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最後の一撃

作者: さくら
掲載日:2026/04/07

研究室の床に、教授は倒れていた。


白衣が不自然に広がり、割れたマグカップの破片がその周りに散らばっている。机から落ちたペンは、途中で止まった思考のように転がっていた。


そして、

血。


だが、その光景は奇妙なほど静かだったらしい。


それを見つけたのは、助教だった。


私はその場にいなかった。


いなかったはずだった。




「他殺の可能性が高いそうです」


助教の声が、研究室に落ちる。


ざわめきが広がる。


誰もが驚いた顔をしていたが、その奥にある感情は一様ではなかった。


恐怖。


困惑。


そして、

ほんのわずかな、安堵。


私は何も言わず、机の上の自分のノートを見つめていた。


頭の奥で、あの言葉が繰り返される。


「死んだらいいのに」


教授は、そう思わせる人だった。


気に入らない学生には、何も教えない。


論文を出せば、「違う」の一言。


理由は説明しない。


「自分で考えることが大切だ」


それだけを繰り返す。


私も、その一人だった。


何度も書き直し、何度も否定され、そして単位を落とされた。


「もう一年必要だね」


軽く言われたその一言で、私の時間は簡単に引き延ばされた。


研究室には、同じように疲れ果てた人間が何人もいた。


そして、何人も消えた。


自主退学した者。

壊れた者。

壊れかけた者。


残ったのは、我慢している者、何も感じなくなった者だけだった。




「あなた、教授とトラブルは?」


刑事が、淡々と尋ねる。


「いいえ」


私は答える。


「指導は厳しかったです。でも、必要なことだと思っていました」


驚くほど滑らかに言葉が出た。


「昨夜はどこに?」


「家にいました」


嘘だ。




その夜、私は研究室にいた。


午後十時過ぎ。


廊下は暗く、ほとんど無人だった。


教授の部屋には、灯りがついていた。


ドアの前で立ち止まる。


ノックしようとして、やめた。


どうせ、


「違う」


そう言われるだけだ。


手を下ろした、そのとき。


中から声が聞こえた。


「これは論文にならない。だから、それは研究になっていないと言っているだろう」


教授の声。


そして、もう一人。


「じゃあ、どうすればいいんですか。どこが、違うんですか」


後輩の声だった。


震えていた。


「自分で考えろ」


「考えました」


「違う」


その一言で、すべてが断ち切られる。


沈黙。


そして、


「ふざけるな」


甲高い声。


限界の音。


次の瞬間、何かがぶつかる鈍い音がした。


息を呑む。


さらに、

ガシャン、と割れる音。


私はドアノブに手をかけ、やめた。


そのまま、逃げるようにその場を離れた。


振り返らなかった。




数日後、犯人は見つかった。


後輩だった。


あっさりと、自白した。


本棚の本で殴った、と。


誰もが納得した。


動機は十分だった。


あの研究室にいた誰もが、一度は思ったことのある感情。


その一線を越えただけだ、と。


「これで終わりですね」


誰かが言った。


私は、なぜか納得できなかった。


事件の部屋に、もう一度入る。


まだ片付けきれていない空気が残っている。


床の染み。


壁の小さな傷。


そして、机の上。


私の論文。


赤ペンで書かれた文字。


「違う」


その先が、途切れている。


私は紙を裏返し、光にかざす。


うっすらと筆圧の跡。




「何をしているんですか」


背後から声。


助教だった。


「論文の続きです」


「もう評価は終わっていますよ」


「終わっていなかったみたいです」


私は紙を見せる。


助教の表情が、一瞬だけ止まる。


「不思議なんです」


私は言う。


「致命傷になるほど殴られたのに、血が少ない」


沈黙。


空気が変わる。


「あの夜、音を聞きました」


助教は何も言わない。


「最初に、鈍い音。そのあとで、割れる音」


私は振り返る。


「一度では、死んでいない」


助教の目は、静かだった。


「最初に殴ったのは後輩です」


「……」


「でも、そのあと誰かが入った」


一歩、距離を取る。


「あなたですよね」


沈黙。


数秒。


やがて、


助教は、小さく息を吐いた。


「惜しいですね」


その声は、どこか軽かった。


「半分は当たりです」


「彼が来たのは予定外でした」


助教は机に手をつく。


「私は、あの日、別の話をしに来ていた」


「あのやり方を、やめさせるために?」


「ええ。でも、その前に彼が壊れた」


淡々と続ける。


「殴って、倒して、逃げた」


「あなたは、そのあと入った」


「そうです」


あまりにも簡単に認めた。


「まだ息があったので、終わらせた」


頭の中で、何かが静かに崩れる。


「どうして」


私の声は、驚くほど平坦だった。


助教は少しだけ考え、


「さあ」と言った。


そして、静かに続ける。


「誰でも思ったことがあるでしょう」


否定できなかった。


「あなたも、そう思ったはずだ」


私は答えない。


「通報しますか」


助教は、穏やかに言う。


私は窓の外を見る。


夕焼け。


何も変わらない世界。


この部屋だけが、歪んでいる。


「わかりません」


正直に言った。


助教は、小さく笑った。


「そうでしょうね」




翌日、私は警察に行った。


何をどう話したのか、細かいことは覚えていない。


ただひとつ、確かなことがある。


「違う」と言われ続けた私が、


初めて、自分で選んだ答えだった。

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