているのだが」
「そーいうの、そそるな」
とか言っている割にはいじりまくっているリボンを解く訳でもない。いったい何がしたいというのかまったくもってわからない。
「貴様は何がしたいのだ?」
「べっつにぃ」
どことなく、いつも見せているおちゃらけた表情が曇っているように見えた。悩み事でもあるのか?だとしたら…部活、だろうな。らしくないと調子が狂うじゃないか。しゃんとしてほしい。
「部活だろう?貴様は確かサッカー部の部長だったな?なにか、後輩に言われたのか?」
詳しく知らないが、というか詳しく知ろうとも思わないのだが、サッカー部はこの周辺でそこそこ強く、有名らしい。何とか大会で優勝したんだぜ、だとか風堂貴人が去年言っていたような気がぼんやりとしなくもない。
「…」
風堂貴人は沈黙し、私の上からどいた。あっさりと、言葉だけでどいてくれたことに安堵する。よかった、実力行使されなくて。本当によかった。
と、言う事は。
「…図星、だな」
「るせ。お前に言いたくねぇ」
「何故?」
「…べっつにぃ。白璃にはかんけーねーし。あ~あ、興ざめした…」
風堂貴人はソッポを向いて言い、図書室を出て行ってしまった。鍵を開ける際に戸惑っていたのは愛嬌といったところだろう。…開けられないなら閉めなきゃいいのに。
なにか、いけなかったのだろうか…?
「?何だったんだ?」
理解不能だな。男の人ってそういうものだったりするのか?
そろそろ、帰るか…。
「ただいま…」
言ったところで返事が無いのは分かっりきっているけれど、無言で入る気にもならない。ガランとした家は、一人で使うには少々大きすぎる。早く、兄さんが戻ってきてくれると嬉しかったりする。が、連絡がつかないから戻ってくるつもりはないんだろう。
ふと一人きりが、少しさみしく思えた。最近は何かと話しかけてくるうるさい奴が一人はいたのだから。絶対に認めないけれども。




