魔力を込めるだけで薬ができると思っていました? それでは、お好みの「泥水」をどうぞ
「……よし。これで、最後ね」
薬草調合鍋の前に立って、私は静かに呟いた。
ガラスの攪拌棒を引き上げると、かすかに甘い薬草の香りが立ち上る。
透明で清らかな薄緑色の液体。それが、私の調合した「魔力活性薬」だった。
その時、調合室の重い木製のドアが、乱暴に開け放たれた。
「おい、セリア! いつまでそうやって時間をかけているんだ」
入ってきたのは、私の婚約者であり、この調合室の責任者でもある宮廷魔術師のルパートだった。
彼の後ろには、見慣れない華やかなドレスを着た女性が立っている。
「ルパート様。魔力活性薬の調合は、最後の魔力中和の段階で慎重に混ぜないと、薬の成分が不安定に……」
「言い訳はいい。お前がただ時間をかけて鍋をかき混ぜているだけなのは、とうに分かっている」
ルパートは私の言葉を遮り、鼻で笑った。
「紹介しよう。こちらは新しく調合室に入ることになった、聖女候補のエヴェリン様だ」
「初めまして、セリアさん。あなたが噂の、手際の悪い調合助手の方ね」
エヴェリンと呼ばれた女性が、扇で口元を隠しながら、くすくすと笑った。
金色の巻き髪がきらきらと揺れる。
その瞳には、私を見下す色が露骨に浮かんでいた。
「聖女候補の、エヴェリン様……ですか。なぜ彼女がここへ?」
「簡単なことだ、セリア。お前は今日限りで、この王宮調合室をクビにする」
ルパートが冷酷に言い放った。
私の胸の奥が、すっと冷えていくのを感じた。
「クビ、ですか…理由は、何でしょうか」
「非効率だからだ。お前が一鍋調合するのに、丸一日かけている間に、エヴェリン様ならその十倍の魔力を使って、一瞬で調合を終わらせてくださる」
「そうですわ、セリアさん。魔力活性薬なんて、ただ薬草に魔力を注ぎ込んで混ぜるだけでしょう? そんな地味な作業に一日中つき合わされるなんて、ルパート様も可哀想ですわ」
エヴェリンが、ルパートの腕に甘えるように寄り添った。
ルパートは満足そうに頷き、私を冷たく見下ろした。
「宮廷魔術師団は、常に効率を求めている。お前のような無能な調合師を雇っておく余裕はないんだ。それに……お前の代わりなど、いくらでもいる」
「……私の、代わりですか」
私は、自分の手元にある透明な活性薬を見つめた。
この薬をこの透明度にするために、どれだけの神経を使って魔力の淀みを中和してきたか。
でも、彼らにとってはただの「時間の無駄」だったらしい。
「…わかりました」
私は攪拌棒を丁寧に置き、エプロンを外した。
「え……?」
ルパートが、少し拍子抜けしたような声を上げた。
「おい、泣いてすがるかと思ったが、随分とあっさりしているな」
「引き留めてほしいのですか?……私には、これ以上ここでのお仕事は務まりそうにありませんから、お望み通りにいたします」
私は引き出しから、あらかじめ用意しておいた書類を取り出した。
「婚約解消の合意書です。私たちの間には、家同士の複雑な契約もありませんし、これで正式に白紙に戻させていただきますね」
「なっ……!お前、婚約解消だと? 本気で言っているのか!」
ルパートの顔が、怒りと困惑からなのか真っ赤になった。
「本気です。魔力も仕事も優秀なエヴェリン様が補佐をしてくださるのですから、私のような無愛想な婚約者は不要でしょう?この書類にはすでにサインはしてありますので。それでは、ごきげんよう」
「あ、おい! 待て、セリア!」
ルパートの呼びかける声を背中に聞きながら、私は一度も振り返らずに調合室を出た。
肩の荷が、すうっと軽くなっていくのが分かった。
セリアが去った翌日。
王宮調合室は、朝から異様な熱気に包まれていた。
「ルパート様! 見ていてくださいね。私の素晴らしい聖女の魔力で、一瞬で活性薬を作ってみせますわ!」
エヴェリンが自慢げに両手を鍋にかざした。
「ああ、頼むよ、エヴェリン。あのセリアのせいで、騎士団への納品が滞っていたんだ。お前の力で、一気に遅れを取り戻してくれ」
ルパートは期待を込めて彼女を見つめる。
エヴェリンが目を閉じ、祈るように叫んだ。
「光の魔力よ、満ちよ!」
凄まじい魔力の光が調合鍋を包み込んだ。
鍋の中の液体が、急速に魔力を吸収して渦巻く。
「どうです! もう完成しましたわ!」
エヴェリンが誇らしげに胸を張った。
しかし、光が収まった瞬間、ルパートの表情が固まった。
「……おい、エヴェリン。これは、何だ?」
「え……?」
鍋の中を覗き込んだエヴェリンも、息を呑んだ。
透明な薄緑色になるはずの活性薬は、見る影もなく、黒く濁った「泥水」のようになっていた。
表面にはドロドロとした泡が立ち、鼻を突くような悪臭が漂っている。
「うっ……! 何だ、この臭いは! 薬草が腐ったのか?」
ルパートが袖で鼻を覆った。
「そ、そんなはずありませんわ…私は完璧にレシピ通りに調合しました!魔力もたっぷり込めましたのに!」
「しかし、これではただのドブ水だ!騎士たちに飲ませられるわけがないだろう!」
「も、もう一度やりますわ!今度はもっと魔力を込めます!」
エヴェリンは焦ったように、次の材料を鍋に放り込み、さらに強い魔力を注ぎ込んだ。
しかし、何度やっても、どれほど強い魔力を込めても、出来上がるのは黒く濁った不気味な液体だけだった。
調合室の中は、異臭と黒い泡で満たされていく。
その時、ドアが勢いよく開いた。
「おい、ルパート! 活性薬の納品はどうなっている!」
入ってきたのは、甲冑を身にまとった近衛騎士団長だった。
「訓練で負傷した団員たちが、薬の到着を待っているんだ。今日中に百本納品される手はずだったろう!」
「き、騎士団長閣下……」
ルパートは冷や汗を流しながら、必死に言い訳を探していた。
「それが……少々、調合に手違いがございまして」
「手違いだと?いつもなら、セリア嬢が朝一番に届けてくれていたはずだ。彼女はどうした?」
「あの無能な助手なら、昨日クビにしましたわ!」
エヴェリンが、自分の失敗を隠すように叫んだ。
「これからは、この聖女候補である私が調合を担当します!今、少しだけ魔力の調整を行っているところです!」
騎士団長は、鍋の中の黒いドロドロとした液体と、漂う悪臭に目を留めた。
「……これが、聖女の調合した薬だと言うのか?どう見ても毒水にしか見えんが」
「ひっ……!」
「ルパート。お前、一体何をやったんだ。説明しろ!」
騎士団長の怒声が、調合室に響き渡った。
ルパートは青ざめた顔で、ただ立ち尽くすしかなかった。
王都から遠く離れた、グレイウッド開拓領。
ここは一年中霧が深く、静かな森に囲まれた私の実家がある場所だ。
「セリア、この薬草の乾燥具合はどうかな」
「ええ、完璧よ、トビアス。さすがね」
私は薬草園の広場で、幼馴染のトビアスと一緒に、収穫した薬草を麻袋に詰めていた。
王宮の息苦しい調合室とは違い、ここには心地よい風と、土の匂いがある。
「王宮をクビになったって聞いた時は驚いたけど、元気そうでよかったよ」
トビアスが心配そうに私を覗き込んできた。
「ええ。最初は、私って本当に仕事が遅くて無能なのかしらって落ち込んだりもしたけれど……ここに戻ってきたら、そんな悩み、どうでもよくなっちゃった」
私は薬草の葉を優しく撫でた。
「魔力活性薬を調合する時、ただ混ぜるだけじゃ駄目なの…。魔力を注ぐと、どうしても不安定な淀みが発生するのよ。それを、自分の魔力で少しずつ吸着して、中和してあげないといけない。そうしないと、薬草の成分が魔力と反発して、腐ってしまうの」
「魔力の中和……それを、君は一人でやっていたのか?」
トビアスが驚いたように目を丸くした。
「ええ。地味で時間のかかる作業だから、ルパート様には『サボっている』ように見えたみたいだけど」
「なんて愚かな魔術師だ。そんな高度な制御、並の魔術師にできるはずがないのに。セリア、君はやっぱり凄い調合師だよ」
トビアスは真剣な目で私を見つめた。
「ありがとう、トビアス。そう言ってもらえるだけで、救われるわ」
「本当のことさ。ほら、君が作ったこの新しい傷薬も、領民たちにすごく評判がいいんだ。痛みがすぐに引いて、傷跡も残らないって、みんな喜んでる」
トビアスは棚に並んだ小さな薬瓶を指さした。
私がグレイウッドに戻ってから、地元のハーブを使って作った、優しい傷薬だ。
「さあ、仕事はこれくらいにして、お昼にしよう。今日は美味しいミートパイを焼いたんだ」
「嬉しい!トビアスの作るミートパイ、一番大好きなの」
私たちは並んで小さな木製のテーブルにつき、温かいスープとミートパイを食べた。
美味しいものを食べて、笑い合える。
ただそれだけのことが、今の私には何よりも愛おしかった。
それから数日後。
グレイウッドの薬草園に、場違いな豪華な馬車が到着した。
馬車から降りてきたのは、やつれ果てた顔のルパートと、ドレスの裾を泥で汚したエヴェリン、そして……見慣れない厳格な表情の老魔術師だった。
「セリア!やはりここにいたか!」
ルパートが私を見つけるなり、怒鳴り散らしながら駆け寄ってきた。
「ルパート様。なぜこちらへ?」
私は立ち上がり、冷静に問いかけた。
その隣で、トビアスが警戒するように一歩前に出る。
「とぼけるな! お前、調合室の鍋にどんな呪いをかけた!」
「呪い……ですか?」
「そうだ!お前が去ってから、活性薬がすべて黒い泥水になってしまうんだ! エヴェリン様がどんなに調合しても使えない!きっと…お前が仕組んだに違いない!」
ルパートは狂ったように私を指さした。その目は赤く血走っている。
「そうですわ!あの無能なあなたが、私への嫉妬で呪いをかけたのでしょう! 早く呪いを解きなさい!」
エヴェリンも金切り声を上げた。
彼女の自慢の髪は乱れ、煌びやかだったはずのドレスも泥だらけで汚れ、聖女候補としての面影はどこにもない。
私は、ため息をつくのも忘れて、二人を静かに見つめた。
「私は呪いなどかけていません。昨日も説明しましたが、魔力活性薬には魔力の中和が必要です。それを怠れば、薬が魔力で破壊されて泥水になるのは、調合の基本でしょう?」
「基本だと?そんな面倒な作業、レシピには書いていなかったぞ!」
「レシピに書いていなくても、魔力の流れを見れば分かるはずです。……魔術師様なら、それくらい理解できると思っていました」
「くっ……お前、この俺を愚弄するか!」
そう言って、ルパートが手を上げようとした瞬間。
「そこまでにしなさい、ルパート」
後ろに控えていた老魔術師が、冷厳な声で制止した。
ルパートはその一声でびくりと肩を震わせ、手を引っ込めた。
「か、監査官閣下……」
老魔術師は、王宮の魔術監査官だった。
彼は薬草園の周囲を見回し、私の手元にある調合器具に視線を留めた。
「セリア嬢。君がここで作ったという傷薬を、少し見せてもらえるかね」
「……はい、どうぞ」
私は棚から薬瓶を一つ手渡した。
監査官は蓋を開け、匂いを嗅ぎ、自らの魔力を少しだけ流し込んだ。
その瞬間、老監査官の目が驚きに見開かれた。
「なんと……澱みが一切ない。極めて純度が高い魔力制御だ。薬草の特性が完全に活かされている」
監査官はルパートに向き直った。
「ルパート。お前は、このレベルの技術を持つ調合師を『無能』と呼び、追い出したのか?」
「そ、それは……!しかし、彼女は一鍋に一日もかけていたのです!エヴェリン様なら……」
「黙れ、この愚か者が!」
監査官の怒声が、静かな薬草園に響き渡った。
「魔力中和のプロセスを『サボり』と断じ、ただ魔力を注ぎ込めば薬ができると思い込んでいたとは。お前の魔術師としての目は節穴か!エヴェリンがどれほど魔力を注ごうと、中和技術がなければすべては毒水と化す。そんなことも分からずに、よく責任者を名乗れたものだ!」
「あ、監査官閣下! 私は、私はただ……!」
ルパートは顔面蒼白になり、その場に膝をついた。
「エヴェリンも同様だ。魔力が多いだけの未熟者を聖女候補として推薦したことも、大いなる間違いであった。お前たちの怠慢と虚偽報告により、近衛騎士団の治療がどれほど滞ったか分かっているのか!」
「そんな……私は、私は聖女候補なのに……!私には何もなかったって言うの…?」
エヴェリンが絶望したようにへたり込んだ。
監査官は私に向き直り、丁寧な口調で言った。
「セリア嬢、君の有能さは証明された。王宮調合室は、お前のような本物の技術者を必要としている。ルパートは解任し、責任者と魔術ライセンスも剥奪する。エヴェリンの推薦も取り消す。どうか、王宮に戻って調合室の責任者になってはくれないか?」
ルパートとエヴェリンが、縋るような目で私を見つめた。
もし私が戻れば、彼らの罪も少しは軽くなると思っているのだろう。
私は、ルパートを静かに見つめた。
かつて、私に「代わりはいくらでもいる」と言い放った男。
今、その男が私の足元で震えている。
けれど、私の心には、怒りも復讐心も、何も湧いてこなかった。
ただ、冷めた紅茶を見つめるような、そんな静かな気持ちだけがあった。
私ははっきりと答えた。
「私は、王宮には戻りません」
「な……なぜだ? 君ほど有能な調合士なら、最高の待遇を用意するが」
監査官が不思議そうに尋ねた。
「私の調合は、遅くて非効率ですから。王宮の求める『効率』には、私のやり方はきっと合っていません。私は……ここで、自分の薬を必要としてくれる人のために、丁寧な調合を続けたいのです」
私はトビアスを見た。
トビアスは嬉しそうに微笑み、私の手をそっと握ってくれた。
「……そうか。実にもったいないことだが、君の意志は固いようだな。この者たちが迷惑をおかけした」
監査官は深くため息をつき、ルパートたちを冷たく見下ろした。
「ルパート、エヴェリンを連行しろ」
同行していた衛兵たちが、抵抗する力を失った二人を馬車へと引きずっていった。
馬車が去り、薬草園に再び静寂が戻ってきた。
それから一ヶ月後。
王宮から、一通の公式な書簡が届いた。
ルパートは魔術師としての資格を完全に失い、地方の開墾地へ強制労働に送られたという。
エヴェリンも聖女候補の籍を剥奪され、平民として修道院での奉仕を命じられたらしい。
手紙には、彼らからの直筆の謝罪文も同封されていた。
『セリア、本当に申し訳なかった。どうか許してほしい』
『私が間違っていました。戻ってきてください』
私はその手紙を読んだ後、そっと折りたたみ、引き出しの奥の方に仕舞い込んだ。
もちろん、返事は書かなかったし、これからもこの手紙を見返すことすらないだろう。
「セリア、おめでとう!」
トビアスが嬉しそうに部屋に入ってきた。
その手には、領主館からの書類がある。
「君の作った新しい傷薬が、このグレイウッド領だけでなく、隣領の騎士団の正式な常備薬として採用されることが決まったよ!」
「え……本当に?」
「ああ。王宮の秘薬よりも副作用が少なくて、傷の治りが圧倒的に早いって、大絶賛されているんだ。これから忙しくなるぞ」
トビアスは私の手を両手で握りしめた。
「忙しくなるのはいいけれど……この丁寧な調合は変えないわよ?」
「もちろんさ。君の丁寧な調合だからこそ、みんなが救われるんだ。僕も全力で手伝うからね」
トビアスの温かい手が、私の緊張をほぐしていく。
王宮の冷たい調合室で、誰の目にも留まらずに攪拌棒を握っていた日々。
あの時は、自分が何のために薬を作っているのか分からなかった。
けれど今は、目の前に私の薬を待ってくれる人がいて、隣には私を信じて支えてくれる人がいる。
私は、もう誰かの効率のために自分を殺したりしない。
自分の技術を愛し、大切な人と共に生きていく。
それが、私が選んだ、薬草調合師としての私の未来だった。
【完】




