最後の一撃
研究室の床に、教授は倒れていた。
白衣が不自然に広がり、割れたマグカップの破片がその周りに散らばっている。机から落ちたペンは、途中で止まった思考のように転がっていた。
そして、
血。
だが、その光景は奇妙なほど静かだったらしい。
それを見つけたのは、助教だった。
私はその場にいなかった。
いなかったはずだった。
「他殺の可能性が高いそうです」
助教の声が、研究室に落ちる。
ざわめきが広がる。
誰もが驚いた顔をしていたが、その奥にある感情は一様ではなかった。
恐怖。
困惑。
そして、
ほんのわずかな、安堵。
私は何も言わず、机の上の自分のノートを見つめていた。
頭の奥で、あの言葉が繰り返される。
「死んだらいいのに」
教授は、そう思わせる人だった。
気に入らない学生には、何も教えない。
論文を出せば、「違う」の一言。
理由は説明しない。
「自分で考えることが大切だ」
それだけを繰り返す。
私も、その一人だった。
何度も書き直し、何度も否定され、そして単位を落とされた。
「もう一年必要だね」
軽く言われたその一言で、私の時間は簡単に引き延ばされた。
研究室には、同じように疲れ果てた人間が何人もいた。
そして、何人も消えた。
自主退学した者。
壊れた者。
壊れかけた者。
残ったのは、我慢している者、何も感じなくなった者だけだった。
「あなた、教授とトラブルは?」
刑事が、淡々と尋ねる。
「いいえ」
私は答える。
「指導は厳しかったです。でも、必要なことだと思っていました」
驚くほど滑らかに言葉が出た。
「昨夜はどこに?」
「家にいました」
嘘だ。
その夜、私は研究室にいた。
午後十時過ぎ。
廊下は暗く、ほとんど無人だった。
教授の部屋には、灯りがついていた。
ドアの前で立ち止まる。
ノックしようとして、やめた。
どうせ、
「違う」
そう言われるだけだ。
手を下ろした、そのとき。
中から声が聞こえた。
「これは論文にならない。だから、それは研究になっていないと言っているだろう」
教授の声。
そして、もう一人。
「じゃあ、どうすればいいんですか。どこが、違うんですか」
後輩の声だった。
震えていた。
「自分で考えろ」
「考えました」
「違う」
その一言で、すべてが断ち切られる。
沈黙。
そして、
「ふざけるな」
甲高い声。
限界の音。
次の瞬間、何かがぶつかる鈍い音がした。
息を呑む。
さらに、
ガシャン、と割れる音。
私はドアノブに手をかけ、やめた。
そのまま、逃げるようにその場を離れた。
振り返らなかった。
数日後、犯人は見つかった。
後輩だった。
あっさりと、自白した。
本棚の本で殴った、と。
誰もが納得した。
動機は十分だった。
あの研究室にいた誰もが、一度は思ったことのある感情。
その一線を越えただけだ、と。
「これで終わりですね」
誰かが言った。
私は、なぜか納得できなかった。
事件の部屋に、もう一度入る。
まだ片付けきれていない空気が残っている。
床の染み。
壁の小さな傷。
そして、机の上。
私の論文。
赤ペンで書かれた文字。
「違う」
その先が、途切れている。
私は紙を裏返し、光にかざす。
うっすらと筆圧の跡。
「何をしているんですか」
背後から声。
助教だった。
「論文の続きです」
「もう評価は終わっていますよ」
「終わっていなかったみたいです」
私は紙を見せる。
助教の表情が、一瞬だけ止まる。
「不思議なんです」
私は言う。
「致命傷になるほど殴られたのに、血が少ない」
沈黙。
空気が変わる。
「あの夜、音を聞きました」
助教は何も言わない。
「最初に、鈍い音。そのあとで、割れる音」
私は振り返る。
「一度では、死んでいない」
助教の目は、静かだった。
「最初に殴ったのは後輩です」
「……」
「でも、そのあと誰かが入った」
一歩、距離を取る。
「あなたですよね」
沈黙。
数秒。
やがて、
助教は、小さく息を吐いた。
「惜しいですね」
その声は、どこか軽かった。
「半分は当たりです」
「彼が来たのは予定外でした」
助教は机に手をつく。
「私は、あの日、別の話をしに来ていた」
「あのやり方を、やめさせるために?」
「ええ。でも、その前に彼が壊れた」
淡々と続ける。
「殴って、倒して、逃げた」
「あなたは、そのあと入った」
「そうです」
あまりにも簡単に認めた。
「まだ息があったので、終わらせた」
頭の中で、何かが静かに崩れる。
「どうして」
私の声は、驚くほど平坦だった。
助教は少しだけ考え、
「さあ」と言った。
そして、静かに続ける。
「誰でも思ったことがあるでしょう」
否定できなかった。
「あなたも、そう思ったはずだ」
私は答えない。
「通報しますか」
助教は、穏やかに言う。
私は窓の外を見る。
夕焼け。
何も変わらない世界。
この部屋だけが、歪んでいる。
「わかりません」
正直に言った。
助教は、小さく笑った。
「そうでしょうね」
翌日、私は警察に行った。
何をどう話したのか、細かいことは覚えていない。
ただひとつ、確かなことがある。
「違う」と言われ続けた私が、
初めて、自分で選んだ答えだった。




